第二話 死者の道・後編
昼を過ぎる頃には、レオンの足はかなり重くなっていた。
森を出てから続いている街道には木陰が少なく、空は朝より青くなっている。白い雲がゆっくり流れ、その下を風に押された草が一斉に同じ方向へ傾いていた。
「ちょっと休もう」
「もう?」
「朝からずっと歩いてるんだから十分だろ」
街道脇に平たい岩を見つけ、腰を下ろす。
革靴を履いた足を伸ばすと、ふくらはぎがじんと重かった。
エリシアは休む様子もなく、隣に立っている。
「お前は本当に平気なんだな」
「うん」
「羨ましいよ。俺だけ疲れるし、喉も渇くし、腹まで減る」
「生きてるから」
「それはもう分かった」
水を飲みながら、レオンは草原の向こうを見る。
遠くで何かが動いていた。
よく見ると、四本脚の動物が二頭、草を食べている。鹿に似ているが、角の形はレオンの記憶にあるものと少し違っていた。
風を感じたのか、一頭が顔を上げる。
こちらを警戒したあと、再び草へ鼻先を落とした。
「動物も普通にいるんだな」
「いるよ」
「人間だけが変なのか……」
独り言のつもりだった。
エリシアは答えなかった。
レオンはそれ以上追いかけず、水筒を閉じた。
代わりに、ずっと気になっていたことを口にする。
「昨日、死者から見た記憶にお前がいた」
エリシアがこちらを見る。
「『勇者エリシア』って呼ばれてた」
「うん」
「……あれ、お前なの?」
少し間があった。
「そう見えた?」
「見えたから聞いてるんだけど」
エリシアは答えない。
「魔王を倒した勇者の名前もエリシアで、お前もエリシア。顔まで同じに見えた」
「そう」
「だから、それを偶然で済ませるのは無理があるだろ」
赤い瞳がレオンを見る。
何かを考えているようだった。
「今は話せない」
「またそれか」
少し苛立ちが出た。
「じゃあ、魔王を倒した後に何が起きたかは?」
昨日見た記憶を思い出す。
歓声に包まれた広場。
黒くなった空。
倒れる人々。
「魔王が倒された直後、みんな死んだ。何で?」
エリシアの表情が僅かに固くなる。
「分からない」
「本当に何も?」
「全部は分からない」
レオンはその言葉を聞き逃さなかった。
「全部は?」
エリシアは視線を草原へ向けた。
「知ってることもある。でも、今は話せない」
「何で?」
「話しても、今のあなたには信じられないと思う」
レオンは思わず乾いた笑いを漏らした。
「死者しかいない村で目を覚まして、その死者から知らない記憶まで見たんだぞ。もう大抵のことは信じると思うけど」
「たぶん無理」
「そこだけ自信あるんだな」
エリシアからそれ以上答えが返ってくる気配はない。
レオンは小さく息を吐いた。
「じゃあ一つだけ。なんで俺の名前を知ってた?」
今度は、はっきり空気が変わった。
エリシアの赤い瞳がレオンへ戻る。
「それも言えない?」
少し長い間があった。
「……うん」
「俺自身のことなのに?」
「あなた自身のことだから」
予想していなかった答えだった。
レオンは言葉を失う。
やはり、自分とエリシアの間には何かある。
少なくとも彼女は、それを知っている。
自分だけが覚えていない。
「ずるいな」
「何が?」
「俺だけ何も知らない」
エリシアはすぐには答えなかった。
「ごめん」
思っていなかった言葉が返ってきて、レオンは拍子抜けする。
「……そこで謝られると怒りづらいんだけど」
「そう?」
「それ、わざとじゃないよな?」
エリシアが少し考える。
「たぶん」
「そこは即答してくれよ」
思わず笑ってしまった。
苛立ちは消えていない。
それでも、この少女を無理に問い詰めても答えは出ないらしい。
もう少し休んでから、二人は再び歩き出した。
◇
午後になると、街道を行き交う人の姿が増えてきた。
荷車を引く男。
大きな籠を背負った女。
馬を連れて歩く商人。
ロウを出た直後なら、その一人一人を警戒していたと思う。
今は少しずつ見る場所が変わってきた。
首に深い傷がある。
片手の指がない。
頬から骨が覗いている。
死者であることを示す痕は、よく見ればあちこちに残っている。
