第二十二話 名前のない夜
文書庫の灯りが見えなくなるまで、誰も足を止めなかった。
谷を抜ける古い街道には月明かりが落ち、白く乾いた石畳だけが森の中へ細く続いている。風が枝を撫でるたび、葉の裏側が銀色に返り、どこかで夜鳥が短く鳴いた。背後から追ってくる足音はない。それでもレオンは何度か振り返り、木々の隙間にあの細長い窓が見えないことを確かめてから、ようやく剣の柄から手を離した。
第三記録と呼ばれていた男は、フィンの肩を借りながら歩いていた。地下を出た直後よりは足運びも安定しているが、石の段差に差しかかるたびに左右どちらの足を出すべきか迷うような間ができる。長く鎖に繋がれていた右足首には鉄輪の跡が深く食い込み、乾いた皮膚が黒く裂けていた。
「休む?」
フィンが聞くと、男は自分の脚を見下ろした。
「休む、という行為に必要性がありますか」
「必要かどうかじゃなくて、俺の肩がそろそろ必要としてる」
「ああ」
「そこは理解早いんだ」
フィンが街道脇の倒木へ男を座らせた。触れていた肩を離した時、男の衣服から湿った地下の匂いがふわりと立ち上る。古い紙と黴、それに石へ染み込んだ鉄の臭いが混じり、レオンは鼻の奥に残ったそれを水で流したくなった。
男はそんなことには気づかず、頭上を見ていた。
葉の切れ間に星がある。
ただそれだけの景色を、瞬きもせず眺め続けている。
「星、そんなに珍しい?」
フィンが隣へ腰を下ろす。
「先ほどより増えています」
「木が少なくなったからだよ」
「なるほど」
男は納得したように頷き、それからまた空を見る。百年以上地下にいた者にとっては、枝が揺れるたび星が隠れたり現れたりすることさえ、新しい出来事なのかもしれない。
レオンは少し離れた場所からその姿を眺めた。
地下では「第三記録」としか名乗らなかった男が、今は星の数を気にしている。
それだけの変化が、妙に目に残った。
◇
リネアの記憶を頼りに街道をさらに一時間ほど進むと、森の中に小さな巡礼堂が見つかった。
白い石造りの建物だった。尖った屋根の先には翼を広げた人の像があり、月を背負った純白の輪郭だけが夜空から切り取られている。入口の両側には新しい白い花が供えられ、細長い布が何十本も枝から垂れていた。
誰かが今も手入れをしているらしい。
扉を開けると、甘い香りがした。
香ではない。
供えられた花の一部が傷み始めている。白い花弁の奥が薄茶色に溶け、透明な汁が石床へ落ちていた。蝋燭の熱で温められたその汁から、蜜をさらに煮詰めたような甘さと腐敗臭が一緒に立ち上っている。
レオンは鼻の奥が詰まる感覚に眉を寄せた。
「泊まるの?」
エリシアが尋ねる。
「野宿よりはいいだろ。屋根あるし」
「人もいるよ」
「……先に言ってくれ」
祭壇の横に、一人の老婆が立っていた。
純白の法衣を着ている。胸元には銀色の糸で翼の模様が縫われ、手には細い蝋燭を持っていた。
穏やかな姿だった。
顔を見るまでは。
老婆の下顎は右側へ大きくずれていた。頬から顎にかけて古い裂傷が走り、開いた傷口を何本もの銀糸が縫い合わせている。口を閉じることができないらしく、歯の隙間から黒く乾いた舌が僅かに覗いていた。
それでも老婆は三人――ではなく五人を見ると、静かに頭を下げた。
「旅の方ですね」
崩れた顎のせいで声は少し籠もっていたが、言葉は明瞭だった。
「一晩、場所を借りても?」
リネアが尋ねる。
「どうぞ。祈りの場は、生者にも死者にも閉じられません」
レオンの背中に薄く汗が浮いた。
老婆はこちらを見ていない。
決まり文句なのだろう。
それでも、外套の内側で速くなった鼓動を意識すると、急に襟元が狭く感じられた。
「食事は禁止してます?」
フィンが尋ねる。
「いいえ。祭壇だけ汚さなければ」
「助かる」
老婆はまた頭を下げると、祭壇へ向き直った。
やがて歌い始める。
ゆっくりとした讃美歌だった。
高い天井へ声が昇り、白い石壁に柔らかく反響する。旋律そのものは穏やかで、窓から差し込む月光とよく似合っている。
