第二十三話 空欄の名札
朝は、讃美歌が止まったことで始まった。
レオンは長椅子の上で目を開けた。いつの間に眠ったのか覚えていない。窓から差し込む朝日は白い石床を細長く照らし、夜の間に燃え尽きた蝋燭からは、冷えた蝋と煤の匂いが漂っていた。昨夜まで絶え間なく続いていた歌が消えたせいで、巡礼堂の中はかえって広く感じられる。
身体を起こすと、背中に木の硬さが残っていた。外套の内側には寝汗が薄く張りつき、首筋を撫でる朝の空気がそこだけ冷たい。隣の長椅子ではフィンが目を閉じたまま横になっているが、胸は上下していない。
「起きてる?」
「起きてる」
目を閉じたまま答えた。
「じゃあ何してるんだよ」
「朝っぽいこと」
「雑だな」
「死んでから朝の過ごし方に正解がなくなってね」
フィンがようやく片目を開ける。いつもの調子だったが、レオンは昨夜の鐘を思い出し、無意識に自分の呼吸を整えた。今のフィンに異常は見えない。それでも、一度聞かれた鼓動が完全に忘れられているとは思わない方がいい。
エリシアは祭壇の前にいた。
老婆と並び、傷んだ白い花を選り分けている。朝日を受けた彼女の髪は花弁より白く見え、その隣では老婆の純白の法衣が淡く光っていた。二人の姿だけなら、古い宗教画の一部に見えなくもない。
老婆が一輪の花を持ち上げる。
花弁の半分はまだ白い。しかし根元は茶色く溶け、指で摘まれると蜜のように粘った汁が垂れた。甘さの奥に熟れすぎた果実のような匂いが混じり、朝の澄んだ空気の中で妙にはっきり鼻へ残る。
老婆は崩れた顎を僅かに傾け、その花だけを別の籠へ入れた。銀糸で縫われた頬が動くたび、糸の隙間から乾いた黒い肉が見えた。
「それ、捨てるの?」
エリシアが尋ねる。
「いいえ。裏手へ埋めます」
「枯れてるのに?」
「枯れたものも土へ返せば、次の花の下に残ります」
老婆はそう答え、新しい一輪を祭壇へ供えた。
死者の口から「土へ返る」という言葉が出る。
レオンは何となくその光景から目を離せなかった。
◇
巡礼堂の外へ出ると、夜露を含んだ草が朝日に光っていた。靴が触れるたび細かな水滴が跳ね、裾へ冷たく染み込んでくる。森の向こうでは小鳥が忙しく鳴き交わし、白い石像の翼にも何羽か止まっていた。
名前のない男は、昨夜と同じ場所に座っていた。
眠ってはいない。
膝を抱えるような姿勢で、東の空を見ている。
山の稜線から太陽が昇り始め、薄い橙色だった空が少しずつ青へ変わっていく。その光が男の頬へ届くと、陥没した左眼の傷まで明るく照らし出した。
「ずっとそこにいたの?」
レオンが近づく。
「はい」
「寒くなかった?」
「寒さは、よく分かりません」
男は自分の指を見る。
「風は分かりました」
「風?」
「触れているのに、掴めない」
レオンも頬へ当たる風を感じた。
草の湿った匂い。
土。
花。
遠くで燃している薪の煙。
地下にいた時には存在しなかったものばかりだ。
「昨日、明日になったら名前を考えるって言ってたけど」
「はい」
「決まった?」
男はゆっくり首を横へ振った。
「名前を決める方法が分かりません」
「普通、自分で付けないからな」
後ろからフィンが歩いてきた。
「親とか家族が決めることが多い。俺も自分でフィンって付けたわけじゃないし」
「家族」
男の視線が僅かに下がる。
昨夜、食事の匂いから思い出した長い髪の誰か。
顔も名前も残っていない。
それでも、焦がした野菜の甘い匂いだけは戻ってきた。
「無理に今決めなくてもいいんじゃない?」
レオンが言う。
「でも、呼ぶ時困るよ」
「それはそうだけど」
フィンは男の前へしゃがみ込んだ。
「じゃあ仮の名前にする?」
「仮?」
「後で本当の名前が分かったら変えればいい。荷物だって宛先不明の時は仮番号を振るからね」
「人を荷物と一緒にするなよ」
「分かりやすい例えだろ」
男はしばらく考え込んだ。
そこへ、巡礼堂の老婆が出てきた。
手には小さな木札を持っている。
「旅に出られるのですね」
老婆は名前のない男を見る。
「そのつもりです」
「では、こちらを」
差し出された木札は薄い楕円形で、細い革紐が通されていた。表面には何も書かれていない。長く使われていたものらしく、木の角は手の脂で滑らかになっていた。
「何ですか?」
「巡礼札です。本来は名前と、帰る場所を書きます」
男は受け取った。
冷えた木札を指先で何度も撫でる。
「私は、どちらも分かりません」
「でしたら空けておけばよろしいでしょう」
老婆の崩れた口元が僅かに上がった。
「空欄は、ないという意味ではありません。まだ書いていないだけです」
男の指が止まった。
レオンも木札を見る。
二つの空欄。
名前。
帰る場所。
地下にいた頃なら、どちらも「不要」と答えていたかもしれない。
「あとから書いてもいいのですか」
「文字は逃げません」
老婆はそう言って、巡礼堂へ戻っていった。歩くたび純白の裾が石段を撫で、その下から片方だけ骨の露出した足首が覗いた。
男はしばらく空欄の木札を見つめていた。
「まだ書かない?」
フィンが尋ねる。
「はい」
男は革紐を首へ通した。
「思い出してから書きたいです」
「じゃあ、それまでは何て呼ぶ?」
「……第三記録では駄目でしょうか」
「戻ってるぞ」
レオンが言うと、男は少し目を伏せた。
「そうですね」
ほんの僅かだったが、口元が動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
