第二十四話 白い行列
昼を過ぎた頃から、丘陵を覆う空の色が少しずつ変わり始めた。朝には高いところを流れていた雲が西の山並みから押し寄せ、日差しの届かなくなった草原は、風が吹くたび鈍い銀色に波打っている。湿り気を含んだ空気には青く潰れた草の匂いが漂い、ときおり遠くで羊の鳴き声が聞こえた。草を食む動物たちの白い背中だけが、暗く沈み始めた斜面の上で小さく動いていた。
レオンは首筋に貼りついた髪を払い、空を見上げた。風向きが変わるたび、雨の気配が濃くなっている。朝から歩き続けた足には少しずつ疲れが溜まり、背負った荷物の革紐も肩の同じ場所を擦り続けていた。
「夕方までもつかな」
レオンの呟きを聞き、フィンが古い地図から顔を上げた。
「この先に小さな宿場があるはずなんだけどね。そこまで降らなきゃいいな」
「その情報、何年前の?」
「三十五年くらいかな」
「じゃあ、屋根が残ってることを祈るしかないな」
「信用ないなあ。古いからこそ分かる道もあるんだよ」
フィンはそう言って地図を畳み、先頭を歩くエリシアへ追いついた。濡れたわけでもないのに紙の端を丁寧に拭ってから鞄へ戻すところを見ると、配達人としての習慣は今も身体に染みついているらしい。
少し後ろを歩く名前のない男は、そんな二人の様子にも気づかず、道端の草むらを眺めていた。黄色い小花の根元では小さな蜥蜴が石の上を走り、すぐに葉の陰へ姿を消した。男はそれを追うように腰を屈め、しばらく何もいない草むらへ視線を向けている。首から下げた木札が胸元で揺れ、何も書かれていない表面が曇り空の光を受けていた。
「歩くの、だいぶ慣れたな」
レオンが声を掛けると、男はゆっくり立ち上がった。
「はい。考えなくても足が動くようになりました」
「最初は階段一つ下りるのも大変そうだったからな」
「右と左を交互に動かすだけでした」
「俺の教えが良かったんだね」
フィンが振り返り、得意そうに笑う。
「そんな説明で済むなら苦労しないだろ」
「でも実際に歩けてるじゃないか」
男は二人のやり取りを聞きながら自分の足元を見つめ、試すように右足を前へ出した。続けて左足が動き、また右足が自然についてくる。誰かに命じられたわけでも、記録を確認したわけでもない。その動作が自分の身体から生まれたことを確かめるように、男は何度か同じ足運びを繰り返していた。
「忘れていることと、なくなっていることは、違うのでしょうか」
不意に尋ねられ、レオンは返答を探した。
男は顔も名前も思い出せない。それでも歩き方を覚えていたし、料理の匂いから誰かの存在を思い出した。レオン自身も、触れた死者の記憶を通して剣の動きを知るようになっている。身体が覚えていることと、自分が覚えていること。その境目を考えると、腰の剣がいつもより重く感じられた。
「……全部なくなるわけじゃないんだろうな」
「では、まだ残っているかもしれませんね」
男は胸元の木札に触れた。
「私の名前も」
レオンは小さく頷いた。今は、それ以上に確かなことを言えなかった。
しばらくして、丘の向こうから歌声が聞こえ始めた。
最初は遠くの鳥が鳴いているのかと思ったが、耳を澄ませると高い声と低い声が規則正しく重なっている。風に乗って長く伸びる旋律には、どこか礼拝堂で聞いた讃美歌に似た響きがあった。ただ、一つの節が終わっても息継ぎによる途切れがなく、同じ調子のまま次の節へ移っていく。
「誰かいるのか?」
レオンが立ち止まると、エリシアが丘の先を指した。
「向こうから来る」
やがて緩やかな坂の上に、人の列が現れた。最初に目へ入ったのは白い布だった。数十人ほどの男女が肩から純白の布を掛け、曇り空の下を静かに歩いている。先頭では細い杖を持つ老人が道を確かめ、その後ろには花束を抱いた女や小さな木箱を運ぶ男、子供用の靴を両手に載せた者たちが続いていた。
