第五話 鐘の下・後編
男は大柄だった。
四十代後半ほどに見え、短く刈った髪には白いものが混じっている。厚い肩と腕には古い傷がいくつも走っており、鍛冶職人か兵士だったのかもしれないとレオンは思った。
ただ、背中はひどく小さく見えた。
両手を膝の上へ置いたまま、黒い鐘を見上げている。
「ガレス」
白衣の男が声をかけた。
「まだ時間はあります」
「……分かってる」
ガレスの声は低く、掠れていた。
「誰?」
レオンが小声で尋ねる。
「知らない」
エリシアも初めて見るらしい。
ガレスは二人の存在に気づいたのか、ゆっくり振り返った。
「誰だ、お前ら」
「勝手に入った。悪い」
「悪いと思ってる奴の入り方じゃねえな」
「俺もそう思う」
ガレスの口元がほんの少しだけ緩んだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
祭壇の横にいた教団の男が言う。
「彼は自分の意思でここへ来ました」
「二度目の死を選ぶために?」
レオンが尋ねる。
「そうです」
ガレスが顔をしかめた。
「まだ選んでねえよ」
「失礼しました」
教団の男は素直に頭を下げた。
そのやり取りが、レオンには少し意外だった。
もっと狂信的な集団を想像していた。
ミアを連れ去った存在や、あの白い手を見た直後だったからなおさらだ。
だが目の前の男は、無理にガレスを押さえつけてもいない。
「どうしてここに?」
レオンがガレスへ聞いた。
「お前に関係あるか?」
「ない。でも、気になった」
「正直だな」
ガレスは鼻で笑い、しばらく黙った。
礼拝堂の天井から水滴が落ちた。
ぽつん、と石床へ音が響く。
「女房がいた」
やがてガレスが言った。
「リナって名前だった。口うるさくて、料理が下手で、寝相も最悪だった」
悪口ばかりなのに、声が少し柔らかくなった。
「三十年前に死んだ」
レオンは黙って聞く。
「死んだなら、こっちじゃ普通はまた起きるんだろ?」
「ああ。俺もそうだった」
ガレスは自分の胸を叩いた。
「戦場で腹を槍に貫かれてな。死んだと思ったら、翌朝には普通に起きた。腹に穴は空いてたが、それだけだった」
自嘲するように笑う。
「なのに、リナは戻らなかった」
レオンの中で、セラの話と繋がった。
ミアとリリの母親。
死んだのに、死者として戻ってこなかった女。
「それからずっと探してる?」
「最初の十年はな」
ガレスは黒い鐘を見る。
「二十年目には、探す場所がなくなった。それでも、もしかしたらって思ってた」
礼拝堂に立つ白衣の者たちは、誰も口を挟まない。
「三十年だぞ」
ガレスが笑った。
今度は笑顔には見えなかった。
「もう疲れたんだよ」
レオンは返す言葉を探した。
簡単に「生きろ」と言える相手ではない。
そもそも、この男はすでに死んでいる。
日本にいた頃なら、自殺しようとしている人間を止める言葉を考えたかもしれない。
だが、この世界で死者として三十年、戻らない妻を待った男に、同じ言葉を使っていいのか分からなかった。
「リナさんに会えるって言われた?」
ガレスの肩が僅かに動いた。
「……声を聞いた」
「どこで?」
「三日前。家にいたら外から呼ばれた」
嫌な予感が当たった。
「どんな声だった?」
「リナだよ」
「本当に?」
ガレスがレオンを睨んだ。
「何が言いてえ」
「ミアも、母親の声を聞いて外へ出た」
礼拝堂の空気が僅かに変わった。
「その母親も、死んだ後に戻ってきてない。声はそっくりだった。でもミアは途中で、本人じゃないって気づいた」
「……」
「だから、あんたが聞いた声も――」
「黙れ」
低い声だった。
レオンは口を閉じる。
ガレスの拳が膝の上で強く握られていた。
「三十年だ」
「……分かってる」
「分かるわけねえだろ」
怒鳴られた。
礼拝堂の蝋燭が、その声に震えたように見えた。
「毎日起きて、今日もいねえって思う。街で女の後ろ姿見るたびに振り返る。似た声がしたら追いかける。家に帰れば、あいつが使ってた椅子だけ残ってる」
声が少しずつ震えていく。
「三十年、それやってみろ。それから偽物かもしれねえとか言え」
何も言えなかった。
レオンは、自分の足元へ目を落とした。
石の隙間には黒い蝋が固まり、誰かの靴跡が何重にも重なっている。この場所へ来たのは、ガレス一人ではないのだろう。
長い年月を死者として生きることが、どれほどのものなのか。
自分には分からない。
「……ごめん」
レオンは言った。
ガレスが顔を上げる。
「でも、決められないなら、今決めなくてもいいんじゃないか?」
「何?」
「終わりたいなら、俺が止めていいのか分からない。でも、迷ってるんだろ?」
ガレスは何も答えなかった。
「だったら今日じゃなくていい。明日でも、一年後でもいいだろ」
「死者に一年なんて何の意味がある」
「じゃあ、一日でもいい」
レオンはガレスを見る。
「少なくとも、誰かに声を聞かされて、訳が分からないまま決める必要はないだろ」
