第012話:北の抜け道
頭上でパラパラと小石が落ちる乾いた音を、ヴァルターの耳が捉えた。
視界を埋めるのは濃密な闇だけだったが、鼻孔を突く粉塵の奥に、わずかな空気の揺らぎを感じ取る。
手元の鈍い光が足元を照らし出した。
「おい、ヴァルター。端を留めるぞ」
背後でブルーノが太い声を落とした。
携帯灯の覆いを少しだけ開け、琥珀色の魔石の光を前方に落とす。
ブルーノは手にした検定縄の端を、坑道を支える角材の柱に力強く巻き付けた。
縄を手前に向けて、ぐん、ぐん、ぐんと3回強く引き、柱の根元で固く結び留める。
外へ向けた「移動する」の合図だった。
張り詰めた縄は、闇の奥へとまっすぐに伸びたまま動かなくなった。
「これで外の連中も、俺たちが奥へ向かったと分かるはずだ」
「ええ。ラースなら、縄の動きを見落としません」
ヴァルターは短く応じ、光の先にある崩落現場へ視線を向けた。
入口からおよそ44メートル。
坑道の分岐の手前で側壁の岩盤が崩れ、瓦礫の山が通路を塞いでいた。
その岩塊の根元に、擦り切れた革鎧の人影が倒れ込んでいる。
「ディルク……!」
ブルーノが駆け寄り、男の肩を揺すった。
ディルクの右脚の膝から下が、崩れ落ちた平たい巨石の下に挟まれている。
煤で汚れた額に脂汗が滲み、荒い呼吸を繰り返していた。
「意識はあります。自力では、抜け出せません」
ヴァルターは腰の鞘から剣を抜いた。
切っ先を岩の隙間へと差し込み、剣の平を支点にして体重をかける。
「隊長、岩の頭を押さえてください。私が跳ね上げます」
「おう、任せろ!」
ブルーノが太い腕で巨石の上面に体重を預けた。
ヴァルターが剣の柄に力を込めると、刀身がかすかにしなり、挟まっていた石が数センチ持ち上がった。
わずかにできた隙間へ、ブルーノが角材の破片を素早く蹴り込む。
「今だ、引くぞ!」
ヴァルターは剣を握ったまま片腕を伸ばし、ディルクの襟首を掴んで後方へ引きずり出した。
巨石が再び重い地響きを立てて落ち、土煙が小さく舞い上がる。
*
引き出されたディルクの足首と脛には擦り傷が広がっていたが、骨に異常は見られなかった。
ヴァルターが携帯用の水筒を口元へ当てると、ディルクはむせ返りながら水を飲んだ。
「……う、あ……」
ディルクの目がわずかに開き、光に慣れようと眉を寄せる。
目の前にいるブルーノとヴァルターの姿を認めると、かすれ声が漏れた。
「……アンタら、なんで……」
「出口を探してたら、お前が転がってやがったんだよ。運のいい奴だ」
ブルーノが乱暴に男の肩を叩いた。
ディルクは痛む足を押さえ、暗闇の奥を振り返ろうとした。
「……ラースは。あいつ、無事なのか」
「外だ。縄が返ってきた。あいつなら、ちゃんと判断してる」
ブルーノの言葉を聞くと、ディルクは力なく息を吐き出し、胸の力を抜いた。
「そうか……。なら、よかった……」
*
ヴァルターは立ち上がり、剣を構え直した。
暗闇の中で耳を澄まし、肌に触れる空気に神経を研ぎ澄ます。
元冒険者として、休憩や足止めを食うたびに、周囲の地形と退路を確かめるのは長年の習慣だった。
「隊長、入口側へ戻る必要はありません」
「あん?」
「奥から風が吹いています。微かですが、冷たい外気の匂いが混じっている。この分岐の先に、別の出口があります」
ブルーノが携帯灯を高く掲げた。
光の輪が照らし出した坑道の先には、人為的な掘削跡とは明らかに異なる異様な光景が広がっていた。
「おい、見ろ……なんだこの傷は」
固い花崗岩の側壁に、巨大な鉤爪で引き裂かれたような爪痕が何条も刻まれていた。
溝の深さは指の関節ひとつ分に及び、削り取られた岩の破片が足元に散らばっている。
ブルーノが近寄り、手の幅を爪痕に当てた。
「手の幅3つ分……30センチメートル以上あるな。まともな獣の爪じゃねえ」
「ええ。鉱山町で目撃されていた、大きな黒い影の主でしょう」
さらに奥へ進むと、坑道が大きくえぐられ、直径5メートルほどの円形の空間になっていた。
床には枯れ草や藁のような植物が厚く敷き詰められ、獣の白骨がいくつも転がっている。
巨大な魔物の巣の跡だった。
「糞と抜け落ちた毛が乾ききっています。数日前に、ここを去った痕跡です」
ヴァルターが足元の土を爪先で払った。
魔物の気配は残っていない。
「なるほどな。こいつが壁を力任せに掘り進んで巣を作りやがったせいで、地盤が内側から緩んでたんだ。いつ崩れてもおかしくなかった」
ブルーノが壁の抉れを見上げて吐き捨てた。
*
「ディルク、動けるか」
「足に力が入らねえ……」
ヴァルターはディルクの前に屈み込み、背中を向けた。
「捕まってください。私が背負います」
「すまねえ、ヴァルターさん……」
ディルクを背負い上げたヴァルターは、足場を確かめながらゆっくりと歩き始めた。
ブルーノが携帯灯を片手に先頭を歩く。
暗い坑道に、2人の足音と、ディルクの荒い吐息だけが響いていた。
「隊長」
歩みを止めずに、ヴァルターが問いかけた。
「伯爵との約束……坑口の先を白く残すことと、王立地図局への報告はどう折り合いをつけるのですか」
