第013話:地図の端
石畳を踏む蹄の硬い足音が、朝の静まった宿場通りに響いていた。
大柄な栗毛のブリッツが道端の草に鼻を寄せ、首を振って歩みを止める。
手綱を引いていたラースは、その鼻先を軽く叩いて引き戻した。
「ほら、行くぞ。道草は後だ」
小柄な黒鹿毛のシュネッケは、待ち切れないように蹄で石を蹴り、先へ進もうと荒い鼻息を鳴らす。
ラースは2頭を預け所の厩舎前につなぎ、荷鞍の革紐を確かめた。
約束の時刻に合わせて、領主の館へ向かう足音が揃う。
*
領主の執務室には、窓格子から斜めの陽光が差し込んでいた。
磨かれた机の上に広げられた現場図を、アルブレヒト伯爵が見下ろしている。
傍らには、右足に包帯を巻いた初老の立会人が控えていた。
「……なるほどな」
伯爵の指先が、坑口から10メートルの位置で止まった。
その先、奥深くへ続くはずの坑道は、羊皮紙の地色のまま白く抜かれている。
「確かに、余計な線は1本も引かれておらん。……馬鹿正直なことだ、リンデンタール家の次男坊」
「ええ。測っていない場所に勝手な線を引くのは、測量士の恥です」
今朝は無精ひげを剃ったブルーノが、直立して、ぎこちない敬語で胸を張った。
伯爵は短く息を吐き、羊皮紙から手を離した。
「約束は果たされた。我が町も、崩落から人を救われた借りを踏み倒す気はない。……北の尾根まで、山歩きに慣れた案内人を1人付ける」
「案内人を?」
「猟師の見習いをしている少年だ。尾根までの獣道なら詳しい。そこから先の道は……知らんがな」
傍らの立会人が、深く頭を下げた。
「皆様の機転に、命を救われました。心より礼を申し上げます」
「いえ。怪我が浅くて何よりでした」
ラースが応じると、伯爵が片手を軽く振って退室を促した。
*
町外れの預け所に戻り、幌馬車を頑丈な車庫の奥へ納めた。
ここから北の山道は道幅が狭く、険しい岩肌が続くため馬車を通すことはできない。
旅の荷を厳選し、2頭の背へと振り分ける作業が始まった。
「調理鍋は左右均等に括りなさい! 歩くたびにカチャカチャ鳴ったら鬱陶しいじゃない!」
「分かってますって。重い鉄板は置いていきますから」
ホルストの指示にラースが応えていると、馬具を点検していたマルタが顔を上げた。
「背板の詰め物はこれで問題ありません。鞍骨の歪みも直しておきました。荷崩れは起きないはずです」
「助かります、マルタさん」
「水樽も左右で重さを揃えたぞ。シュネッケは気が短いからな、片寄ると機嫌を損ねる」
マルタの言葉通り、シュネッケはラースの肩口に鼻先を押し当て、催促するように甘噛みをしてきた。
ラースが鞍の留め金を締め直していると、足元から小さな白い毛玉がひょっこりと顔を出した。
フロッケだった。
初めて間近で見る巨体に耳をピンと立て、ブリッツの太い前脚へ恐る恐る鼻先を近づける。
ブリッツがのんびりと温かい鼻息を吹きかけると、フロッケは驚いて後ろへ飛び退き、ラースの長靴にしがみついた。
「あはは、怖くないよ。大きいけど、おとなしいんだ」
ラースが抱き上げると、フロッケは胸元で小さく喉を鳴らした。
そこへ道具箱を抱えたブルーノがやってきて、ラースの背負い袋を一瞥した。
「おいラース。その真鍮の筒、中身は修了証だけか」
「あ、はい。養成施設の修了証が入っています」
「紙切れなんざ、馬車の行李へ置いていけ。飾っておくための筒じゃねえぞ。現場図を丸めて突っ込んどけ」