だが、レオンは途中で気づいた。
息継ぎがない。
老婆は一度も息を吸わず、同じ音を途切れさせることなく歌い続けている。
銀糸で縫われた顎だけが、旋律に合わせて僅かに上下していた。
◇
巡礼堂の隅には旅人用らしい長椅子と、小さな炉があった。
レオンは乾燥肉と野菜を鍋へ入れ、少量の水で煮た。火が通るにつれて脂が溶け、玉葱に似た乾燥野菜の甘い匂いが漂い始める。鍋を混ぜる木匙には油が薄くまとわりつき、指へ触れると生温かく滑った。
「今日も食べるんだ」
フィンが隣から覗く。
レオンの手が一瞬止まった。
「食べるけど?」
「いや、俺も食べようかなって」
「ああ……そういうことか」
死者も食事をする。
必要ではないだけで、味や習慣を求めて口にする者は珍しくない。分かっているのに、フィンが食事へ触れるたび、自分の方に別の意味があることを見抜かれたような感覚が残る。
「エリシアも?」
「食べる」
「リネアは?」
「いただくわ。あなたの料理、興味あるもの」
「期待するなよ。煮ただけだから」
「料理の半分は煮るか焼くかでしょう?」
「急に雑な分類するな」
小さな器へ分けていく。
最後に、名前のない男へ差し出した。
「食べる?」
男は器を見た。
「必要ありません」
「必要かどうかじゃなくて」
フィンが横から口を挟む。
「さっきも言ったろ。やってみたいかどうか」
男は少し考えたあと、器を受け取った。
匙ですくい、口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
死者の味覚がどの程度残っているのかは人によって違う。男もすぐには何も言わなかったが、二口目を運ぼうとしたところで手が止まった。
「……この匂い」
「まずかった?」
「違います」
男は鍋を見る。
「玉葱」
「たぶん似た野菜。市場で買った時は別の名前だったけど」
「焦がすと、もっと甘くなる」
レオンは男を見る。
本人も、自分が何を言ったのか分からないような顔をしていた。
「知ってるの?」
「……分かりません」
「でも今、焦がすとって」
「家で」
男の瞳が僅かに動く。
「家で、よく……」
言葉が続かない。
その代わり、匙を握る指が小さく震えた。
「誰かが作ってた?」
エリシアが静かに尋ねる。
男は目を閉じた。
「髪の長い人」
「名前は?」
「分かりません」
「顔は?」
「分かりません。でも」
男は器から上がる湯気へ顔を近づけた。
「この匂いは知っています」
リネアが食事の手を止めた。
彼女は何も言わなかったが、灰色の瞳が男の横顔から離れない。
「第三記録」
男が突然呟いた。
レオンたちは黙る。
「黒月三十日。勇者エリシア、文書庫を……」
そこで声が止まった。
男の眉間に皺が寄る。
「どうした?」
「続きが」
壁に刻んでいた記録。
百年以上、骨になるまで指を削りながら残していた文章だ。
「思い出せない?」
男は何度か口を動かした。
「王城……地下……その後がありません」
リネアがゆっくり器を置く。
「始まったのね」
「何が?」
「地下を離れた影響よ。あの部屋で繰り返し続けることで、記録を固定していた。でも今は、それをしていない」
レオンは男を見る。
第三記録は失われ始めている。
代わりに、玉葱を焦がした匂いを思い出した。
「戻れば、また維持できる?」
「おそらく」
「戻らない」
男が言った。
全員の視線が集まる。
彼は自分の器を見つめていた。
「戻りません」
今度は、さっきよりはっきり言った。
「記録が消えるよ」
エリシアが確認する。
「はい」
「それでも?」
男は頷いた。
「髪の長い人を、思い出したいです」
レオンはそれ以上何も言わなかった。
炉の中で薪が爆ぜる。
老婆の讃美歌はまだ続いていた。
一度も息継ぎをしないまま。
◇
夜が深くなると、巡礼堂の白い壁は月光を吸って青く見えた。
フィンは長椅子へ横になり、目を閉じている。死者に睡眠が必要なのか聞いたことはないが、本人曰く「寝るのは暇潰しにちょうどいい」らしい。リネアは祭壇から離れた柱にもたれ、いつの間にか目を閉じていた。