先を歩くブルーノの肩が、小さく揺れた。
「折り合いも何もねえよ。白は、嘘じゃねえ」
「嘘ではない、ですか」
「そうだ。『ここは測ってない』と、正直に書く印だ。俺は現場図に嘘は書かねえ。王都の財務省にいる兄貴がその白を見て、理由を問い質してきたら、その時に俺が胸を張って答えるだけだ」
ブルーノは前方の闇を見据えたまま、言葉を継いだ。
「若い頃、他人の描いた地図の空白を『平坦で何もない土地だ』と思い込んで、1人で深い谷へ踏み込んだことがある。行ってみたら足元が切り立った崖でな。引き返す道も見失って、岩棚の上で寒さに震えながら一晩閉じ込められた」
「……そんな過去があったのですか」
「ああ。それ以来、俺の図の白は『何もない』じゃねえ。『測ってねえから分からん、気をつけろ』って意味だ。伯爵の鉱脈を守るためだろうが何だろうが、測ってねえもんは白く残す。それが測量士の筋だ」
ブルーノが振り返り、ヴァルターを見上げた。
「お前も、その白を信じるか」
「信じます」
ヴァルターは迷わずに答えた。
「測っていない場所には、何があるか分からない。だからこそ、私のような護衛の目が必要になります」
「へっ、言うじゃねえか」
ヴァルターは、前を歩く背中から、目を離さなかった。
「私は、負けたあの日から、あなたを追い抜くつもりでいます」
「言ってろ。そう簡単に抜かせるつもりはねえよ」
ブルーノが肩をすくめ、先を照らした。
*
風の勢いが次第に強まり、湿った土の匂いに混じって、冷たい夜の外気が頬を打った。
坑道の行き止まりの天井近くに、大きな獣が通れるほどの岩穴が口を開けていた。
魔物が北の山へと抜け出るために穿った通り道だった。
「出口だ。外に出られるぞ」
ブルーノが岩棚に手をかけ、身軽に穴の外へと這い出た。
ヴァルターもディルクを背負い直して岩肌をよじ登り、穴の外へ頭を出した。
「ワンッ! ワンッ!」
夜の冷気の中に、甲高い獣の吠え声が響いた。
フロッケだった。
松明の明かりが揺れ、斜面の下から駆け寄ってくる人影が見えた。
「隊長! ヴァルターさん!」
ラースの声だった。
その後ろから、松明を掲げたホルストが息を切らせて駆け上がってくる。
「ディルクちゃん! 生きてたのね!」
ホルストが太い腕を差し出し、ヴァルターの背中からディルクを軽々と抱き上げた。
「アタシが支えるわ。ほら、大人しくしていなさい」
「ホルストの姐さん……すまねえ……」
ヴァルターは手袋を外し、額の汗を拭った。
坑口からは北へ数百メートル離れた急斜面だった。
なぜここへ先回りできたのか。
「フロッケが北の斜面に向かって吠え続けていたんです。それと、坑道へ伸ばした検定縄の長さが44メートルで、方位盤の角度と照らし合わせたら、この崖の等高線とぶつかる計算になりました」
ラースが手にした野帳を見せながら言った。
ヴァルターは呼吸を整え、若い見習いの顔を正面から見た。
ヴァルターは深く一礼した。
「ラース。ありがとうございます」
「え……? い、いえ! 俺は計算しただけで……!」
驚いて後ずさるラースを見て、ブルーノが笑い声を上げた。
*
坑口前の広場に戻ると、すでに救助の人夫たちと支柱用の角材が到着していた。
初老の立会人が手配した町の救援隊だった。
倒壊した坑口の周りには焚き火が焚かれ、夜の冷え込みを和らげている。
焚き火の脇では、マルタが道具箱の蓋に腰を下ろし、救援隊が運び込んだ材木を見定めていた。
「これだけの角材がありゃ充分だ。夜が明けたら坑口の支保を組み直せるぞ」
救援隊の年配の男が、頷いた。
「ああ。奥の隙間も塞げる」
イルゼも魔導灯の光の輪の中で、温かな茶の椀を両手で包み込んでいる。
「さあさあ、冷めないうちにどうぞ!」
ホルストが荷馬車の荷台から、焼き立ての丸い包み焼きを木皿に載せて配り歩いた。
昼に食べた「坑夫のパイ」の製法を、手持ちの食材で再現した料理だ。
ラードを練り込んだ硬い生地から、湯気とともに肉と根菜の香ばしい匂いが立ち上る。
「周りの硬い縁を取っ手にして食べるのよ。泥の手でも食べられる工夫ね」
毛布に包まれたディルクが、分厚い縁を手で掴み、具の詰まった真ん中に齧り付いた。
「うめえ……。生き返るぜ」
盾持ちの男が、ディルクの頭を小突いた。
鼻をすすっている。
「心配かけやがって、この馬鹿野郎が」
「うるせえ……泣くな」
軽装の男も、何も言わず、ディルクの隣でパイにかぶりついた。
ディルクの横で、ラースが魔導灯の明かりを頼りに、膝の上に現場図を広げていた。
ディルクが木皿を抱えたまま、羊皮紙を覗き込む。
「線、増えたな」
「はい。入口から10メートルまでの断面と、北の斜面の穴の位置を書き足しました」
「奥のことは、1行も書くな」
「はい。分かってます」
ヴァルターは湯気の立つパイを受け取り、ラースの現場図を見下ろした。
靴の甲には、いつの間にか、フロッケが丸まっている。
崩れた坑口の線の先は、真っ白な余白のまま残されていた。
ラースが顔を上げ、ヴァルターを見つめた。
「ヴァルターさん、ここは、白のままで、合っていますか」
「合っています。……正確です」




