第三話 灰都ヴァルネ・前編
『勇者エリシア、ここに眠る。』
石碑に刻まれた文字を読み終えても、レオンはすぐにその場を動けなかった。
広場の中央に立つ石像と、その隣にいる少女を交互に見る。石像だから髪や瞳の色までは分からないが、顔立ちはどう見ても同じだった。少なくとも、たまたま似ている別人だと言われて納得できる程度ではない。
「……もう一回聞くけど、お前は誰なんだ?」
「エリシア」
「名前じゃなくてさ」
問い返しても、エリシアはそれ以上答えなかった。
レオンは頭を掻きながら、もう一度墓碑へ目を戻した。
「魔王を倒した勇者と同じ名前で、同じ顔をしてて、その勇者の墓の前に本人みたいなのが立ってる。これ、俺じゃなくても混乱するよな?」
「たぶん」
「そこは同意してくれるんだな」
広場を行き交う者たちは、そんな二人の会話など気にも留めていなかった。
買い物袋を抱えた女が石像の前を横切り、その後ろを杖をついた老人が歩いていく。片腕を失っている者もいれば、頬の肉が欠けて奥歯の見えている者もいたが、誰も傷を隠そうとはしていない。
ロウ村で見た光景を思い出し、レオンは無意識に身構えた。
けれど、彼らはこちらへ襲いかかってくることも、同じ道を往復することもなかった。
老人は人混みを避ければ歩く方向を変え、買い物をしていた女は店員へ何かを尋ねている。道を走ってきた子供がぶつかりそうになると、男が身体を引いて避け、その子供へ文句まで言っていた。
「……ロウと全然違うな」
「うん」
「見た目じゃなくて、中身が」
目の前を通った男は左腕の肘から先がなかった。それでも右手で荷物を器用に抱え、知人らしい男へ笑いながら声をかけている。
死者なのだろう。
しかし、昨夜までレオンが思い描いていた「死人」とはあまりにも違った。
そこで背後から鐘の音が響いた。
カァン、カァン――。
「っ!」
レオンの肩が跳ねた。
反射的に周囲を見回すが、道を歩いていた死者たちは誰も立ち止まらない。皮膚が裂けることもなく、店先の会話もそのまま続いている。
「大丈夫」
エリシアが言った。
「分かってる。門の鐘だろ」
「顔は分かってなさそうだった」
「昨日あれだけ追いかけられたら、身体の方が先に反応するんだよ」
胸を押さえながら息を吐く。
普通の鐘と分かっていても、腹に響く音を聞くだけでロウの夜が頭をよぎった。
「そのうち慣れる?」
「慣れたくないなあ……」
エリシアは少しだけ首を傾げた。
レオンは墓碑から離れながら、もう一度ヴァルネの街を見渡した。
「で、これからどうする?」
「宿を探す。その前に必要なものがあれば買う」
「必要なものって言われてもな。俺、荷物どころか財布もないぞ」
服のポケットを探ってみる。
出てきたのは短い紐と、何に使うのか分からない布切れだけだった。
「……本当に何もないな」
「お金も?」
「見れば分かるだろ」
エリシアが黙ってレオンを見る。
「その顔やめろよ。好きで無一文になったわけじゃないからな」
「少しなら持ってる」
「借りてもいい?」
「うん」
「ちゃんと返す」
「別にいい」
「そう言われると逆に怖いんだけど」
二人は広場を離れ、大通りへ向かった。
◇
ヴァルネの中心部へ入るほど、人の数は増えていった。
石畳の道の両側には大小の店が並び、軒先から商品を吊るした店もあれば、通りへ直接布を広げて品物を並べている者もいる。呼び込みの声や値段交渉をする声が重なり、少し離れた場所からは金属を叩く音まで聞こえてきた。
レオンは歩きながら、何度も周囲へ視線を向けた。
腕の骨が露出した男が魚らしきものを並べ、隣では鼻の半分を失った女が野菜を選んでいる。頭に大きな陥没痕のある店主と、腹に縫い跡を残した客が値段を巡って本気で言い争っていた。
「もう少し安くしろよ。昨日より高いだろ」
「昨日と仕入れが違うんだよ。嫌なら向こうで買いな」
「向こうはもっと高えんだよ」
「じゃあうちで買え」
「だから安くしろって言ってるだろ!」
死者同士の会話とは思えないほど、内容は普通だった。
レオンは思わず口元を緩める。
「何?」
エリシアに聞かれた。
「いや。死んでも値切るんだなと思って」
「安い方がいいから」
「そりゃそうか」
