第四話 二度目の死・中編
翌朝、レオンは鐘の音で目を覚ました。
身体が勝手に跳ね起きる。
胸の鼓動が速くなり、反射的に窓へ目を向けたところで、昨日エリシアに言われたことを思い出した。
これはロウの鐘ではない。
窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んできた。
ヴァルネの空は薄い灰色だった。夜の雲がまだ残っているらしく、雲の切れ間から淡い朝日が斜めに差し込み、石造りの屋根を鈍く照らしている。
眼下の通りでは、すでに何人もの死者が歩き始めていた。
店の前を掃く老人が箒で石畳の砂を排水溝へ集め、その横を荷車がゆっくり通り過ぎる。屋根の縁には小さな鳥が数羽並び、パン屋の軒先へ落ちた屑を狙って何度も地面へ降りていた。
昨夜、人が一人消えた街とは思えない。
「普通に朝が来るんだな」
「朝だから」
背後からエリシアの声がした。
「そういう意味じゃないよ」
振り返ると、彼女はすでに起きていた。というより、寝ていたのかも分からない。
レオンは窓枠へ腕を置き、下の通りを見る。
「俺だったら、昨日あんなことがあったら街中大騒ぎになると思ってた」
「みんな知らないから」
「七人目なんだろ?」
「うん」
レオンはしばらく黙った。
道の向こうでは、市場へ向かうらしい女が籠を抱えて歩いている。店先では男たちが昨日の天気について話し、別の場所では子供が鳥を追いかけていた。
その日常のどこかで、また誰かが灰になるかもしれない。
そう思うと、昨日までとは街の見え方が変わった。
「ミアのこと、調べたい」
エリシアがレオンを見る。
「どうして?」
「どうしてって……」
少し言葉に詰まった。
会った時間なんて短い。
名前を知って、少し話しただけだ。
それでも。
「あいつ、昨日俺の火かき棒見て笑ったんだよ。数時間後には灰になってた。それで『仕方ない』って寝て起きて終わりは、さすがに無理だ」
エリシアは何も言わなかった。
「それに、俺が死者に触った時に記憶を見たこと、覚えてるだろ?」
「うん」
「もしかしたら、ミアにも何か残ってるかもしれない」
エリシアの表情が僅かに変わる。
「危ない」
「分かってる」
「分かってない」
「そこまで言う?」
「レオンは昨日、自分じゃない人の死ぬ感覚まで受け取った」
言われて、あの広場の記憶が蘇った。
胸が止まった感覚。
死んでいるのに意識だけが残った不快さ。
自分の経験ではないと分かっているのに、思い出そうとすれば身体まで反応する。
「……怖いよ」
レオンは正直に言った。
「でも、何も分からないままの方が気持ち悪い」
少し沈黙したあと、エリシアが立ち上がった。
「一人では触らないで」
「一緒に来てくれるか?」
「うん」
「ありがとう」
その返事が少し嬉しかった。
◇
一階へ降りると、昨夜の灰はまだ残されていた。
衛兵から触れないよう指示があったらしく、廊下の入口には椅子が置かれ、簡単な仕切り代わりになっている。
食堂からは焼いたパンの匂いがしていた。
マルタはカウンターに立っている。
目の前では客が朝食を取っていた。
たった数メートル先に孫娘の灰が残っているのに、それでも宿は開いている。
レオンにはその感覚がすぐには理解できなかった。
「休まなくていいんですか?」
思わず尋ねる。
マルタは食器を拭く手を止めた。
「休んで、何をするんだい?」
「いや……」
「ミアが戻ってくるなら、何日だって待つよ」
マルタは奥の廊下を見る。
「でも、戻らないんだろ」
声が少しだけ掠れた。
「だったら、あの子がやってた仕事まで全部止めたら、余計にいなくなった気がするじゃないか」
レオンは何も返せなかった。
マルタは食器を棚へ戻し、無理に笑う。
「死んでから長く生きてるとね。こういう時にどうしたらいいのか、逆に分からなくなるもんさ」
その言葉は、昨日墓に花を持っていった老人の姿を思い出させた。
「灰を……少し調べてもいいですか?」
マルタの目がレオンへ向いた。
「何をするつもりだい」
「うまく説明できないんですけど、死者に触ると、その人の記憶みたいなものが見えることがあります」
「記憶?」
「昨日、ロウで一度だけ」
自分でも怪しい話だと思う。
マルタはしばらくレオンの顔を見つめたあと、エリシアへ視線を移した。
エリシアが小さく頷く。
「……分かった」
マルタは仕切りを退けた。
「ただし、ミアが嫌がるようなことはしないでおくれ」
「はい」
灰の前へしゃがむ。
昨日より少し散っていた。
窓から入る風や、人が歩いた振動のせいだろう。
レオンはすぐには触らず、その中を眺めた。
布。
小さな木の飾り。
それから、灰の下に半分埋もれた銀色のもの。
「これ……」
指で灰を少し避ける。
細い留め具のようだった。
「ミアの?」