列が近づくにつれ、歌声とともに花の香りが濃くなった。白い百合に似た大輪の花が揃って抱えられているが、花弁の根元はところどころ茶色く変色し、湿った部分から蜜を煮詰めたような甘い匂いが漂っている。風向きが変わると、その奥から柔らかく崩れた植物の腐敗臭が鼻へ届き、レオンは知らずに唾を飲み込んだ。
白い衣装の下に隠れていた死者たちの姿も、徐々にはっきりしてきた。額の中央が深く窪んだ男、喉へ紫色の縄跡を残した女、肘から先の骨が露出した若者。彼らは傷を隠そうともせず、穏やかな旋律を口ずさみながら歩いていた。清潔に洗われた布の白さと、その隙間から覗く乾いた肉の黒さが、同じ身体の上に並んでいる。
「何の行列だ?」
レオンが声を抑えると、フィンは歌を聞きながら答えた。
「未帰者送りだね。地方によってやり方は違うけど、昔からある弔いの一つだよ」
「未帰者……」
「戻ってこなかった人の持ち物を運ぶんだ。墓へ入れるものがないから、代わりに好きだったものを持っていく。最後に花を供えて、それぞれの家へ帰るんだよ」
レオンは列の中ほどを歩く女へ目を向けた。胸へ抱いているのは小さな革靴で、片方の爪先だけが長年撫でられてきたように滑らかになっている。女自身の腹には衣服の下から古い裂傷が覗いていたが、靴へ触れる指だけは慎重で、布に付着した小さな埃を親指で何度も払っていた。
ヴァルネで出会ったマルタやリリの姿が、レオンの頭に浮かんだ。死んでも再び立ち上がり、話し、働き、家族と暮らせる世界で、帰ってこないということがどれほど重い意味を持つのか。目の前の靴は、そのことをどんな説明よりもはっきり伝えていた。
行列がすれ違うと、歌声が四人を包み込んだ。何十人もの声は透き通るように重なっているのに、誰の胸も上下していない。唇と喉だけが旋律に合わせて動き、歌い終えた者も息を整えることなく次の節へ加わる。その中で、列の端を歩く若い男の頬から透明な雫が落ち、白い布に小さな染みを残した。
雨はまだ降っていなかった。
レオンは男の顔を見たが、相手は気づかない。若者は両腕で古い木箱を抱き締め、箱の蓋から視線を上げないまま歩いていった。箱の角に巻かれた白い紐が風で揺れ、その擦れる音だけが歌の合間にかすかに聞こえた。
その時、名前のない男が足を止めた。
レオンが振り返ると、男は行列の中央へ目を向けていた。背の曲がった老婆が、ほかの者に合わせてゆっくり歌っている。片方の耳を失い、首筋には古い火傷の跡が残っていたが、声は澄んでおり、ほかの歌声からわずかに浮かび上がって聞こえた。
「知り合いか?」
レオンが尋ねても返事はなかった。男は自分の胸元に手を伸ばし、空欄の木札を何度も撫でている。木の表面を擦る乾いた音が続き、やがてその指が動かなくなった。
「……この歌を知っています」
声が僅かに震えていた。
「文書庫で聞いたのか?」
「違います。もっと近くで……何度も聞きました」
男は目を閉じた。歌声が丘を渡る風に流され、近くなったり遠くなったりするたび、眉間の皺が深くなっていく。レオンは声を掛けず、男が何かを思い出すのを待った。
「雨が降っていました。窓があって、外は暗くて……」
言葉が一度途切れた。
「誰かが歌っていたんです。すぐそばで」
「髪の長い人か?」
昨夜の料理の匂いから男が思い出した人物を尋ねると、閉じていた右目がゆっくり開いた。
「はい。長い髪でした」
「顔は?」
「まだ分かりません」
男は自分の左手を見下ろし、掌を上へ向けた。痩せた指の付け根には古い傷が残り、爪のない指先が曇った空の下で白く見える。その手をもう片方で包み込むと、何かを確かめるように指をゆっくり重ねた。
「小さな手が、ここにありました」
「子供?」
「分かりません。でも、とても温かくて……その手を握っていると、歌が聞こえました」
レオンは男の手元へ視線を落とした。今、その指の間にあるのは自分自身の冷えた皮膚だけだ。握り返してくれる誰かはおらず、歌も次第に遠ざかっている。それでも男は、掌に残る感触を逃がしたくないように、しばらくその姿勢を変えなかった。
