第015話:この先、未測
ラースは木槌を握り直し、湖畔の硬い小石混じりの地面へ深く杭を打ち込んだ。
腰の革袋から水準器を取り出し、杭の頭へそっと当てる。
ガラス管の内部で揺れる気泡が、二本線の真ん中にぴたりと収まるのを見届けた。
「よし、傾きはありません」
「今日は随分と念入りじゃないか。杭の顔が映るくらい見つめてるな」
後ろから検定縄を繰り出していたマルタが声をかけてきた。
ラースは屈んだ姿勢のまま、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「昨日の失敗がありますから。地面の硬さを確かめずに進めたら、また内角の和が狂ってしまいます」
「分かればいいんだよ、分かれば。道具ってのは、使い手の心構えをそのまま映すもんだ」
マルタが縄の張り具合を指先で弾いた。
歩み寄ってきたブルーノが、小脇に抱えた厚紙の板へ数値を書き留める。
「それでいい。杭が傾きゃ、どんなに遠くを睨んでも線は曲がる。……イルゼ、次の岬までの見通しはどうだ」
「サイト」
前方の岩場に立つイルゼが、指先を湖の湾曲に沿って掲げた。
淡い光の輪が木々の間を抜け、突き出た岩の突端を照らし出す。
「見通し線、通りました。次の屈曲点まで、およそ220メートルです」
「よし。ラース、縄を送れ。次の杭を打つぞ」
「はい!」
隊は手分けをして作業を進めた。
ブルーノが方位盤で方角を読み、ラースが杭を打ち込んで検定縄を渡す。
イルゼの魔法で見通し線を確かめ、マルタが道具の狂いを点検した。
少し離れた湖岸では、ヴァルターが周囲の木立に目を配っていた。
昨日の巨大な足跡がどこへ向かって伸びているか、慎重に足取りを追っている。
*
湖の輪郭は、想像以上に複雑だった。
水辺には3つの岬が突き出し、その合間に深い入り江が入り込んでいる。
ラースは歩幅を揃え、岬の突端と入り江の最奥を一つひとつ杭で結んでいった。
小石に足を取られながらも、杭を打つたびに水準器と方位盤の気泡を確かめる。
昨日のような狂いは、ひとつも出さなかった。
太陽が天頂へ昇る頃、湖岸の砂利場から香ばしい煙が立ちのぼった。
風を遮る岩棚の下で、ホルストが四本の枝を組んだ干し網を作り、炭火で魚を燻していた。
昨晩釣り上げたマスを捌いて塩を揉み込み、香木を焚いた煙でじっくりと燻製に仕立てている。
「さあ、お昼よ! 焼きたての魚の身をほぐした雑穀粥と、燻製の味見よ!」
全員が腰を下ろし、湯気の立つ木椀を受け取った。
琥珀色に燻された魚の切り身は、豊かな煙の香りを纏い、脂の乗った白身が舌の上でほろりと崩れる。
「うまい……! 塩加減もちょうどいいです」
「当たり前じゃない。塩揉みして風に当ててから燻してるのよ。これで鉱山町までの帰り道、干し肉ばかりで顎を痛めずに済むわ」
ホルストが得意げに胸を張った。
足元では、魚の皮の香りに惹かれたフロッケが、白い鼻先をくんくんと鳴らして駆け寄ってきた。
荷の脇に落ちた魚の欠片へ飛びつこうとした瞬間、すぐ横に繋がれていたシュネッケが鼻を鳴らし、前脚で砂利を蹴った。
「キャン!」
フロッケは小さな白い塊になって転がり、ラースの長靴にしがみついた。
マルタが粥をすすりながら笑う。
「シュネッケに怒られたな。あいつはせっかちだから、足元をちょろちょろされるのが嫌いなんだ」
「ほらフロッケ、こっちへいらっしゃい。あんたの分はちゃんと骨を抜いてあるわよ」
ホルストが差し出した木皿に、フロッケはしっぽを振りながら顔を埋めた。
隣ではブリッツが、道端の青草をのんびりと噛みながら、大きな耳を前後に揺らしている。
ブルーノが木椀を置き、燻製の仕上がりを指先で確かめた。
「身が締まってて悪くねえ。煙をしっかり吸わせりゃ、荷馬の背でも十分に保つな」
*
午後も測量は続いた。
湖の外周はおよそ3キロメートルに及んだ。
昨日の入り江を挟んだ巨岩も、対岸から伸ばした三角測量の線とぴたりと繋がり、閉じた一つの輪になった。
作業を終えたラースとブルーノは、平らな大岩の上に厚手の羊皮紙を広げた。
現場図の2枚目となる真っ白な紙面だ。
ブルーノが野帳の記録を元に、鉛筆と定規を使って慎重に下書きの線を走らせる。
「ラース、墨入れを頼む」
「はい」
ラースは真鍮の軸のペン先を黒い油煙の墨液に浸し、鉛筆の線に沿って細い描線を引いていった。
インクが乾くにつれて、紙の上に湖の全容が浮かび上がってくる。
それは、暫定版の丸い余白とは、まったく異なる形だった。
3つの岬が細長く張り出し、西側の入り江が深く切れ込んでいる。
複雑に、いびつな形だった。
ラースはペン先を止め、湖の北側に広がる余白を見つめた。
湖の輪郭を描き終えても、その北側には、白紙の羊皮紙が遥か先まで広がっている。
青く霞む北の山並みの手前には、何ひとつ線が引かれていない。
「……湖を一周測り終えたのに、白がちっとも減りませんね」
ラースの呟きに、定規を拭っていたブルーノが顔を上げた。
