第三話 灰都ヴァルネ・後編
陽が西へ傾き始めた頃、レオンの腹が大きな音を立てた。
通りの喧騒に紛れてくれるかと思ったが、隣を歩いていたエリシアにはしっかり聞こえたらしい。
「お腹空いた?」
「聞こえてるなら聞くなよ」
「空いてるんだ」
「朝から水しか飲んでないんだから当然だろ」
ロウ村では食事を探す余裕などなかった。街へ着いて安心したせいか、一度空腹を意識すると急に何か食べたくなってくる。
周囲には食堂らしい店が何軒かあり、煮込み料理の匂いが通りまで漂っていた。
「死者の街で飯を食うって、まだちょっと抵抗あるけど……」
「普通の料理だよ」
「昨日『焼きたて』って言いながら黒い塊差し出されたばっかりなんだよ。少しくらい警戒させてくれ」
エリシアは何も言わず、通りの角にある小さな店を指差した。
「そこなら大丈夫」
「知ってる店?」
「前に入った」
「いつ?」
エリシアが黙った。
「……もういい。聞いた俺が悪かった」
二人は店へ入った。
◇
出てきた料理は、レオンが想像していたよりずっと普通だった。
深い皿には肉と野菜を煮込んだスープが入り、黒っぽいパンと薄切りの肉が添えられている。湯気と一緒に香辛料の匂いが立ち上がり、空腹だった胃がすぐに反応した。
「普通にうまそうだな」
「だから普通だって言った」
「死人しかいない街だぞ。もう少し警戒するだろ」
スプーンでスープを掬い、恐る恐る口へ入れる。
温かさが舌から喉へ流れ、少し濃い塩味が広がった。
思わず肩の力が抜ける。
「……うまい」
昨日からまともに食べていなかったせいもあるのだろうが、今まで食べた中でもかなり美味しく感じた。
食べ物が温かい。
ただそれだけのことが、妙に安心できた。
数口食べてから向かいを見ると、エリシアは何も注文していなかった。
「食べないの?」
「必要ない」
「食べられはするんだろ?」
「うん」
「じゃあ頼めばいいじゃん」
「お金かかる」
そこでレオンは手を止めた。
「……俺のせいで節約してる?」
「少し」
「ごめん」
借りている金で自分だけ満腹になるのも気が引ける。
レオンはパンを半分に割り、エリシアへ差し出した。
「食う?」
エリシアは差し出されたパンを見る。
「いいの?」
「元はお前の金だけどな」
「それもそう」
「そこは否定してくれない?」
エリシアはパンを受け取り、小さく齧った。
その様子を、レオンは何となく見ていた。
「味、分かるの?」
「少し」
「少し?」
「薄い」
「死んでると味も薄くなる?」
「人による」
「便利だな、その言葉」
もう一口食べたエリシアが、僅かに眉を寄せた。
「でも、塩辛い」
「それは俺も思った」
レオンは笑った。
こうして向かいでパンを食べている姿だけを見れば、とても魔王を倒した勇者には見えない。まして自分の墓が街の中心に建っているような人物には、なおさらだった。
ふと思い出す。
「そういえば、門番がお前に『何年ぶり』って言ってたよな」
「うん」
「何歳なの?」
エリシアの手が止まる。
「分からない」
「自分の年齢が?」
「数えてない」
「見た目は十五、六くらいだろ」
「たぶん」
「……何年その見た目なの?」
エリシアはパンへ視線を戻した。
答えないらしい。
「そのうち教えてくれる?」
「必要になったら」
「今でもかなり必要な情報だと思うんだけどな」
レオンは苦笑しながらスープを口へ運んだ。
聞けば聞くほど疑問は増えるが、エリシアが話さないと決めたことを無理に聞いても仕方がない。それくらいは、まだ一日ほどの付き合いでも分かり始めていた。
◇
食事を終える頃には、街に午後の影が伸び始めていた。
今夜の宿を探すため大通りから少し外れた道へ入り、何軒か見て回った末、エリシアが一つの建物の前で足を止めた。
古い木造の宿だった。
入口の上には、青く塗られた鹿の看板が下がっている。
「青鹿亭」
レオンが文字を読む。
「ここ?」
「うん」
「また知ってる店?」
「前に泊まった」
「だから、その『前』が何年前なのか知りたいんだけど」
エリシアは扉を開けた。