しばらく誰も話さなかった。
やがてガレスが、黒い鐘から目を逸らした。
「……今日は帰る」
白衣の男が静かに頷く。
「分かりました」
止めない。
怒りもしない。
ガレスはゆっくり立ち上がると、レオンの横を通り過ぎた。
「ありがとな、とは言わねえぞ」
「別にいいよ」
「お前の顔、覚えたからな」
「それ、脅しじゃないよな?」
ガレスは答えず、鼻で笑って礼拝堂を出ていった。
その背中が扉の向こうへ消えるまで、レオンは見送った。
「意外です」
教団の男が言った。
「何が?」
「あなたが彼を止めるとは思いませんでした」
「俺のこと知ってるみたいに言うな」
男は微笑んだ。
「知っていますよ」
空気が変わった。
レオンは眉を寄せる。
「……何?」
エリシアの手が剣へ伸びた。
教団の男はそれを見ても表情を変えない。
「ようやく戻ってこられたのですね」
胸の奥が強く脈打った。
「戻った?」
「ええ。あなたは――」
男の言葉が途切れた。
エリシアの剣が、いつの間にか抜かれていた。
刃先が男の喉元へ向けられている。
「それ以上言わないで」
レオンはエリシアを見る。
今まで聞いたことのない声だった。
低く、冷たい。
教団の男はゆっくり両手を上げた。
「相変わらずですね、エリシア」
「お前は誰?」
「私はあなたほど長く生きてはいませんよ」
「質問に答えて」
男は答えなかった。
代わりに、レオンを見た。
「あなたは何も覚えていないのですね」
頭の奥が痛んだ。
「……何の話だ」
「だから彼女は――」
「黙って」
エリシアの剣先が僅かに動く。
男の首に細い傷ができた。
血は出ない。
それでも男は一歩下がった。
その瞬間。
黒い鐘の奥から、小さな音が聞こえた。
チン、と。
ロウで聞いたものとは比べものにならないほど小さい。
なのに、レオンの頭の中では大きく響いた。
視界が揺れる。
「……っ」
どこかの匂いがした。
雨の匂い。
濡れた石。
焦げた木。
誰かが泣いている。
白い髪が見えた。
自分の手が、血で濡れている。
『――お願い』
女の声。
次の瞬間には消えた。
「レオン!」
エリシアの声で意識が戻った。
膝をついていた。
「今の……」
頭を押さえる。
何を見た。
どこだった。
思い出そうとすると、霧の向こうへ逃げていく。
「また記憶?」
「分からない。誰にも触ってない」
エリシアの顔が強張った。
礼拝堂の奥で、白衣の男がこちらを見ている。
「やはり」
その一言だけ聞こえた。
直後、壁際の蝋燭が一斉に消えた。
◇
完全な暗闇になった。
「エリシア!」
「動かないで!」
剣が何かを弾く音が響いた。
レオンは角灯を持ち上げようとしたが、誰かの肩がぶつかり、手から落ちた。
硝子の割れる音。
光が消える。
礼拝堂の中で何人もの足音が動き始めた。
どこから来るのか分からない。
右。
左。
背後。
レオンは壁を探して手を伸ばす。
「くそ、何も見えない……!」
指先が冷たい石へ触れた。
それを頼りに身体を寄せる。
暗闇の向こうで短い悲鳴が聞こえ、そのあと何か重いものが床へ落ちた。
「エリシア!」
「いる」
すぐ近くから返事があった。
次の瞬間、白い光が一度だけ走った。
エリシアの剣が、わずかな光をまとっている。
その一瞬で礼拝堂の中が見えた。
長椅子。
石柱。
開いたままの扉。
白衣の者たちが、次々と別の通路へ消えていく。
「逃げてるぞ!」
レオンが言うより早く、エリシアが追おうとした。
だが足を止める。
「どうした?」
「レオンを置いていけない」
「俺のせい?」
「うん」
「今ちょっと傷ついたぞ」
言いながらも、その判断が正しいことは分かっていた。
暗闇の中で一人残されたら、何が起きるか分からない。
エリシアが壁際の燭台から残った火を取り、別の蝋燭へ移した。
薄い明かりが戻る。
礼拝堂には、もう二人しかいなかった。
白衣の者たちがいた場所には長椅子が残り、黒い鐘だけが何事もなかったように祭壇へ据えられている。
レオンは床に落ちた角灯の破片を避けながら、祭壇へ近づいた。
「さっきの奴、俺を知ってた」
「……うん」
「お前も止めた」
エリシアは黙っている。
「何を言おうとしてた?」
「分からない」
「嘘だろ」
思ったより強い声が出た。
エリシアがレオンを見る。
「『戻ってきた』って言った。俺はこの世界に来たばっかりだと思ってる。それなのにあいつは俺を知ってて、お前は続きを言わせなかった」
胸の奥に溜まっていたものが、一気に出てくる。
「俺だけ何も知らないんだぞ」
エリシアは何も言わなかった。
その沈黙が余計に腹立たしい。
「何で名前知ってたのかも教えてくれない。俺が何なのかも教えてくれない。なのに危ないから黙ってろって、それじゃ――」
言葉が止まった。
エリシアの顔を見たからだ。
いつもの無表情に近い。
それでも、赤い瞳の奥にあるものだけは、今までと違って見えた。
恐れている。
何を。
自分を?