「そういうもんだ。紙の上の白いところはな、1つ測れば、その先にまた新しい白が広がる。地図の仕事なんてのは、死ぬまで終わらねえのさ」
「死ぬまで、ですか」
「ああ。だが、測った分だけは確実に黒い線になる。嘘のない線がな」
ブルーノはラースの手元を指差し、北岸の砂利場の位置を示した。
「そこに書き足しておけ。昨日見つけた足跡と、ヴァルターが追った先の記録だ」
「はい」
ラースはペンの先を整え、湖の北端の岸辺に『大型の魔物の足跡。この先、危険』と小さな文字で書き加えた。
*
「で、この湖、何て呼ぶんだい?」
岩の周りに集まってきたマルタが、腕を組んで紙面を覗き込んだ。
「王立地図局へ提出する現場図に『名もなき湖』じゃ、格好がつかないだろ」
「あら、それなら『マス湖』でいいじゃない! こんなに脂の乗った魚が釣れる素晴らしい湖なんだから!」
ホルストが即座に声を張り上げた。
マルタが鼻を鳴らす。
「風情も何もないな。あたしなら『道具箱湖』にする。杭やら縄やら、持ってきた道具を全部使い倒したんだからな」
「……『サイト湖』。光が綺麗に通りました」
イルゼがぽつりと言った。
ラースが隣のヴァルターを見上げると、護衛の男は首を横に振った。
「私は護衛の立場です。隊長がお決めになるのが筋でしょう」
「キャン!」
足元でフロッケが短く吠えた。
ブルーノは、頭をがしがしと掻いて、息を吐いた。
「どいつもこいつも自分の都合ばかり並べやがって。……ラース、お前はどうだ。一番縄を引いて歩いたのはお前だぞ」
全員がラースの顔を見つめた。
ラースは現場図の中央に描かれた湖の姿を見つめ、それからブルーノを見た。
「……『フラーゲ』というのは、どうでしょうか」
「フラーゲ? 古い言葉の『問い』か」
「はい。隊長が最初の図に書いていた『湖?』の走り書きから取りました。遠くから見て、問いのまま残っていた場所です。……歩いて、形が分かりました」
ブルーノは眉を少し持ち上げ、それから首筋をがしがしと擦った。
「……あんな走り書きを覚えてやがったか。まあ、マス湖や道具箱湖よりは幾分かマシだな」
「ちょっと隊長、マス湖のどこが悪いのよ!」
「うるせえ、魚の名前で地図が埋まるか。……いいか、正式な地名は王都の地図局が決めることだ。俺たちの現場図には、あくまで仮の呼び名として書いておく。……書け、ラース」
ラースはペン先を浸し、青く澄んだ水面の中央へ、墨で丁寧に『フラーゲ湖(仮)』と書き込んだ。
ペンを拭き取り、木箱の仕切りへと収めた。
*
山端の夕焼けが消え去り、湖岸の砂利場で焚き火が赤々と燃え上がった。
風を遮る岩陰に隊員たちが車座になり、温かい野草茶の入った木椀を手に持っている。
炎の爆ぜる音が響く中、ブルーノが全員を見回した。
「明日の朝、荷をまとめて引き返すぞ」
その言葉に、ラースの木椀を握る手が止まった。
湯気だけが、顔の前で揺れている。
ラースは、茶をひと口、ゆっくりと飲み下した。
「食料は、ホルストの燻製を足しても、鉱山町へ戻る分を残すと、これ以上は進めねえ。それに、あの北岸の足跡がある。これ以上奥へ踏み込めば、荷馬を連れた今の編成じゃ退路を保てねえ」
ヴァルターが木椀を置き、ゆっくりと頷く。
「賢明なご判断です。北の気配は、昨晩よりも濃くなっています」
「名残惜しいか、ラース」
ブルーノの問いに、ラースは顔を上げた。
「……いえ。測り終えた現場図を無事に持ち帰るのが、測量隊の仕事ですから」
「そうだ。生きて戻るから、次の測量ができる。また来るさ。その時は、この先の白を全部埋めてやる」
ブルーノが力強く言った。
それからラースの足元で丸くなっている白い毛並みを見やる。
「王都へ戻ったら、約束通りテイマーの資格を取れよ。正規の手続きを踏まなきゃ、次の遠征には連れて行けねえからな」
「はい。必ず覚えます」
ラースはフロッケの小さな頭を撫でた。
温かい毛の感触が、手のひらに伝わってくる。
*
夜が深まり、焚き火の炎が熾火へと変わっていった。
岩陰に敷いた毛布の上で、ラースは膝の上に野帳を開いていた。
傍らには、革筒に収める前の現場図の2枚目が広げられている。
黒いインクで引かれたフラーゲ湖の輪郭線の北側には、広大な余白が横たわっている。
そのとき、ラースの足元で眠っていたフロッケが、弾かれたように顔を上げた。
白い三角の耳をぴんと立て、闇に沈む北の原生林へ向けて鼻先を向ける。
喉の奥から、低く震える威嚇の音が漏れた。
「グルル……」
見張りに立っていたヴァルターが身を低く構え、右手で腰の剣の柄を押さえた。
湖の向こう、深い闇に閉ざされた北の山並みの奥から、重い響きが届いた。
大地を揺らすような、低く鈍い地鳴りの音が、岩肌を伝って足裏に微かに響く。
魔物の足音か、岩の崩れる音かは、分からなかった。
その音は数拍の間だけ闇を震わせ、やがて水音の中に消えていった。
ラースは手元の鉛筆を握り直した。
野帳の今日の日付の最後、測り終えた最北端の記録の真下に、一本の線を引く。
その余白に、定規を当てて書き記した。
この先、未測。




