第五話 鐘の下・前編
『レオン』
地下から聞こえた女の声に、レオンは開きかけた石蓋の前で動けなくなった。
青鹿亭の裏路地には昼の光が差している。頭上には建物同士の隙間を切り取った細い青空があり、軒先を渡る鳥の鳴き声や、大通りを走る荷車の音まで聞こえていた。
それなのに、足元の暗闇だけが別の場所へ繋がっているように見える。
「……母さん?」
自分の口から出た言葉に、レオン自身が一番驚いた。
日本にいた頃の母親。その存在は知っている。家族がいたという感覚も残っている。
けれど、顔が浮かばない。
声だって思い出せないはずなのに、地下から聞こえた女の声を、身体はなぜか懐かしいものとして受け取っていた。
「レオン」
隣から呼ばれ、我に返った。
エリシアがこちらを見ている。
「今の声、知ってる?」
「……分からない」
「母さんって言った」
「俺が一番困ってるよ」
もう一度、暗い階段を覗く。
声は聞こえなくなっていた。
地下から流れてくる空気は冷たく、湿った土と古い蝋の臭いが混じっている。石蓋の縁には苔が付いており、長く使われていない入口のように見えるが、ミアの記憶では昨夜ここに誰かがいた。
「行く」
そう言って取っ手を持ち直すと、エリシアが腕を掴んだ。
「そのまま?」
「だって今、俺の名前呼ばれたんだぞ」
「だから危ない」
「……それもそうか」
言われて初めて、自分が暗闇へ飛び込もうとしていたことに気づいた。
ミアは母親の声で呼び出された。
そして消えた。
その直後に、今度は自分が知っているはずの声で名前を呼ばれている。
「完全に同じ手口じゃん……」
「うん」
「止めてくれてありがとう」
「灯りを持ってくる」
「一緒に行こう。ここで一人で待つのは嫌だ」
エリシアは少しだけ首を傾げたが、何も言わず青鹿亭へ戻った。
◇
マルタから古い角灯を借り、二人は再び路地へ戻った。
事情をすべて話したわけではない。ただ、ミアが消えた場所の近くに地下への入口を見つけたと伝えると、マルタは顔を強張らせながらも灯りを貸してくれた。
『無茶だけはするんじゃないよ』
その言葉が、階段を下り始めた今になって妙に重く感じられる。
レオンが角灯を前へ掲げると、橙色の光が石壁へ広がった。
階段は人一人がやっと通れる程度の幅しかなく、両側の壁は湿気で黒ずんでいる。隙間から細い根が伸びている場所もあり、天井から落ちた水滴が段差の窪みに小さな水溜まりを作っていた。
一段下りるたび、地上の音が遠くなる。
最初は聞こえていた荷車の音が消え、次に人々の話し声が聞こえなくなった。やがて残ったのは、自分たちの靴音と、どこかで一定の間隔を置いて落ちる水音だけだった。
「思ったより深いな」
「うん」
「ヴァルネって、地下にも街があるとか?」
「知らない」
「お前が知らないこともあるんだな」
「あるよ」
「ちょっと安心した」
「どうして?」
「何でも知ってる奴と一緒にいるより、人間味あるだろ」
言ってから、相手が人間なのか分からないことを思い出した。
「……今のなし」
「どうして?」
「説明すると面倒だから」
エリシアは意味が分からないという顔をしたまま、先へ進んだ。
階段はやがて終わり、細い通路へ変わった。
床には大きさの揃っていない石が敷かれ、ところどころ泥が溜まっている。壁には一定の間隔で鉄製の燭台が取り付けられていたが、蝋燭はほとんど燃え尽きていた。
ただし、全部ではない。
「これ……」
一つの燭台に、まだ新しい蝋が残っていた。
表面は白く、垂れた跡も柔らかそうに見える。
エリシアが指先で触れる。
「最近使われてる」
「やっぱり誰かいるんだな」
古い地下道を偶然見つけただけなら、まだよかった。
誰かがここへ出入りしている。
しかも昨夜、ミアを呼び出した何者かと無関係とは思えない。
レオンは角灯を持つ手に力を入れた。