それとも、自分が何かを知ることを?
「……ごめん」
エリシアが言った。
レオンはすぐには返事をしなかった。
腹は立っている。
納得もしていない。
「謝ればいいって話じゃないからな」
「うん」
「いつかは話せよ」
少し長い間があった。
「……うん」
今度の返事は、今までより遅かった。
レオンはため息を吐き、祭壇の黒い鐘を見る。
表面には細かな文字が刻まれている。
角度を変えると、一部だけ読めた。
『死者に静寂を』
さらにその下。
『魂を、そのあるべき場所へ』
レオンは指で文字をなぞりかけ、途中で手を止めた。
「触るなって言う?」
「言う」
「だと思った」
手を引っ込める。
何となく祭壇の向こうへ視線を向けると、白衣の者たちが逃げた通路とは別に、小さな木扉があった。
「まだ奥がある」
二人で近づく。
扉には鍵がかかっていなかった。
中は小さな部屋だった。
壁一面に棚があり、紙束や薄い木札が無造作に置かれている。
「記録室?」
レオンは棚へ近づいた。
文字は読めるものと読めないものが混じっていたが、机の上には何枚か新しい紙が残されていた。
そこには人の名前が並んでいる。
「ガレス……」
さっきの男の名前があった。
その横には『リナ』と書かれている。
さらに別の紙へ目を移す。
「これ……」
ミアの名前。
その横には『セラ』。
どちらも、戻ってこなかった家族の名前だ。
「対象者?」
紙の上部に書かれていた文字を読む。
何人もの名前が並んでいる。
レオンは一枚ずつ目で追った。
七人。
昨日、衛兵が言っていた数と同じだった。
黒い灰になった死者は、すでに七人。
そして紙には、それより多くの名前が書かれている。
「まだいる……」
下まで数える。
十一人。
四人残っている。
レオンは紙を握る手に力が入った。
「これ、次に狙う奴らじゃないのか?」
エリシアが横から紙を見る。
「可能性はある」
「じゃあ衛兵に見せよう」
「うん」
紙を折り畳み、服の内側へ入れる。
その時、机の端に小さな黒い染みがあるのを見つけた。
灰だった。
レオンは触れずに覗き込む。
その中に、細い白い糸が混じっている。
ミアの記憶で見た、あの白い服とよく似た布地だった。
「本当に、あいつらがやったのか……」
答えは出ない。
けれど少なくとも、この教団と二度目の死が無関係ではない。
二人は礼拝堂へ戻った。
黒い鐘の前を通る時、レオンは足を止めた。
「なあ」
「何?」
「さっき俺が見たの、何だったと思う?」
「分からない」
「誰にも触ってなかった」
「うん」
「なのに記憶みたいなのが見えた」
自分の手を見る。
雨。
血。
泣いていた誰か。
白い髪。
断片しか残っていない。
それでも、ただの幻だったとは思えなかった。
「しかも、あいつは俺を知ってた」
エリシアは答えない。
レオンは黒い鐘を見上げた。
地下には風がない。
それなのに、どこからか微かな音がした気がした。
鐘ではない。
誰かの声だった。
『……おかえり』
レオンは振り返る。
「今、何か言った?」
「言ってない」
礼拝堂には誰もいない。
奥の通路にも、人影は見えなかった。
それでも、声を聞いた気がした。
懐かしい声。
知らないはずなのに、胸だけが覚えている声。
レオンはしばらく暗い通路を見つめたあと、エリシアと共に地上へ戻った。
長い階段を上がるにつれて、少しずつ外の音が聞こえてくる。
人の話し声。
荷車の車輪。
馬の蹄。
そして、鳥の鳴き声。
最後の一段を上がると、午後の光が眩しくて、レオンは思わず目を細めた。
青鹿亭の裏路地は、地下へ入る前と何も変わっていない。
狭い空には白い雲が流れ、屋根の上では一匹の猫が前脚を舐めていた。大通りの方からは商人の呼び込みまで聞こえてくる。
地面の下に、あんな場所があることなど誰も知らないようだった。
レオンは石蓋を閉じる前に、もう一度地下を覗いた。
暗闇の奥は何も答えない。
この世界へ来てから、分からないことばかりだった。
だが今日初めて、その疑問の中に自分自身が含まれていることを、はっきり突きつけられた。
死者の国がおかしいだけではない。
どうやら、自分も同じくらいおかしいらしい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