考えてみれば、死んだからといって服や住む場所まで不要になるわけではないらしい。食べ物の店も多く、湯気の立つ鍋の前では何人かの死者が順番を待っていた。
「なあ。死者って飯食べなくても平気なんだよな?」
「うん」
「じゃあ何で食うの?」
「食べたいから」
あまりにも単純な答えだった。
「それだけ?」
「レオンは、お腹が空いてなくても何か食べたことない?」
「……あるな」
甘い物を買ったこともあるし、夜中に何となく菓子を口へ入れた記憶もある。日本での自分について曖昧なことは多いが、必要なことだけをして生きていたわけではない。
「なるほどな」
少し先に花屋があった。
色とりどりの花が並ぶ店先には、他の店より多くの客が集まっている。若い女が白い花束を受け取り、金を払っていた。
「あれ、誰かに贈るのか?」
「墓に持っていく人もいる」
レオンは少し考え、それからエリシアを見る。
「自分たちも死んでるのに?」
「自分の墓に持っていく人もいるよ」
「自分の墓?」
思わず足を止めた。
ちょうど店から出てきた老人が、小さな花束を抱えて歩いていく。胸には大きな穴が開いていたが、表情は穏やかだった。
「何のために?」
「忘れないため」
「何を?」
「自分が死んだこととか、生きてたこととか」
エリシアはそれだけ言って歩き出した。
レオンは少し遅れて後を追う。
死んだことを忘れないために、自分の墓へ花を持っていく。
最初は妙な話だと思った。
けれどロウの死者たちを思い出すと、少しだけ意味が違って聞こえた。
パンを売り続けていた女。
井戸から水を汲み続けた老婆。
自分が誰だったのかも、なぜその行動をしているのかも分からなくなったまま繰り返していた。
ヴァルネの死者たちが墓へ花を持っていくのは、そうならないためなのだろうか。
「……忘れることもあるのか?」
エリシアへ尋ねた。
「ある」
「自分のことを?」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
この街を歩いている死者たちが、今は普通に笑い、怒り、買い物をしている。その姿がさっきまでとは少し違って見えた。
その時、視線を感じた。
レオンは足を止める。
通りの端に、小柄な老婆が立っていた。
腰は大きく曲がり、顔の左半分は皮膚が失われている。白い骨と歯が見えていたが、残った右目だけは真っ直ぐこちらへ向いていた。
「……俺?」
周囲を確認する。
やはり老婆はレオンを見ている。
ゆっくり近づいてきた。
旅人に生者だと気づかれかけた時のことが蘇り、レオンは無意識に呼吸を浅くする。
「エリシア」
「うん」
彼女も気づいていた。
老婆は二人の前まで来ると、レオンを見上げた。
鼻が小さく動く。
レオンの背中に緊張が走った。
「懐かしいねえ……」
「え?」
掠れた声だった。
「その匂い」
やはり、それだった。
レオンは思わず自分の腕へ鼻を近づけたが、自分には汗の臭いくらいしか分からない。
「俺、そんなに臭います?」
聞いてから、質問を間違えた気がした。
老婆の残った目が細くなる。
「昔はねえ、街中にあったんだよ。その匂い」
「昔?」
胸がざわついた。
「何の匂いですか?」
老婆はしばらく考えるようにレオンを見つめた。
やがて、小さく笑った。
「忘れちまったよ。長すぎたからねえ」
それだけ言うと、老婆は二人の横を通り過ぎていった。
レオンは振り返り、その背中を見送る。
「……気づかれた?」
「たぶん、何かは」
「生きてるって?」
「そこまでは分かってないと思う」
エリシアの答えを聞いても、安心はできなかった。
『昔は街中にあった』
あの老婆はそう言った。
つまり、かつてはヴァルネにも、自分と同じ匂いを持つ人間が大勢いたことになる。
「当たり前なんだけどな」
「何が?」
「昔は、ここにも生きてる人間がいたんだろ?」
「うん」
「それが今じゃ、匂いを忘れるくらい昔の話なんだなって」
周囲を見る。
店もある。
家もある。
人々は話し、笑い、喧嘩までしている。
なのに、誰の胸からも鼓動は聞こえない。
レオンは急に、自分だけが別の時間から迷い込んだような気分になった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