「……はい! そうします!」
筒から羊皮紙の修了証を抜き出し、ラースは、折り目に沿って、一度だけ丁寧に畳み直した。
それを馬車の行李の底へ収め、代わりに折り目のない新しい現場図を筒へ入れる。
真鍮の蓋を閉めると、確かな重みが肩に掛かった。
「お待たせしました!」
預け所の入口から、背負い籠を背負った少年が小走りで駆け込んできた。
鹿革の短上着を着た、15歳ほどの少年だった。
「伯爵様から言われて来ました、猟師見習いのテオです!」
「おう。俺が隊長のブルーノだ。こっちのラースも新人だ。仲良くやってくれ」
ブルーノに肩を叩かれ、テオが緊張した面持ちで頭を下げた。
「よろしくお願いします、ラースさん!」
「あ、うん。ラースでいいよ。よろしく、テオ」
自分より年下の相手と並ぶのは、初めてだった。
ラースは、思わず背筋を伸ばした。
*
町を抜けると、道はすぐに険しい登り坂へと変わった。
両脇を削り立った巨岩が挟み、木々の間を縫うように細い山道が北へ伸びている。
しばらく歩くと、目の前に見事な景色が広がった。
黒い玄武岩の岩肌を何段もの白い飛沫となって滑り落ちる段々の滝と、谷を跨ぐ巨大な自然の岩アーチだった。
冷たい水煙が風に乗って舞い、陽光を受けて淡く輝いている。
ラースは反射的に、岩のアーチの高さを目で測った。
およそ20メートル。
「すごいな……」
「町の人間も、薪拾い以外じゃ滅多に来ない場所です」
テオが得意そうに胸を張った。
先頭を歩くブリッツが、道端の瑞々しい草を見つけてピタリと足を止める。
後ろを歩くシュネッケが追い越そうとして鼻を鳴らし、ホルストが手綱を引いた。
「はいはい、お食事は休憩の時よ。稲妻のように速く歩きなさい、ブリッツちゃん」
ホルストの小言に、テオが不思議そうに首を傾げた。
「稲妻って、あの栗毛の名前ですか? ずいぶんのんびりしてますけど……」
「前の飼い主が付けた名なんだ。あっちはシュネッケ、かたつむりって意味なのに、せっかちでな」
ブルーノが笑うと、テオも笑った。
荷鞍の脇で、マルタが鼻を鳴らした。
「名前を付けた奴の顔が、見てみたいもんだ」
ホルストが調子を良くしたのか、荷袋を叩きながら歌を口ずさみ始めた。
「鍋はぐつぐつ、山道とことこ、旅の荷物は背中に揺れる、らんらん」
適当な節回しの歌に合わせ、隊の足取りが軽くなる。
ラースは歩幅を合わせながら、横を歩くテオに検定縄の束を見せた。
「テオ、この縄には1メートルごとに結び目があるんだ。歩きながら頭の中で数を数えておくと、どのくらい進んだか分かるんだよ」
「へえ……! でも、歩数を数えるんじゃ駄目なんですか」
「登り坂と下り坂じゃ、歩幅がどうしても変わっちゃうだろ。でも縄の結び目は、誰が歩いても絶対に狂わないんだ」
「なるほど……! どんな道でも変わらない基準なんですね」
熱心に頷くテオの横で、ラースは、縄の束を持つ手に、少し力を込めた。
その後ろで、イルゼが足を止めて北の稜線を見上げた。
だぶだぶの袖から指先を突き出す。
「サイト」
薄い光の輪が空へ向けて放たれたが、稜線の手前で淡く霧散した。
「……届きません。遠すぎます」
「まあ、そう焦るな。自分の足で近づけばいい」
ヴァルターは、背後の谷底へ目を配っていた。
ラースは携帯用の野帳を取り出し、新しい頁に文字を書き入れた。
王都を出て17日目、北の山道。
携行食料の干し肉と麦は残り5日分、水筒の水は豊富。