「聞いてないな?」
ため息をつきながら後へ続く。
中へ入ると、暖炉の火が目に入った。
外から見た印象より広く、入口の奥にはいくつかの木製の机が並んでいる。壁には古い絵や旅人が残したらしい小物が飾られ、食堂も兼ねているようだった。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから女が顔を出した。
四十代くらいに見える。
右腕の肘近くから皮膚が失われ、白い骨が一部露出していた。レオンは一瞬そこへ目を向けてしまったが、すぐに視線を顔へ戻す。
この街では、あれくらいの傷は珍しくない。
少しずつだが、自分の方が慣れてきていることにも気づいた。
宿の女はまずレオンを見たあと、隣のエリシアへ視線を向けた。
「……あんた」
目を丸くする。
「久しぶり」
エリシアが言った。
「本当に久しぶりじゃないか!」
またか。
レオンは横目でエリシアを見る。
「知り合い?」
「たぶん」
「たぶんって何だい!」
宿の女が豪快に笑った。
「昔、何度か泊まっただろ。まあ、あんたなら忘れてても驚かないけどね」
「ごめん」
「昔って……」
レオンは聞きかけて、やめた。
どうせ答えてくれない。
「そっちの子は?」
宿の女がレオンを見る。
「レオンです。初めまして」
「はいはい、旅人二人ね」
女はカウンターに置かれた帳面を開いた。
「部屋は一つでいいかい?」
「え?」
思わず声が出た。
ところがエリシアは何の迷いもなく頷く。
「うん」
「ちょっと待って」
「何?」
「一部屋?」
「危ないから」
「何が?」
「レオンが」
「俺?」
「一人だと何するか分からない」
「俺、そんな信用ない?」
「昨日、死者に触って変な記憶見てた」
「好きで触ったわけじゃないだろ!」
宿の女が声を上げて笑った。
「随分仲がいいねえ」
「会ってまだ一日くらいです」
「そうなのかい?」
女は意外そうに二人を見比べる。
エリシアは特に何も言わなかった。
「まあいいさ。二階の奥が空いてるよ。ベッドは二つあるから安心しな」
最後の言葉だけ、レオンへ向けられた気がした。
「何で俺を見るんですか」
「別に?」
完全に面白がられている。
鍵を受け取り、階段へ向かおうとした時だった。
「おばあちゃん!」
奥から少女が走ってきた。
十歳を少し過ぎたくらいだろうか。茶色い髪を後ろでまとめ、両腕には洗い終えたらしい布を抱えている。左のこめかみには古い傷が残っていた。
「これ、全部終わったよ」
「ありがとう、ミア。そこに置いといて」
「うん」
ミアと呼ばれた少女は棚へ布を置き、そこで初めてレオンたちに気づいた。
「お客さん?」
「そうだよ」
「こんにちは」
少女は普通に笑った。
「こんにちは」
レオンも返す。
ロウ村で何度も同じ場所へ転んでいた子供が頭をよぎった。
同じ死者でも、あの子とはまるで違う。
ミアの目はきちんとレオンを見ている。
「お兄ちゃん、その棒なに?」
視線の先には、ここまで持ってきた火かき棒があった。
「ああ、これ? 一応武器」
「弱そう」
「初対面でそれ言う?」
ミアが楽しそうに笑う。
横を見ると、エリシアの口元もほんの少し動いた。
「お前も笑っただろ」
「笑ってない」
「最近そればっかりだな」
昨日から張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。
◇
二階の部屋には、本当にベッドが二つあった。
レオンはそれを確認してから、ようやく荷物らしい荷物もない身体を一方へ倒した。
「……疲れた」
思った以上に柔らかい。
森を歩き、街を歩き回った脚が一気に重くなった。
エリシアは窓際の椅子へ座り、夕暮れに染まり始めた街を見ている。
「俺、ロウで目を覚ましてから、まだ一日ちょっとなんだよな」
「うん」
「一週間くらい経った気がする」
自分の手を天井へ向ける。
日本にいた頃の自分とは違う、若い手。
それでも温かく、脈がある。
街を歩いたことで、少しはこの世界が分かると思っていた。
実際、分かったことはある。
