第014話:湖畔の杭
テオが背負い籠の肩紐を締め直す乾いた音が、尾根の岩陰に響いた。
ラースは少年の前へ歩み寄り、包んだ携帯用の干し肉を手渡した。
「テオ、帰りの道中で食べるといい。下り道は膝に負担がかかるから、大股で急がずに小股で降りるんだぞ」
「ありがとうございます、ラースさん! 教わった縄の結び目の数え方も、絶対に忘れません」
少年は頭を下げて礼を言った。
横からブルーノが太い腕を伸ばし、テオの背荷を軽く叩いた。
「いい足取りだったぞ。荷の背負い方も板についてる。お前なら、いい猟師になる」
「はい! また北の山へ来るときは、絶対に案内に呼んでください!」
テオは元気よく手を振り、登ってきた道を軽快な足取りで駆け下りていった。
その背中が木々の奥へ見えなくなるのを見届けてから、隊は北側の斜面へと足を踏み入れた。
*
尾根を越えた先には、人の手の入っていない原生林が広がっていた。
道と呼べるものは筋ひとつなく、苔むした倒木と張り出した木の根が足元を遮る。
ラースは先頭に立ち、1メートルごとに結び目のある検定縄を手繰りながら歩幅を刻んだ。
背後では、ヴァルターが立ち止まるたびに剣の刃先で太い幹の表皮を削っていた。
白い木肌を露出させ、帰路の目印を刻み込んでいく。
「ヴァルターさん、目印の間隔はこれで足りますか」
「ええ。この間隔なら、振り返ったときに必ず前の刻みが見えます。退路は確保できています」
「原生林だと、木の根を避けるたびに歩幅が狂いますね」
「そうです。だからこそ、地面を這う縄の実測が頼りになります」
ヴァルターの言葉にラースが頷くと、その横でイルゼが指先を前方へ掲げた。
「サイト」
指先から淡い光の輪が放たれ、木々の隙間をすり抜けて前方の空間を照らし出す。
「前方の開けた場所まで、およそ300メートルです」
「本当か、イルゼ。木が密集してて先が見えねえが」
「はい。木々の隙間を抜けて、光が円く広がっています。障害物が途切れる場所があります」
「よし、あと一息だな」
ブルーノの声に、荷を背負ったブリッツが耳をぴくぴくと揺らした。
足元の青い下草を口に咥えようとして手綱を引かれ、不満そうに首を振る。
「ほらブリッツ、道草はそこまでにしなさい! シュネッケちゃんを見習うのよ」
ホルストの叱責に反して、後ろのシュネッケは先を急ぎたがり、前脚で土を蹴り上げて前へ突進しようとした。
「あらやだ、こっちはこっちで暴れないでちょうだい!」
「シュネッケは前に行きたがりだ。手綱を緩めるなよ」
マルタが笑いながら手綱の引き方を正した。
ラースは立ち止まり、携帯用の野帳に鉛筆で文字を書き留めた。
王都を出発して18日目、原生林を北進。
食料の残りは4日分。
そのとき、頭上で鳴いていた小鳥の群れが、不意に声を潜めた。
風が止み、森の奥から重い気配が漂ってくる。
ヴァルターが剣の柄に手を当てて立ち止まり、木立の奥を見据えたが、異変はそれ以上続かなかった。
*
密集していた大木が唐突に途切れ、視界が一気に白く開けた。
森を抜けた先に広がっていたのは、鏡のように澄み渡った巨大な水面だった。
岸は、岬と入り江が入り組み、いびつな形に、森の中へ食い込んでいる。
湖面には薄い霧が漂い、対岸には削り立った黒い断崖が壁のようにそびえ立っている。
ラースは背の真鍮筒から現場図を取り出し、暫定版の丸い余白を、目の前の湖と見比べた。
「……隊長。暫定版の丸い余白と、全然、形が違います」
「おう。遠くから見りゃ、丸く見えたんだがな。俺の目も、当てにならねえもんだ」
「測ってからのお楽しみ、でしたね」
「ああ。……思ったより、手間のかかる楽しみだな」
ブルーノが肩をすくめた。
荷鞍の脇で、マルタが鼻で笑った。
「丸く見えたってのに、岬が3つもあるじゃないか」
「うるせえ。だから測るんだ」
ブルーノが鼻を鳴らした。
足元で、フロッケが小さな前足を伸ばして水際をつついた。
ぴちゃりと水音が跳ね、同心円の波紋が広がると、驚いて体を丸めて跳び退く。
鼻先に飛沫がかかったのか、顔をぶるぶると振ってラースの足元へ逃げ込んできた。
「あはは、怖くないよ。初めて見る大きな水たまりだもんな」
ラースがしゃがんで頭を撫でると、フロッケはくしゃみをひとつして腕の中へ納まった。
隣では、ブリッツが湖水をがぶがぶと飲み干して動かなくなり、シュネッケは胸まで水に入りたがって前脚をばたつかせている。
その水際を歩いていたヴァルターが、立ち止まった。
剣の鞘の先で砂地を指し示し、ブルーノを手招きする。
「隊長。これを見てください」
「ん……?」
湿った砂地に、巨大な窪みが残されていた。
手の幅4つ分、およそ40センチメートルに及ぶ、深い鉤爪の食い込んだ足跡だった。
ヴァルターとブルーノが顔を見合わせ、頷き合った。
「……あの坑道にあった爪痕の主と、同じ個体でしょう」
「ああ。あの影の主は、この湖の周りを通って北へ抜けたらしいな」
ラースは、遠くから2人の背中を見ていた。
風に乗って、「爪痕」という言葉だけが、耳に届いた。
*
「よし、対岸の岩までの距離を三角測量で出すぞ。ラース、基線を引け」
「はい!」
