第四話 二度目の死・後編
昼前になると、ヴァルネを覆っていた雲が少しずつ切れ始めた。
青鹿亭を出たレオンは、眩しさに目を細めながら空を見上げた。雲の隙間から落ちた光が濡れた石畳を照らし、昨夜の雨が残した水溜まりには建物の壁や空の青が揺れている。
通りには朝より多くの人が出ていた。
荷車の車輪が石の継ぎ目を越えるたびにがたがたと音を立て、露店では果物や布、古い金属製品が並べられている。建物と建物の間に張られた縄には洗濯物が揺れ、その下を子供たちが追いかけっこをしながら走り抜けていった。
少し遠くには城壁が見える。
その向こうには緑の丘と森が続き、さらに先には霞んだ山の稜線があった。
昨日までなら、ただ知らない異世界の景色だと思っただろう。
今は、その穏やかな景色の裏側で誰かが二度目の死を迎えていることを知っている。
「さっきの印、知ってるのか?」
隣を歩くエリシアへ聞く。
彼女は少し間を置いて答えた。
「知ってる」
「何なんだ?」
「滅鐘教団」
「めっしょう……?」
「滅鐘教団」
聞き慣れない名前だった。
「宗教?」
「昔は、そう呼ばれてた」
「昔は?」
エリシアはそれ以上答えなかった。
レオンはため息をつく。
「また今は話せない?」
「全部は知らない」
「じゃあ知ってる範囲で」
少し考えてから、エリシアが口を開いた。
「死者に終わりを与える人たち」
「終わり?」
レオンは足を止めかける。
「それって……二度目の死?」
「たぶん」
「ミアを殺したのも?」
「まだ分からない」
断定しない。
それでも、ミアの記憶にあった逆さ鐘の印と「死者に終わりを与える」という言葉が、無関係とは思えなかった。
「何でそんな教団があるんだよ」
思わず声に苛立ちが混じった。
「死んだ後も生きてるなら、それでいいだろ。わざわざもう一度殺す必要なんて――」
言いながら、昨日墓へ花を持っていた老人を思い出した。
何十年。
何百年。
この姿のまま続くとしたら。
それでも全員が「続けたい」と思うのだろうか。
口にしかけた言葉を飲み込む。
「……いや。分からないな」
エリシアがレオンを見る。
「何が?」
「俺、まだこの世界で死んだ人がどう感じてるのか、ほとんど知らない」
それなのに、自分の価値観だけで決めるのも違う気がした。
「でも、ミアは嫌がってた」
「うん」
「だったら、あれは違う」
そこだけははっきり言えた。
本人が嫌がっているのに、誰かが終わらせる。
それを救いとは思えない。
◇
青鹿亭の裏手へ回る。
記憶で見た路地は、昼間になるとずいぶん印象が違っていた。
左右を高い石壁に挟まれた狭い道で、地面には不揃いな石が敷かれている。中央には雨水を流すための浅い溝があり、昨夜の水がまだ細く流れていた。
上を見れば、建物同士の間は狭く切り取られた空しか見えない。
その青い帯を、一羽の鳥が横切っていった。
「ここだ」
レオンは足を止める。
記憶の中で白い人影が立っていた場所。
今は何もない。
石壁。
木箱。
壊れた樽。
路地の隅には苔が生え、風が吹くたび壁際に溜まった枯れ葉が小さく動いている。
「夢じゃなかったよな……」
「記憶」
「分かってるけど、昼間見ると普通すぎてさ」
エリシアが周囲を調べ始める。
レオンも壁や地面へ視線を向けた。
何か残っているはずだ。
ミアはここへ来た。
白い服の人間もいた。
しかし、足跡は雨で消えたのか見つからない。
「昨日の夜、ここに水溜まりがあった」
記憶を頼りに場所を探す。
「この辺だったと思う」
しゃがみ込む。
石畳には細かな砂が溜まり、排水溝の縁には黒い泥が残っている。
その時。
「……これ」
壁の低い位置に、傷が見えた。
汚れだと思って指で泥を払う。
石へ何かが刻まれていた。
円。
その内側に、逆さまの鐘。
「同じだ」
記憶の中で見たものと同じ印だった。
エリシアが隣へしゃがみ込む。
「新しい」
「分かる?」
「周りの石より傷が白い」
言われて見ると、確かに削られた部分だけ色が違っていた。
最近ここへ刻まれたものらしい。
「教団は昔のものじゃなかったのか?」
「昔なくなったはず」
「じゃあ、戻ってきた?」
「……分からない」
嫌な予感がした。
レオンは印の周囲をさらに調べる。
逆さ鐘の下。
石と石の隙間に、不自然な金属が見えた。
「これ、何だ?」
泥を指で掻き出す。
細い取っ手だった。
エリシアと顔を見合わせる。
「まさか」
二人で周囲の砂と泥を退けていく。
石畳だと思っていた一角に、四角い切れ目が現れた。
地下へ続く蓋。
「こんなの、宿の裏にあったのかよ」
レオンは立ち上がり、周囲を確認する。
昼のヴァルネは相変わらず騒がしい。
大通りから商人の呼び声が届き、馬車の車輪の音も聞こえる。青い空の下では鳥が飛び、遠くの煙突から白い煙が上がっていた。
その日常のすぐ下に。
誰にも知られていない入口がある。
エリシアが取っ手へ手をかける。
「待って」
「何?」
「俺がやる」
「どうして?」
「何となく。お前に全部先にやられると、俺がただ後ろ歩いてるだけになるから」
エリシアは数秒レオンを見たあと、手を離した。
「どうぞ」
「そんなあっさり譲られると、それはそれで不安だな」
取っ手を握る。
冷たい金属の感触が掌へ伝わった。
力を込める。
重い。
「っ……!」
錆びついているのか、簡単には動かない。
両手で掴み、腰を落としてもう一度引いた。
石が擦れる低い音がして、蓋が僅かに持ち上がる。
中から冷たい空気が流れ出した。
湿った土と、古い蝋のような臭いがする。
「地下……」
開いた隙間の向こうには、暗闇が続いていた。
石造りの階段らしきものが見える。
レオンは息を整えながら、その奥を覗き込んだ。
何も見えない。
ただ、風だけが下から上がってくる。
「灯りがいるな」
「宿で借りる?」
「そうしよう。さすがに何も見えないところへ――」
その時だった。
地下から音がした。
レオンは言葉を止める。
「今、何か聞こえた?」
エリシアも暗闇を見ている。
「……声」
耳を澄ませる。
大通りの喧騒が遠く感じられた。
地下の奥から、誰かが話している。
女の声。
小さすぎて内容までは聞き取れない。
けれど。
なぜか胸がざわついた。
「……何だ?」
もう一度、声がした。
今度は少しだけはっきり聞こえた。
『――レオン』
全身が固まった。
「え……?」
エリシアがレオンを見る。
「知ってる声?」
分からない。
顔も浮かばない。
誰の声なのか説明できない。
それでも身体の方が、先にその声を知っていた。
胸の奥が苦しくなる。
何かを懐かしいと思った。
ずっと忘れていたものを、突然目の前へ差し出されたような感覚だった。
『レオン』
もう一度。
優しい女の声。
レオンの唇が、考えるより先に動いた。
「……母さん?」
言った瞬間、自分で息を呑んだ。
母親。
日本にいた頃の。
そう思った。
なのに。
顔が出てこない。
髪の色も、目の形も、笑った顔も。
何一つ思い出せなかった。
暗い階段の奥から、声だけがもう一度レオンを呼んでいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