死者は全員ロウの住人のように壊れているわけではない。普通に話し、働き、笑い、墓に花まで持っていく。
だが、分かったことが増えるほど、自分だけがそこから外れていることもはっきりした。
「なあ、エリシア」
「何?」
「俺、結構怖いんだけど」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
もっと格好のいい言葉を選ぶつもりだったわけではない。ただ、静かな部屋へ入った途端、ずっと押し込んでいたものが出てきた。
「ロウでは逃げるので精一杯だったし、ここに来てからも見たことないものばっかりだったから、あんまり考える暇なかった。でも今になったら、急に色々考える」
日本での名前を思い出せない。
なぜ若い身体になっているのかも分からない。
この世界へ来た理由も分からない。
周囲にいる人間は、ほとんど全員死んでいる。
頼れるのは、会って一日ほどしか経っていないうえに、自分について何かを知っているのに教えてくれない少女だけだ。
「明日起きたら、俺まで死んでたりしないよな」
半分は冗談のつもりだった。
「分からない」
「そこは大丈夫って言ってくれよ」
エリシアが少し考える。
「大丈夫」
「今考えただろ」
「難しい」
「お前、嘘つくの下手だな」
思わず笑った。
ほんの少しだが、胸の重さが軽くなった気がする。
しばらくして、エリシアが口を開いた。
「ごめん」
「何が?」
「怖いのに、ちゃんと説明できないから」
レオンは身体を起こして、窓際の少女を見る。
エリシアは街の方を見たままだった。
「知ってることもある。でも、まだ言えないこともある」
「……俺のことも?」
返事はなかった。
それで十分だった。
レオンはもう一度ベッドへ身体を預ける。
「まあいいよ」
「いいの?」
「よくはない。でも、今ここで全部話せって言っても、お前は話さないだろ」
「うん」
「そこだけは即答するんだな」
再び笑った。
少なくとも、今夜は昨日より眠れそうだった。
そう思った時。
街のどこかで鐘が鳴った。
カン、カン、カン――。
レオンは反射的に身体を起こした。
ロウの鐘とは違う。
低く響く一音ではなく、短い音が何度も連続している。
「今度は普通の鐘か?」
エリシアはすでに立ち上がっていた。
「違う」
その声を聞いて、眠気が消えた。
「何の鐘?」
「警告」
「何の?」
「分からない」
廊下から足音が聞こえた。
何人かが慌ただしく一階を行き来している。
続いて、下から少女の声が響いた。
「おばあちゃん!」
ミアではない。
別の女の子の声だった。
直後。
「ミア!?」
宿の女の叫び声が聞こえた。
レオンとエリシアはほとんど同時に部屋を出た。
◇
一階へ降りると、宿の空気が先ほどまでとはまるで変わっていた。
何人かの客が奥の廊下へ集まり、宿の女はその中心で立ち尽くしている。
「どうしたんですか?」
レオンが近づく。
女は答えなかった。
床を見ている。
視線を追った。
黒いものが広がっていた。
最初は暖炉の煤でもこぼれたのかと思った。
だが違う。
細かな灰だった。
床板の上へ人一人分ほどの範囲で、黒い灰が広がっている。
その中に、一枚の布が落ちていた。
レオンは見覚えがあった。
少し前。
茶色い髪の少女が、同じ布を抱えて笑っていた。
「……ミア?」
宿の女が震える声で名前を呼ぶ。
返事はない。
廊下の奥にも、部屋の中にも少女の姿はなかった。
あるのは、黒い灰だけだった。
レオンは何が起きたのか理解できず、エリシアを見る。
「これ……何なんだ?」
彼女の表情は、今まで見たどの顔とも違っていた。
赤い瞳が、黒い灰を見つめている。
「エリシア?」
少し長い沈黙のあと、彼女は静かに口を開いた。
「この世界には、死んだ後にも死がある」
レオンは床へ視線を戻した。
ついさっきまで笑っていた少女がいた場所には、もう誰もいない。
街の外では、警告の鐘が鳴り続けていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