レオンは眠れなかった。
外へ出る。
石段には夜露が降りており、靴底が僅かに滑った。森から吹いてくる風は冷たく、火のそばにいた身体から熱を奪っていく。草の青い匂いに、巡礼堂の中から流れてくる甘い腐敗臭が薄く混ざっていた。
エリシアがいた。
白い石像の下に座り、月を見ている。
像は翼を広げた女の姿をしていた。月光を受けた石肌は滑らかで、エリシアの白髪とほとんど同じ色に見える。その足元には供えられた白い花が積まれ、茶色く溶けた花弁の先から粘ついた汁がゆっくり石を伝っていた。
「寝ないの?」
レオンが声を掛ける。
「レオンこそ」
「俺は……ちょっと眠れなくて」
言ってから、余計だったかと思った。
死者であるふりをしている以上、睡眠の必要性をわざわざ話すべきではない。エリシアだけなら問題ないが、どこで誰が聞いているか分からない。
彼女は気にした様子もなく、隣の石段を僅かに空けた。
レオンが座る。
石は夜気を吸って冷たく、服越しにも硬さが伝わった。
しばらく、どちらも話さなかった。
森の葉が擦れる音。
遠くで鳴く虫。
巡礼堂から流れてくる、途切れない讃美歌。
「レオン」
「ん?」
「私、死んでた」
レオンは横を見る。
エリシアは月を見たままだった。
「記録ではな」
「傷も同じだった」
彼女の手が胸元へ触れる。
鐘の道で浮かび上がった傷。胸から腹にかけて走った、深い裂け目。
「自分の剣だった」
「誰が使ったかまでは分からない」
「うん」
エリシアの指が服の上から胸元をなぞる。そこに傷は見えない。それでも指先は、正確な位置を知っているように途中で止まった。
「何か変わった?」
「何が?」
「私を見る時」
レオンは返事を急がなかった。
月明かりの下にいる彼女を見る。
白い髪。
赤い瞳。
体温のない身体。
墓には同じ名前が刻まれ、百年以上前の記録には死亡したと書かれていた。
それでも、今隣に座っているエリシアは、昼間に果物の味を確かめ、言葉を選ぶ時には目を伏せ、ときどき本当に僅かに笑う。
「紙より、今見えてる方を先にする」
エリシアがこちらを見る。
「どういう意味?」
「記録に死んだって書いてあるからって、それだけでお前を決めたくないってこと」
「でも、私は死者かもしれない」
「この世界でそれ、そんなに珍しくないだろ」
エリシアは少しだけ目を細めた。
「レオンは変」
「今さら?」
「うん。今さら」
口元が僅かに緩む。
レオンも笑いかけたところで、巡礼堂の扉が軋んだ。
二人が振り返る。
名前のない男が立っていた。
歩き方はまだぎこちない。石段を一段下りるたび、足の位置を確かめるように視線を落としている。
「眠れない?」
レオンが尋ねる。
「睡眠の必要はありません」
「そうだった」
「ですが、中にいると歌がずっと聞こえます」
「ああ、それは分かる」
三人で耳を澄ます。
老婆の讃美歌はまだ続いている。
一度も止まっていない。
男はレオンたちから少し離れた場所へ座り、空を見上げた。
「質問してもいいでしょうか」
「どうぞ」
「名前がない場合、新しく決めてもいいのでしょうか」
レオンは少し考えた。
「駄目な理由ある?」
「記録にはありません」
「じゃあ、好きに決めていいんじゃない?」
「自分で?」
「自分の名前なんだから」
男は夜空へ目を戻した。
星を見ている。
あるいは、星を見ながら別のものを探しているのかもしれない。
「すぐには決まりません」
「百二十一年名前なしだったんだろ。今夜中に決めなくてもいいよ」
「そうですね」
男はゆっくり頷いた。
「明日、考えます」
その言葉を聞いて、レオンは何も返さなかった。
明日。
地下で同じ三日間を繰り返していた男が、初めて自分から未来の日を口にした。
月は変わらず白く、死者の祈りの歌も続いている。甘く傷んだ花の匂いが夜風に混じり、その向こうで、生きた虫が草の間を鳴きながら移動していた。
名前のない男は、それを聞きながら星を見上げていた。




