第四話 二度目の死・前編
警告の鐘が鳴り止んでも、青鹿亭には誰も動こうとする者がいなかった。
暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜ、食堂の壁には火の色が揺れている。少し前まで客たちが酒や食事を楽しんでいた場所なのに、今は奥の廊下へ集まった者たちの息遣いすら聞こえそうなほど静かだった。
レオンは床へ目を落とした。
黒い灰が、人一人分ほどの範囲に広がっている。
窓の隙間から夜風が入り込むたび、表面の細かな灰がさらさらと動いた。暖炉の煤とは違う。粒子が細かく、光をほとんど反射しないせいで、床板だけがそこから切り取られたように黒く見える。
その中央には、ミアが抱えていた布が残されていた。
「……これ、本当にミアなのか?」
自分で口にしても信じられなかった。
ついさっきまで、ここにいた。
『お兄ちゃん、その棒なに?』
そう言って笑っていた少女の顔を、まだはっきり覚えている。
なのに今、目の前にあるのは黒い灰だけだった。
「触らないで」
エリシアに言われ、レオンは灰へ伸ばしかけていた手を止めた。
「でも、これがミアなら……」
「だから」
いつもより強い声だった。
レオンは手を引いた。
廊下の向こうでは、宿の女――マルタが壁へ手をついたまま灰を見つめていた。普段ならよく通りそうな太い声も、今は出てこないらしい。
その隣には、いつの間にか一人の少女が立っていた。
ミアより少し幼い。肩まで伸びた茶色い髪を寝癖のついたまま垂らし、薄い寝巻きの上から毛布を羽織っている。
「ミア……?」
少女が呼ぶ。
返事はない。
もう一度呼ぼうとして、唇だけが動いた。
マルタが少女の肩を抱く。
「リリ。見なくていい」
「でも、おばあちゃん……」
そこで言葉が途切れた。
レオンは顔を逸らした。
見ているのがつらかった。
昨日までなら、目の前の少女もマルタも「死人」とひと括りにしていたかもしれない。だが今は違う。死んでいるかどうかなど関係なく、家族を失った人間がそこにいるようにしか見えなかった。
外から複数の足音が聞こえてきた。
宿の扉が開き、夜の冷たい空気と一緒に三人の衛兵が入ってくる。金属製の胸当てが灯りを反射し、石畳を歩いてきた靴には湿った土が付着していた。
「通報があったのはここか」
先頭の男が言った。
門で会った兵士とは違う。四十代ほどに見える長身の男で、左のこめかみから耳へかけて大きな傷跡がある。
彼は灰を見るなり、足を止めた。
「……またか」
マルタが顔を上げる。
「またって、どういうことだい」
衛兵はすぐには答えなかった。しゃがみ込み、灰に触れないよう距離を取ったまま残された布を確認している。
「今月に入って七人目だ」
「七人?」
レオンの声が出た。
衛兵がこちらを見る。
「お前は?」
「レオン。昨日この街に来たばかりです」
「そうか」
男は一度エリシアにも目を向けたが、何も言わなかった。
マルタの顔色が変わる。
「七人も消えてるのに、何でそんな話が広まってないんだい」
「混乱を避けるためだ。原因も分かってない段階で噂だけ広げても、街中が疑心暗鬼になる」
「だからって……」
マルタの手が震えていた。
衛兵は小さく息を吐く。
「すまない」
短い言葉だったが、それ以上言えることがないのだろう。
レオンは床の灰を見る。
「この状態になった人は……戻らないんですか?」
衛兵の表情が僅かに曇った。
「戻った例はない」
レオンは眉を寄せる。
「戻るって?」
質問の意味が伝わらなかったらしく、衛兵がこちらを見る。
「この世界のことを、まだよく知らないんです」
「ああ……そういうことか」
男は少し考えてから、床の灰を見た。
「俺たちは一度死んでいる。それでも身体は残り、こうして動いている。多少身体を損傷しても、普通ならこんな消え方はしない」
灰の上を、窓から入った風が撫でていく。
「だが、まれに死者そのものが消えることがある。身体だけじゃない。しばらく待っても戻らないし、どこを探しても見つからない」
「それを……何て呼ぶんです?」
衛兵は少しだけ間を置いた。
「二度目の死」
レオンは何も言えなかった。
昨日、この世界の人間がすでに死んでいることを知ったばかりだった。
死んでも意識があり、働き、笑い、食事までしている。その異常さをようやく受け入れ始めたところで、今度はその先があると知らされた。
一度死んだ者が、もう一度死ぬ。
そして今度こそ、何も残らない。
レオンは灰から視線を外し、窓の外を見た。
ヴァルネの夜空には薄い雲が流れ、その隙間から青白い月が覗いている。屋根の上では煙突の煙が風に流され、遠くの塔には黄色い灯りがいくつも残っていた。
これだけ街が生きているように見えるのに。
その中で、ミア一人だけが消えた。
「ロウの奴らも……こうなる可能性がある?」
思わずエリシアへ尋ねる。
「違う」
彼女は首を横に振った。
「ロウでレオンを襲った死者と、これは別」
「じゃあ、普通の死者が生きてる人間を見つけたら、全員ああなるわけじゃない?」
「ならない。ロウの鐘がおかしかった」
昨日から胸のどこかに引っかかっていたものが、少しだけほどけた。
同時に新しい疑問が生まれる。
「じゃあ、ミアに何が起きたんだよ」
誰も答えなかった。
外では、警告を聞いて閉じていた店が一軒、また一軒と扉を開け始めていた。
遠くで馬の蹄が石畳を叩き、夜空を横切る鳥の影が屋根の向こうへ消えていく。
ヴァルネはもう、普段の夜へ戻ろうとしている。
青鹿亭だけが、その流れから取り残されていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