マルタが近づく。
「ああ。髪留めだよ」
それなら、確実にミアのものだ。
レオンは息を整えた。
手が震えている。
「大丈夫?」
エリシアが聞く。
「大丈夫じゃないけど……やる」
指先で髪留めへ触れた。
冷たかった。
次の瞬間。
青鹿亭が消えた。
◇
廊下を歩いている。
視界が低い。
両腕には洗った布を抱えていた。
ミアだ。
レオンはすぐに気づいた。
自分は彼女の目を通して見ている。
昨夜の青鹿亭。
食堂からは客の笑い声が聞こえ、暖炉の火が廊下の奥まで橙色の光を落としていた。
『ミア』
足が止まる。
女の声だった。
食堂ではない。
裏口の向こう。
『ミア。こっちへおいで』
胸の奥に、強い感情が流れ込んできた。
驚き。
戸惑い。
そして、それ以上の懐かしさ。
『……お母さん?』
ミアの声が震える。
レオンは息を呑んだ。
裏口を開ける。
夜気が頬へ触れた。
青鹿亭の裏手は細い路地になっていた。高い石壁に挟まれ、地面には雨水がまだ残っている。壁へ取りつけられた灯りが水溜まりに揺れ、向かいの屋根では一匹の猫がこちらを見たあと、音もなく塀の向こうへ飛び降りた。
『ミア』
また声がする。
路地の先。
白い服を着た人影が立っていた。
顔は影になって見えない。
『お母さん……?』
ミアが一歩進む。
足元の水が小さく跳ねた。
『会いたかった』
声は優しい。
その言葉を聞いた瞬間、ミアの胸へ流れ込む感情が強くなる。
会いたかった。
ずっと。
もう一度だけでも話したかった。
レオン自身の感情ではない。それでも胸が締めつけられ、目の奥が熱くなる。
『どうして……今まで』
『ごめんね』
白い人影が手を伸ばした。
『もう離れなくていいよ』
ミアの足が止まる。
その時だった。
何かがおかしい。
レオンではない。
ミア自身が、そう感じた。
『……違う』
声が震えた。
白い人影は動かない。
『お母さんは、そんなこと言わない』
路地の灯りが揺れる。
その足元で、黒い影が広がり始めた。
人影から伸びているように見えるのに、光の向きとは合っていない。壁へ、地面へ、水溜まりの中へと染み込むように黒さが増していく。
『ミア』
声は変わらない。
優しい母親の声のままだ。
それが余計に気味悪かった。
ミアが後ろへ下がろうとする。
白い袖から、手が現れた。
異様なほど白い手だった。
指先がミアへ伸びる。
その手首。
布に黒い印があった。
円の中に、逆さまになった鐘。
『怖くないよ』
白い手が近づく。
『今度こそ、一緒に――』
指先が視界を覆った。
◇
「――っ!」
レオンは床へ手をついた。
肺の中の空気を全部吐き出したような苦しさがあり、何度も咳き込む。
「レオン」
エリシアが肩へ手を置く。
その冷たさで、ようやく今いる場所が分かった。
青鹿亭。
朝。
目の前には黒い灰。
「……見た」
声が掠れた。
頬が濡れている。
手で触れて、初めて自分が泣いていたことに気づいた。
自分が泣きたいわけではない。
ミアの感情が、まだ身体の中に残っている。
「女の人の声がした。ミアが……お母さんって呼んでた」
マルタの顔が変わった。
「何て?」
「名前は分からない。でも、白い服の誰かがいて、その人がお母さんの声でミアを呼んだ。『もう離れなくていい』とも伝えてた」
奥から物音がした。
振り返ると、階段の途中にリリが立っていた。
青ざめた顔でこちらを見ている。
「お母さん……?」
レオンはゆっくり頷いた。
「ミアはそう呼んでた」
「セラだ」
マルタが呟いた。
「ミアとリリの母親。私の娘だよ」
「その人は今どこに?」
問いかけた瞬間、マルタの目が伏せられた。
「死んだ」
レオンは戸惑った。
この街では、それだけなら珍しくない。
だがマルタは続けた。
「死んだのに、戻ってこなかった」
意味を理解するまで少し時間がかかった。
「戻って……こなかった?」
「この街じゃ、人は死ねばまた動き出す。でもセラは違った。身体を探しても、その後どこにも現れなかった」
リリが階段を下りてくる。
小さな手で毛布を強く握っていた。
「その声、お母さんじゃない」
レオンは彼女を見る。
「どうして分かる?」
「お母さんは、ミアに『もう離れなくていい』なんて言わない」
リリの唇が震えた。
「お母さんは、ずっと言ってた。私たちには、自分で行きたい場所を決めてほしいって」
レオンは何も言えなかった。
記憶の中で、ミアも同じ違和感に気づいていた。
あの声は似ていた。
だからこそ、近づいた。
でも本人ではない。
「もう一つ見た」
レオンは記憶を思い返す。
「白い服の人間の手首に、印があった」
指で形を描く。
「円の中に、逆さまの鐘」
エリシアの表情が変わった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