通路を進むにつれ、空気の臭いが少しずつ変わっていった。湿った土の臭いに、焦げた蝋と香のような甘い匂いが混ざり始める。
やがて壁の一部に文字が見えた。
「エリシア、これ読める?」
削られた石板だった。
文字の大半は苔と汚れに覆われているが、いくつかの行はまだ残っている。
エリシアが角灯へ近づく。
「『死は、終わりでなければならない』」
レオンは眉を寄せた。
「……続きは?」
「『終わりなき生を、救いと呼ぶな』」
地下の静けさの中で聞くと、妙に耳へ残る言葉だった。
レオンは石板を見上げる。
この世界では、人は死んでも動き続ける。
昨日までの自分なら、それを単純に「死んでも生きられる」と考えていたかもしれない。
しかし、ロウ村で同じ行動を繰り返している死者を見た。
ヴァルネでは、自分が何者だったかを忘れないため、自分の墓へ花を持っていく者もいる。
永遠に続くことが、本当に救いなのか。
「だからって、勝手に終わらせていい理由にはならないだろ」
思わず呟いた。
エリシアがレオンを見る。
「ミアは嫌がってた。あの子はまだここにいたかったんだろ」
「うん」
そこだけは迷わなかった。
二人はさらに奥へ進んだ。
◇
通路の先に、扉があった。
木製だったが、長い年月で黒く変色している。鉄の取っ手には錆が浮いているものの、扉の周囲に積もった埃には何本もの線が残っていた。
最近も開けられている。
レオンはエリシアを見る。
彼女は腰の剣へ手を添えた。
「俺が開ける?」
「私が開ける」
「さっきは譲ってくれたのに」
「今回は中に誰かいる」
「……じゃあ任せる」
妙なところで意地を張って死にたくはない。
エリシアがゆっくり扉を押した。
蝶番が低い音を立てる。
角灯の光が、扉の向こうへ伸びていった。
広い空間だった。
天井は思っていたより高く、何本もの太い石柱が並んでいる。その間には古びた長椅子が置かれ、正面には祭壇らしきものが見えた。
壁際には何十本もの蝋燭が灯されている。
人がいる。
白い服を着た者たちが、長椅子の間に立っていた。
十人ほど。
誰もこちらを見ていない。
全員が、正面を向いている。
レオンは角灯を少し持ち上げた。
そこで祭壇の上にあるものが見えた。
「……鐘?」
黒い鐘だった。
ただし、普通の鐘とは向きが違う。
吊り下げられているのではなく、上下を逆にした状態で石の台座へ固定されている。表面には円形の枠と細かな文字が彫られ、周囲には黒く焦げたような跡が残っていた。
ミアを連れ去った者の手首にあった印。
路地の壁に刻まれていた印。
あれと同じ形だ。
「滅鐘教団……」
レオンが呟いた時だった。
「違います」
礼拝堂の奥から声がした。
白い服を着た男が、祭壇の横から姿を現す。
年齢は三十代ほどに見えた。黒い髪を後ろで束ね、表情には敵意らしいものがない。首には逆さ鐘を模した小さな飾りを下げていた。
「私たちは、誰かを殺したいわけではありません」
男の声は穏やかだった。
「死者に、終わる権利を返したいだけです」
レオンは眉を寄せる。
「ミアもそうだったって言うつもりか?」
男の表情が僅かに曇った。
「少女のことですか」
「昨日、あんたたちの印をつけた奴に連れていかれた。あの子は嫌がってたぞ」
「……それについては、私には分かりません」
「便利だな」
「レオン」
エリシアが低い声で名前を呼んだ。
熱くなるな、という意味だろう。
分かっている。
それでも、目の前の男があまりにも静かに話すことが腹立たしかった。
「じゃあ、ここで何してる?」
レオンが尋ねる。
男は答えず、祭壇の前へ視線を向けた。
そこでようやく、レオンも気づいた。
白い服の人々の奥。
一人の男が、祭壇の前に膝をついていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