けれど彼らの行動は自然だった。
道の途中で荷車の車輪が外れると、持ち主がしゃがみ込み、通りかかった別の男が手を貸し始める。
少し先では、二人の男が本気で言い争っていた。
「昨日返すって言っただろ!」
「昨日は昨日だ!」
「意味分かんねえよ!」
レオンは思わずそちらを見る。
「……普通だな」
「何が?」
「死者ってもっと、ぼんやり歩き回るものだと思ってた」
「ロウみたいに?」
「あれより怖いやつを想像してた」
実際に見えているのは、普通の街道だった。
死者が荷物を運び、旅をし、誰かを助け、喧嘩をしている。
「死んでも喧嘩するんだな」
「する」
「仕事も?」
「する」
「金も使う?」
「使う」
「死んでも働かなきゃいけないのか……」
本気で嫌そうな声が出た。
エリシアがこちらを見る。
「嫌なの?」
「死後くらい休みたいだろ」
「休んでる人もいる」
「それなら安心した」
「何が?」
「こっちの話」
エリシアは少し首を傾げた。
その反応がおかしくて、レオンは笑った。
死者という言葉だけで、別の生き物のように考えていた。
しかし、歩いている者たちを見ていると、死んでいること以外は自分たちとそれほど変わらないのかもしれないと思えてくる。
◇
夕方が近づく頃、街道は緩やかな丘を上り始めた。
坂を越えると、それまで草原に隠れていた景色が一気に開ける。
「……でかいな」
レオンは思わず足を止めた。
遠くに高い石壁が延びている。
灰色の壁は左右へ長く続き、その内側には無数の屋根や尖塔が重なっていた。煙突から何本もの煙が上がり、風に流されながら夕方の空へ溶けている。
街道の先には巨大な門があり、そこへ向かう人や荷車が列を作っていた。
「あれがヴァルネ?」
「うん」
「思ってたよりずっと街だな」
「灰都ヴァルネ」
「灰都?」
「そう呼ばれてる」
丘を下りながら近づく。
城壁が大きくなるにつれ、人の声や車輪の音もはっきり聞こえるようになった。
門の外には露店まであり、旅人相手に水や食べ物を売っている。近くの柵には何頭かの馬が繋がれ、尻尾を振りながら地面の草を食べていた。
生きた動物と死者が、同じ景色の中にいる。
レオンがそんなことを考えていると、エリシアが足を止めた。
「レオン」
「何?」
「門では、私の後ろにいて」
声の調子が少し変わった。
「何で?」
エリシアの視線を追う。
正門には槍を持った衛兵が立っている。
「ヴァルネの衛兵は、生者を見つける訓練をしてる」
レオンも足を止めた。
「……そういうの、もっと早く言ってくれない?」
「門の前には言った」
「そういう意味じゃない。何で生きてる奴を探してるんだ?」
「昔、生者が死者を襲ったことがあるから」
「逆じゃなくて?」
「うん」
レオンはもう一度門を見る。
さっきまでただの入口に見えていたものが、一気に関所のように感じられた。
「見つかったらどうなる?」
「たぶん捕まる」
「……帰ろうかな」
「ロウに?」
「行こう」
選択肢がひどい。
二人は人の列へ混ざった。
門へ近づくにつれて、レオンの心臓が速くなっていく。
落ち着け。
そう思えば思うほど、自分の呼吸や鼓動が気になった。
「レオン、息が速い」
「緊張してるからだよ」
「汗も」
「暑いし緊張してるんだよ」
「心臓も速い?」
「それを今言われたら余計速くなるだろ」
思わず声が大きくなり、前に並んでいた男が振り返った。
レオンは慌てて口を閉じる。
「頼むから今は黙っててくれ」
「分かった」
門が近づく。
衛兵の顔もはっきり見えてきた。
一人は頬から顎にかけて皮膚がなく、白い骨が露出している。もう一人は右目の周囲を大きく損傷していた。
それでも表情や動きは自然だった。
荷物を確認し、旅人へ質問し、知り合いらしい者とは笑いながら話している。
「次」
エリシアが先へ進んだ。
レオンも少し距離を空けて後ろへ続く。
衛兵はまずエリシアを見た。
その顔が変わる。
「……あなたは」
レオンの胸が跳ねた。
自分が気づかれたのかと思ったが、衛兵はエリシアだけを見ている。
「何年ぶりですか」
レオンは思わず彼女を見る。
何年ぶり?