列の最後尾が丘を上り始めた頃、一人の女が街道脇へ白い花を置いた。まだ開ききっていない花だったが、切り口から乳白色の汁が滲み、石の上へ細く粘ついた跡を残している。女は花を一度撫でてから列へ戻り、歌声に加わった。
名前のない男は、その姿を追わなかった。
「何か思い出せた?」
フィンが尋ねる。
「少しだけ」
男は重ねていた手を離した。
「忘れていたことが、まだあるようです」
レオンは頷き、丘を越えていく白い行列を見送った。歌声が聞こえなくなっても、しばらく耳の奥に同じ旋律が残っていた。
最初の雨粒が落ちてきたのは、それから間もなくのことだった。
大きな雫がレオンの頬へ当たり、続いて乾いた街道へ黒い斑点を作り始めた。丘の向こうでは雨脚がすでに白く霞み、風が吹くたび草原の色が一段暗く変わっていく。四人が外套の襟を立てる頃には、雨粒が葉を叩く音と地面へ落ちる音が重なり、先ほどまで聞こえていた鳥の声も分からなくなっていた。
「宿場まであとどれくらい?」
レオンが尋ねると、フィンは濡れないよう外套の内側で地図を開いた。
「道が合ってれば一時間くらい。走ればもっと早いけど」
「足元が滑る。それに、あの人もまだ歩き慣れてないだろ」
レオンは名前のない男へ目を向けた。鎖から解かれて間もない右足は、長い下り坂でときどき力が抜けるように折れかけている。走れば転ぶ可能性が高い。もっとも、レオン自身も雨で冷えた身体を無理に動かし、呼吸を乱すつもりはなかった。フィンのそばで自分の鼓動や息遣いを意識する状況は、できる限り避けたい。
「じゃあ、急ぎ足で。宿場が残ってなかったら俺に文句を言っていいよ」
「言われなくてもそうする」
「せめて確認してから怒ってほしいな」
四人は歩幅を少し広げ、雨の中を進んだ。
外套はすぐに水を吸い、肩から背中へ重く張りついた。襟元を伝った雫が首筋へ入り込み、汗の残った肌を冷たく滑り落ちる。靴の中にも少しずつ水が染み込み、足を踏み出すたび革と布が擦れる湿った感触があった。濡れた土からは青臭さと鉄に似た匂いが立ち上り、道の窪みに溜まった水を踏むと、細かな泥が足首へ跳ねた。
エリシアは濡れた白髪を頬へ貼りつかせたまま、ほとんど歩調を変えなかった。死者であるフィンも、鞄を濡らさないことばかり気にしている。レオンだけが指先の冷えと服の重さを強く意識していたが、それを表に出さないよう、肩の力を抜いて歩いた。
「レオン」
隣へ来たエリシアが声を掛けた。
「何?」
彼女の赤い瞳が、剣の柄を握るレオンの右手へ向く。指先がわずかに震えていることに気づいたらしい。
「手、貸して」
「え?」
「荷物」
エリシアはレオンの背負った荷物へ手を伸ばした。フィンからは少し離れており、声も雨に紛れている。
「いいよ、まだ持てる」
「濡れて重くなってる」
「エリシアのも濡れてるだろ」
「私は平気」
彼女はそう言ってレオンの外套を軽く引いた。濡れた布越しに伝わる指先の冷たさに、レオンは思わず肩を縮めたが、エリシアは気にした様子もない。結局、小さな荷物だけを渡すと、彼女はそれを自分の鞄へ結びつけた。
「ありがとな」
「うん」
それだけのやり取りだった。
雨がさらに強くなり、道の先が白く霞み始めた頃、フィンが突然片手を上げた。雨粒がまつ毛から流れ落ちるのも構わず前方を見つめ、それから嬉しそうに口元を緩める。
「見えた。宿場だ」
丘を下った先に、低い建物がいくつも並んでいた。石造りの家々は雨に濡れて黒ずみ、屋根から流れ落ちる水が細い滝のように軒先を覆っている。古い木製の看板が風で揺れ、錆びた金具がきいきいと音を立てていた。家々の間には馬を繋ぐ柵や荷車の跡があり、奥の煙突からは灰色の煙が雨雲へ溶けるように昇っていた。
「本当に残ってたな」
レオンが呟くと、フィンが胸を張った。
「だから言っただろ。俺の地図は優秀なんだ」
「三十五年前の地図に負ける今の街道案内って何なんだろうな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