*
傾斜を登り切ると、視界が一気に開けた。
吹き抜ける風が外套を揺らす、北の稜線だった。
南を振り返れば、自分たちが越えてきた山並みと鉱山町の谷が遥か眼下に見下ろせる。
だが、北側を向いた瞬間、ラースは足を止めた。
そこには道も、人の手の入った痕跡もなかった。
原生林に覆われた巨大な盆地が、うねるようにどこまでも広がっている。
「ここが、境界です」
テオが足を止め、背負い籠を地面に下ろした。
「猟師も、獲物を追ってこの尾根までは来ますが、ここから先へは足を踏み入れません。迷ったら生きて戻れないって言われてます」
「……何がいるの」
「分かりません。見て帰ってきた人が、いないので」
「ご苦労だったな、テオ。今夜はここで一緒に野営して、明日の朝に町へ戻りな」
「はい。明日の朝、尾根の降り口まで皆さんを見送ったら戻ります」
ブルーノが少年の肩を叩き、それからラースの隣へ並んだ。
懐から取り出した暫定版の図を広げる。
尾根の線で、インクの描線は完全に途切れていた。
「ラース」
「はい」
「俺が昔1人で測ったのは、ここまでだ。……ここから先は、お前の線だぞ」
ブルーノの声が低く響いた。
「……はい。引きます」
ラースは革袋から測量用の木の杭と木槌を取り出した。
杭を握る指が、白くなるほど強張っている。
息を吸い、吐く。
もう一度、吸う。
湿った地面に、杭の先端をあてがった。
コトン、と澄んだ木槌の音が尾根に響く。
打ち込まれた杭に検定縄の輪を掛け、野帳の新しい頁に、鉛筆で点を打った。
起点となる、最初の点だった。
少し離れた岩の上で、ヴァルターが腰の剣を確かめながら、尾根の退路と周囲の起伏を見定めていた。
*
尾根の風を避ける巨岩の陰で、焚き火が爆ぜた。
荷馬車の鉄板はないが、深鍋の中から、湯気が立ち上っている。
「ほら、出来たわよ。干し肉と木の実の麦粥よ」
ホルストが木椀を配った。
鉱山町で手に入れた乾燥肉と、山道で拾った小粒の木の実、それに押し麦を、塩と乾燥ハーブで煮込んだ素朴な粥だった。
口に運ぶと、肉の塩気と木の実の甘みが、麦の香ばしさと混ざる。
熱い粥に、疲れた腹がゆるんだ。
「うまっ……! 猟師の親父が作る飯の百倍うまいです!」
テオが頬を膨らませて匙を動かした。
フロッケも皿の横で、柔らかく煮た麦を夢中で食べている。
「ふふ、お代わりならいくらでもあるわよ」
鍋をかき混ぜるホルストの横顔を、ラースは見つめた。
「ホルストさんって、軍にいた頃もずっと料理番だったんですか」
「そうよ。昔からアタシはこんな喋り方だったからね、新兵の頃は陰口を叩く奴もいたわ」
ホルストは木匙を置き、悪戯っぽく片眉を上げた。
「でもね、アタシの飯を食ってる間だけは、誰も笑わなかったわ。温かいものを食えば、みんなただの腹ペコ兵士に戻るのよ」
「……なるほど。確かにそうですね」
ラースが笑うと、ホルストも大らかに笑った。
やがて焚き火の火が小さくなり、山の端が暗くなった。
テオが毛布にくるまって寝息を立て始め、隊員たちも交代で横になる。
ラースは岩棚の端に立ち、北の空を見上げた。
満天の星が、音もなく瞬いている。
見下ろす原生林の遥か彼方、漆黒の盆地の底に、何かが淡く光っていた。
夜霧を透かして届く、銀色の薄い輝きだ。
湖なのか、別の何かなのかは、分からなかった。
冷たい風が、ラースの頬を通り抜けていった。