十五、六歳ほどにしか見えない少女へ向ける言葉としては、妙だった。
エリシアは特に驚いた様子もない。
「覚えてない」
「相変わらずですね」
衛兵が苦笑する。
その短いやり取りだけで、また疑問が増えた。
この衛兵はエリシアを以前から知っている。
しかも昨日今日の話ではない。
「そちらは?」
視線がレオンへ向いた。
身体が強張る。
「同行者」
エリシアが先に答えた。
「名前は?」
「レオンです」
「ヴァルネへ来た目的は?」
「……旅です」
自分でも曖昧だと思った。
衛兵も少し眉を上げる。
「ずいぶん曖昧だな」
「本人もよく分かってないから」
エリシアが横から言った。
「お前が答えるの?」
思わず口を挟む。
衛兵が小さく笑った。
「元気な同行者だ」
少し肩の力が抜けた。
しかし、もう一人の衛兵は笑っていなかった。
レオンの顔から首、胸元、手へと、ゆっくり視線を動かしている。
観察されている。
そう気づいた瞬間、旅人に生者だと気づかれかけた時のことが頭へ戻ってきた。
匂い。
体温。
呼吸。
鼓動。
意識したところで止められるものはない。
衛兵の眉が僅かに寄る。
背中に冷たい汗が流れた。
その時、エリシアが半歩だけ横へ動いた。
何気ない動作で、衛兵とレオンの間へ身体を入れる。
「急いでる」
「そうですか」
衛兵の視線がエリシアへ戻った。
「あなたなら問題ないでしょう。通ってください」
「ありがとう」
エリシアが歩き出した。
レオンも続く。
振り返る気にはなれなかった。
厚い城壁の下を抜ける。
薄暗い門の中から外へ出た瞬間、目の前にヴァルネの街が広がった。
石畳の大通り。
その両側には何階もある石造りの建物が並び、窓から色とりどりの布が下がっている。
露店では果物や食器が並び、荷車が人の間をゆっくり進んでいた。
片腕のない男が木箱を運び、首に縄の跡を残した女が店主と話している。頭の一部から骨が見えている老人は、杖をつきながら小さな子供と笑っていた。
死者の街。
そう聞けばもっと暗く、静かな場所を想像していた。
実際には、人の声と足音が溢れている。
「……本当に街なんだな」
思わず呟いた。
「うん」
「死人の街なのに……」
言いかけて、少し考える。
違う。
彼らにとっては、これが普通なのだ。
この街では、生きている自分の方が珍しい。
その感覚を抱えたまま大通りを歩いていると、広場へ出た。
中央には、大きな石像が立っている。
長い髪をなびかせ、一本の剣を持つ少女の像だった。
最初は何気なく見ただけだった。
数歩進み、顔が見える距離になったところでレオンは足を止める。
「……おい」
エリシアが振り返った。
レオンは石像を見上げる。
次に、隣の少女を見る。
もう一度、石像へ戻す。
「似てるとかいう話じゃないだろ」
石の像なので髪や瞳の色までは分からない。
それでも、顔立ちはほとんど同じだった。
レオンは像の足元へ近づく。
台座に文字が刻まれている。
読む。
意味が頭へ入ってこず、もう一度読み直した。
『勇者エリシア、ここに眠る。』
「……ここに眠る?」
横を見る。
同じ顔をした少女が、普通に立っている。
「エリシア」
「何?」
「お前の名前が書いてある」
「うん」
「顔も同じ」
「そうだね」
「そうだね、じゃないだろ」
レオンは思わず石碑を指差した。
「ここに眠るって書いてあるぞ。これ、墓だろ?」
「うん」
「じゃあ、ここに埋まってるのは誰なんだよ」
エリシアは答えなかった。
ロウで、名乗っていない自分の名前を知っていた。
ヴァルネの衛兵には「何年ぶり」と声をかけられた。
そして今、勇者エリシアの墓の前に立っている。
「……お前、本当に誰なんだ?」
エリシアの赤い瞳が、ほんの僅かに揺れた。
その時、背後から鐘の音が響いた。
カァン、カァン――。
レオンの身体が反射的に強張った。
すぐ周囲を見る。
だが、死者たちは誰も止まらない。
傷が広がることもなく、店先の会話もそのまま続いている。
「大丈夫」
エリシアが言った。
「これは普通の鐘。門の合図」
レオンはしばらく周囲を確認してから、ようやく息を吐いた。
「……鐘にも普通と普通じゃないのがあるのか。もうしばらく聞きたくないんだけど」
エリシアの口元が、ほんの少しだけ動いたように見えた。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑っただろ」
「行こう」
「話そらすなよ」
歩き出したエリシアを追いかける前に、レオンはもう一度だけ墓碑を振り返った。
『勇者エリシア、ここに眠る。』
ロウ村を出れば、少しは分からないことが減ると思っていた。
ところが実際には、この世界を知れば知るほど疑問は増えていく。
そして、その中心にはどうやら、隣を歩いている少女がいるらしかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