宿場の入口では、数人の死者が雨を避けることもなく歩いていた。荷車の車輪を直している男は右手の指を二本失っており、残った指で工具を器用に扱っている。向かいの家では、腰の曲がった女が軒先に吊るした洗濯物を取り込んでいたが、布はすでに雨を吸い、彼女の腕から水が滴り落ちていた。
誰も急いでいない。
濡れた衣服を不快に感じる様子もなく、雨の中でそれぞれの仕事を続けている。屋根の下では生きた犬が身体を丸め、鼻先を前脚へ埋めていた。ときおり耳を震わせ、降り続く雨の音を聞いている。レオンはその姿を横目に見ながら、宿場の中央へ視線を移した。
そこで、名前のない男が立ち止まった。
レオンも歩みを緩める。男は入口に立てられた古い看板を見ていた。濡れた木には黒い染みが広がり、文字の周囲には苔が生えている。それでも刻まれた地名だけは、まだ十分に読むことができた。
『リュート宿場』
「どうした?」
レオンが尋ねても、男は答えなかった。
雨水が額から頬を流れ、失われた左目の跡へ入り込んでいる。男は瞬きもせず看板を見つめていたが、やがて口元を僅かに動かした。
「……リュート」
「知ってる場所?」
フィンが近づく。
「さっきから、何か思い出したみたいだね」
男はゆっくり首を横へ振った。否定しているのではなく、まだ言葉にできないものを探しているようだった。看板から視線を外し、宿場の奥へ続く細い道を眺める。軒先に吊るされた干し草の束、雨水を集める石桶、半分壊れた井戸。その一つ一つへ目を移すたび、男の右手が胸元の木札を強く握り締めていった。
「この道を……」
掠れた声が漏れる。
「知っています」
レオンは男の視線を辿った。
宿場の中央から少し外れた場所に、一軒の古い家があった。石積みの壁には蔦が絡み、窓枠の塗装は剥がれかけている。他の家と比べて特別なところはない。ただ、その家の扉だけが青く塗られていた。
雨の筋が扉を何本も流れ、剥げた塗料の下から灰色の木目が覗いている。脇には小さな花壇があり、伸び放題になった草の間から白い花がいくつか顔を出していた。窓の片隅には古びた布が掛けられ、室内に灯っている火の光が、その薄い織り目を透かしている。
男はその家を見つめたまま、ゆっくり一歩踏み出した。泥水が靴の周囲へ広がり、足元から小さな泡が浮かんだが、もう下を見ようともしない。
「待って」
エリシアが声を掛けた。
男は立ち止まったものの、顔は家へ向けたままだった。
「何か覚えてる?」
「……分かりません」
そう答えながら、男の目は青い扉から離れない。
「でも、あそこに」
言葉が途切れた。
その時、雨音に混じって別の匂いが届いた。家の脇にある小さな煙突から薄い煙が流れ、濡れた街道へ温かな空気を運んできたのだ。薪の焦げた匂いに、油で炒めた玉葱の甘い香りが混じっていた。
名前のない男の手が、木札から離れた。
右手の指がゆっくり開き、何もない空間で止まる。まるで誰かの手を取ろうとしたところで、そこに誰もいないことに気づいたような動きだった。
「……この匂い」
レオンは男の横顔を見た。
失われた左目の周囲には古い傷が残り、頬を伝う雨水が深い溝へ溜まっている。残った右目だけが、灯りの滲む窓を見つめていた。
「覚えてるのか?」
男は答えず、もう一度扉へ近づいた。
軒下まで辿り着くと、雨音が少し遠くなった。濡れた木からは古い塗料と湿った土の匂いが立ち、扉の向こうでは金属の鍋が何かに触れる小さな音がしている。続いて、木匙で鍋底を混ぜるような、ゆっくりした音が聞こえた。
男の指が扉へ伸びた。
しかし、触れる直前で止まる。
「ここ……」
唇が震えていた。
レオンたちは少し離れた場所から、その背中を見ていた。フィンも地図をしまい、何も言わない。エリシアは男の手元へ目を向け、扉へ触れるかどうかを静かに待っている。
やがて男は、長い間忘れていた言葉を確かめるように口を開いた。
「……私の家です」
雨は変わらず降り続いていた。
青い扉の向こうでは、誰かが鍋をかき混ぜている。男はその音を聞きながら、木の表面へそっと掌を当てた。