◇
朝食を済ませ、旅支度を整える頃には、日差しが森の中まで届いていた。荷物を背負うと肩紐が昨日擦れた場所へ当たり、レオンは位置を少しずらす。生きた身体は眠り、食べ、汗をかき、歩けば痛む。この世界では、その一つ一つが人前で隠さなければならない証拠になる。
フィンが地図を広げた。
「ここからどうする?」
古い郵便路の線が、指の下で幾つにも分かれている。
「文書庫の記録を追うなら、次は王都でしょうね」
答えたのはリネアだった。
彼女は石像の陰で外套を留め直していた。朝日の中では黒髪の艶と左頬の傷がよく見える。ヴァルネでエリシアの姿をしていた時より、今の方がよほど人間らしい。
「王城地下の封鎖区画」
レオンが言う。
「エリシアが見つかった場所」
「記録を信じるならね」
リネアは留め具から手を離した。
「旧王都までは?」
「この道なら十日ほど。途中に街が二つある。ただし、昔の街道が今も使えるかは分からないわ」
「リネアも来る?」
エリシアが尋ねた。
リネアは少しだけ目を細めた。
「行かない」
「どうして?」
「調べたいことができたから」
「もう一人の私?」
「ええ」
返事は短かった。
レオンは昨日、第三保管室へ現れた女を思い出す。同じ白髪、同じ赤い瞳、エリシアと同じ剣技。それでも第三記録からは勇者として認められなかった。
「心当たり、本当にないのか?」
「ないわ」
リネアは答えてから、ほんの少し間を置いた。
「でも、探し方ならある」
「どうやって?」
「あれは鐘を知っていた。七度目も知っていた。なら、鐘が残っている場所を辿れば、また痕跡が見つかるかもしれない」
エリシアの眉が僅かに寄る。
「一人で?」
「昔からそういう役回りだったでしょう?」
「覚えてない」
リネアの表情が止まった。
ほんの一瞬。
それから、口元だけで笑う。
「……そうだったわね」
笑みと声が噛み合っていなかった。
エリシアはそれ以上聞かなかった。
「王都で会える?」
「生きていたら」
「死んでるだろ」
レオンが反射的に言う。
リネアがこちらを見る。
「そういう言い方もできるわね」
「紛らわしいんだよ、この世界」
「あなたが言うと面白いわ」
その一言に、レオンの呼吸が一拍だけ止まった。
リネアはもう地図へ視線を戻している。
フィンも気づいた様子はない。
偶然か。
それとも。
レオンは追及しなかった。ここで反応する方が余計なものを見せる。
リネアは地図の北東を指した。
「王都へ行くなら、まずエルナという街を目指して。二日半くらい。古い交易都市だから、宿も残っているはずよ」
「残ってる、って便利な言葉だな」
「二十年前はあった」
「情報が古い」
「死人に最新情報を求めないで」
フィンが笑った。
「それ、今度使おう」
「仕事で使うなよ」
会話の向こうで、白い石像に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。翼が朝日を切り、小さな影がレオンたちの上を横切っていく。
リネアはその群れを一度見上げる。
「じゃあ、ここで」
別れの言葉はそれだけだった。
「リネア」
エリシアが呼び止める。
黒髪の女が振り返る。
「何?」
エリシアは何かを言おうとして、口を閉じた。
視線がほんの僅かに下がる。
「……死なないで」
リネアはしばらく動かなかった。
やがて左頬の傷へ指を当て、小さく笑った。
「難しい注文ね」
「二度目の意味」
「分かってる」
リネアは背を向けた。
朝露に濡れた街道を南へ歩いていく。黒い外套の裾が草の先を擦り、そのたび水滴が細かく跳ねた。
エリシアは彼女の姿が木々の間へ消えるまで見送っていた。
◇
残った四人は北東へ向かった。
森を抜けると、緩やかな丘陵が広がっていた。昨日まで歩いていた街道より土は明るく、道の両側には腰ほどの高さまで草が伸びている。風が通るたび一斉に穂先が傾き、銀色の波が遠くまで流れていった。
空には薄い雲が浮かび、その下を二羽の大型の鳥が旋回している。どこか遠くでは羊らしい鳴き声も聞こえた。
生きている音だった。
レオンは歩きながら、その声を何度か聞いた。
フィンは前方で地図を確かめ、エリシアはいつものように静かに歩いている。名前のない男は少し遅れて、そのすべてを眺めながらついてきた。
草。
空。
鳥。
土。
見るものが多すぎるらしく、時々足を止めそうになる。
「前見ないと転ぶよ」
フィンが振り返る。
「見るものが多いです」
「明日もあるから少しずつ見ればいい」
男は首から下がった空欄の木札へ触れた。
指先が滑らかな表面を撫でる。
「明日も」
「ある予定」
「予定」
「絶対とは言わない方がいい。この世界、急に鐘鳴るし」
「余計なこと言うなよ」
レオンが返すと、フィンが肩を竦めた。
男は二人のやり取りを聞き、少し考えてから空を見上げた。
「では、明日も見ます」
レオンは歩きながらその言葉を聞いた。
地下では、過去を忘れないために百二十一年を使った男がいる。
今はまだ名前もない。
帰る場所もない。
それでも首には、二つの空欄が残っている。
街道の先から暖かい風が吹き、草の青い匂いと土埃が混じって流れてきた。男の胸元で木札が揺れ、乾いた小さな音を立てる。
まだ何も書かれていない。
だからこそ、これから書けるものが残っていた。