ブルーノの指示を受け、ラースは測量棒と杭の束を抱えて駆け出した。
入り江の突端にある巨岩を目標点とし、手前の湖岸に基線を設定する。
縄の結び目を数えて、正確に60メートルの直線を作る段取りだった。
陽が西の山並みに傾き始めていた。
暗くなる前に現場図へ数値を落としたいという焦りが、ラースの足を急き立てた。
湖岸の砂地へ駆け寄り、基線の端点となる地点に木の杭をあてがう。
小石と泥の混ざった柔らかい地面に、木槌を一気に振り下ろした。
グスリ、と鈍い感触とともに杭が地中へ吸い込まれる。
その時、杭の頭がかすかに傾いたが、ラースはそのまま次の作業へと走った。
水準器で垂直と硬さを確かめる手順を、頭の中から飛ばしてしまっていた。
基線の両端に方位盤を据え、対岸の巨岩との角度を読み取る。
「A点から対岸の岩への角度、84度です!」
「よし、B点へ移動しろ。縄を張ったまま慎重に運べよ」
「はい、B点に着きました。岩への角度は……80度です」
野帳に数値を書き込み、羊皮紙に数字を並べて計算した。
「出ました。対岸の岩までは、およそ210メートルです」
「イルゼ、サイトで見てみろ」
イルゼが指先を巨岩へ向けた。
「サイト」
光の輪が、湖面を渡って岩に結ばれた。
「……およそ180メートルです。サイトは目安ですけど、30メートルは、開きすぎだと思います」
「だな。検算するぞ。基線の外にC点を取れ。三角形ABCの内角を、全部測るんだ」
ラースは急いで3つ目の点を取り、3か所で角度を読んだ。
「A点が61度、B点が59度、C点が63度……あれ? おかしいな」
「どうした、ラース」
背後から近づいてきたブルーノが声をかけた。
ラースは鉛筆を握り直した。
「内角を足すと、183度になってしまうんです」
「183度だと?」
「三角形の内角の和は、必ず180度のはずなのに……」
ブルーノが羊皮紙を覗き込み、眉を寄せた。
「計算の桁じゃねえな。測った元の数字が狂ってる。方位盤が、水平に据わってねえんだ。端点を見ろ」
「えっ……杭ですか?」
「走れ」
ラースは湖岸へ駆け戻った。
端点の杭は、斜めに傾いていた。
柔らかい砂泥に打ち込まれた杭は、張られた縄の力に引かれて、頭が水平でなくなっていた。
その上に据えた方位盤も、わずかに傾いている。
「……杭を打った時、垂直を確かめませんでした。地面が柔らかいのに、急いでそのまま測ってしまって……」
ラースは頭を垂れ、野帳を強く握りしめた。
怒鳴られると思った。
だが、歩み寄ってきたブルーノは、傾いた杭を黙って引き抜いた。
「地面の硬さを確かめるのは基本だが、やってみなきゃ分からんこともある。……いいか、測り直しは恥じゃねえ。狂った値をそのまま現場図に残すのが恥だ。杭を打ち直せ」
「……はい!」
ラースは足場の固い小石混じりの地盤を選んで、杭を打ち直した。
今度は水準器を当てて垂直を確かめ、方位盤の気泡も確かめて、縄を張り直す。
角度を測り直すと、内角の和は正確に180度になり、対岸の岩までの距離は、およそ180メートルに落ち着いた。
「よし、これで筋が通ったな」
「ありがとうございます、隊長」
作業を終えた頃には、山端が夕焼けに染まり、湖面は薄暮に沈んでいた。
「今日はここまでだな。湖畔で野営だ」
ブルーノが空を見上げて言った。
*
湖岸の砂利場に焚き火が熾された。
風を遮る岩陰に敷いた毛布の上で、ホルストが太い腕を振るっていた。
測量の合間に、湖の入り江で釣り上げた大魚の下ごしらえを終えたところだった。
「さあ、焼き上がったわよ! 湖のマス塩焼きよ!」
削った木の枝に刺された丸ごとの魚が、ぱちぱちと脂を散らしながら配られた。
腹の中に香草が詰められ、荒い粒塩を振って炭火でじっくり焼き上げられている。
「うまい……! 泥臭さがまったくありません」
「当たり前よ。この湖の水、底の小石まで見えるほど透き通ってるじゃない。腹に詰めた野草の香りも効いてるでしょ」
ホルストが得意そうに胸を張った。
フロッケの小皿には、小骨を取り除いてほぐした身が盛られている。
フロッケは小さなしっぽを振って、夢中で皿を舐め回していた。
「食料の節約にもなったな。魚が手に入るなら、あと2日は日持ちするぞ」
マルタが魚の骨を外しながら言った。
ヴァルターも椀を置き、頷いた。
「水も魚も豊富です。周囲の視界も開けていますから、警戒はしやすい」
「ああ。明日は湖をぐるりと一周測るぞ。ラース、腕が鳴るな」
「はい!」
夕闇が深まり、東の尾根から丸い月が顔を出した。
夜空を渡る月光が、湖面を一筋の白金に変えていく。
昨夜、北の稜線から見下ろした銀色の輝きは、この澄んだ水面が反射していた光だった。
ラースは焚き火の明かりのそばで、野帳を開いた。
昼間に書いた、傾いた杭による「183度」と「210メートル」の誤った数字が目に入る。
ラースは鉛筆を取り、その数値を塗りつぶすのではなく、定規を当てて黒い二重線を引いた。
そのすぐ横に、測り直した正しい値、「180度」と「180メートル」を書き加える。
隣で木椀を傾けていたブルーノが、その手元を一瞥した。
何も言わなかった。




