第二十一話 記録ではなく
ゴォン――。
石のさらに下から響いた鐘は、耳で聞くというより、足の裏から身体へ入り込んできた。
床に薄く積もっていた砂が震え、壁一面の文字から細かな石粉がぱらぱらと落ちる。階段脇に置かれた蝋燭の炎も一斉に細くなり、風などないのに、すべて地下の奥へ向かって傾いた。
「……近い」
フィンが呟いた。
鐘の道で聞いたものより、ずっと近い。レオンにもそう感じられた。ただ、どこから鳴っているのかは分からない。足元なのか、さらに地中深くなのか、それとも前と同じように、距離という考え方そのものが意味を持たないのか。
リネアは顔を強張らせたまま、階段へ視線を向けている。
「ここを出るわよ」
「鐘のこと知ってるのか?」
「全部は知らない。でも、さっきより悪い」
「説明になってない」
「説明している時間があるなら歩いて」
いつもの柔らかな調子は消えていた。灰色の瞳はレオンではなく、地下室の天井を見ている。何かを警戒しているというより、次に何が起こるかを待っているような目だった。
エリシアも剣を収めない。
「戻る」
「その方がいい」
レオンも頷きかけたが、壁際で鎖の鳴る音がして動きを止めた。
第三記録の男が、再び壁へ向かっていた。
骨の露出した指先を石へ押しつけ、震える手で文字を刻もうとしている。
「王暦六百十四年、黒月三十日……」
カリ、と乾いた音がする。
「勇者エリシア、死亡……王城地下……記録禁止……」
「何してるんだ」
レオンが声を掛けても、男は振り返らない。
「記録を残さなければなりません」
「もう聞いた。壁にも残ってる」
「記録を残さなければなりません」
同じ返事だった。
鐘の影響なのか、それとも元からそうなのか判断できない。ただ、さっきまで僅かに存在していた男自身の部分が薄くなっているように見えた。
「放っておいて」
リネアが階段へ向かう。
「待てよ」
「時間がないの」
「こいつは?」
リネアが足を止めた。
振り返った顔には苛立ちではなく、諦めに近いものが浮かんでいる。
「第三記録はここに残る」
「第三記録じゃなくて、この人のこと聞いてる」
リネアはすぐには答えなかった。
男は二人の会話など聞こえていないように、壁へ文字を刻み続けている。傷だらけの指から血は出ない。ただ骨が石を削り、そのたびに白い粉が足元へ落ちていく。
「……同じことよ」
ようやくリネアが答えた。
「違うだろ」
「今の彼は、そのために残ってる」
「本人がそうしたいのか分からないって、さっき話したばかりじゃないか」
リネアの唇が僅かに動いたが、言葉は出なかった。
レオンは男へ近づく。距離が縮まるにつれて、古い服に染みついた湿気と鉄の臭いが強くなった。鐘の影響で自我を失えば何をするか分からないため、手の届くところまでは行かずに立ち止まる。
「聞こえてるか?」
男の手だけが動いている。
「記録を残さなければなりません」
「それは分かった。聞きたいのは別のことだ」
レオンは壁ではなく、男自身を見る。
「ここから出たいか?」
指が止まった。
誰も話さない。
蝋燭の芯が小さく燃える音と、遠くから水が落ちる音だけが地下室に残る。
「……質問の意味を確認できません」
「外に出たいかって聞いてる。この部屋から」
「第三記録は、ここで保存されます」
「それは役目の話だろ」
レオンは少しだけ眉を寄せた。
「お前自身は?」
男の右目がゆっくりレオンへ向いた。
さっきまで記録を読み上げていた目とは違う。何を聞かれているのか分からず、遠い記憶を探しているような目だった。
「私……自身」
「そう」
その言葉を口の中で確かめるように、男の唇が動いた。
長い沈黙のあと、彼は階段の方を見る。
「外は」
掠れた声だった。
「外は、まだありますか」
レオンは一瞬、答えられなかった。
男にとっては三日しか経っていない。けれど実際には百二十一年もの間、石の下へ鎖で繋がれ、空も風も見ないまま文字を刻み続けている。
「ああ」
レオンは答えた。
「あるよ」
男はそれきり黙った。
だが、壁へ指を戻そうとはしなかった。
レオンはエリシアを見る。
彼女も男を見ていた。赤い瞳が足首の鉄輪へ移り、次にレオンを見る。
「切る?」
「頼む」
リネアが一歩踏み出した。
「待って。彼を外へ出したら、第三記録が――」
「消えるかもしれない?」
「……分からない。でも、ここで記憶を維持するために作られた仕組みなの。この部屋を離れれば、今まで残っていたものまで失う可能性がある」
レオンは男を見る。
「じゃあ本人に決めてもらえばいい」
「今の彼に?」
「だからって、俺たちが決めていい理由にはならないだろ」
リネアは何も言わなかった。
レオンは再び男へ向き直る。
「ここを出たら、覚えてることを忘れるかもしれないらしい」
「……忘れる」
「そう。それでも出たいなら、鎖を切る」
男は壁を見る。
百年以上、自分が刻み続けた文字。
日付。
命令。
消された名前。
勇者の死。
何度も何度も繰り返され、古い傷の上に新しい傷が重なっている。
「忘れたら」
男が言った。
「記録が、なくなります」
「全部じゃない。俺たちも聞いた」
「人の記憶は薄れます」
その言葉は、自分自身について言っているようにも聞こえた。
「そうかもな」
レオンは否定しなかった。
「でも、それでも決めるのはお前だ」
男の右目が、また階段へ向く。
上から、ごく僅かに風が流れてきていた。湿った地下の空気とは違う、古い紙と蝋の匂いを含んだ文書庫の空気だった。
「……空を」
男が呟いた。
「見たい」
エリシアが剣を抜いた。
今度は誰も止めなかった。
◇
鎖が切れた瞬間、男は倒れそうになった。
百年以上使っていなかった脚は、死者であっても上手く動かないらしい。フィンが咄嗟に肩を支え、男は驚いたように自分の足を見る。
「歩き方、覚えてる?」
「記録に……」
そこまで言ってから、男は黙った。
「何でも記録に頼るなって」
フィンが苦笑する。
「右、左。交互に出せば大体いけるよ」
「雑すぎるだろ」
「じゃあレオンが教える?」
「俺だって歩き方を説明したことないよ」
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
だが階段を上り始めると、その余裕もすぐになくなった。
第三保管室へ戻った瞬間、レオンは足を止めた。
部屋の様子が変わっている。
書架も机も同じ場所にある。灯りも消えてはいない。ただ、階段へ下りる前まで聞こえていた羽根ペンの音がなくなっていた。
クラリスが机の前に立っている。
こちらへ背を向けたまま、動かない。
「クラリス?」
エリシアが呼ぶ。
返事はない。
近づくにつれて、レオンは違和感の正体に気づいた。クラリスだけではない。開いた扉の向こう、第三保管区域へ続く廊下にも人影が立っている。
文書庫の職員だった。
一人。
その後ろにも一人。
さらに角の向こうにも。
全員が仕事を止め、同じ方向へ顔を向けている。
地下を見ていた。
「……これは嫌なやつだね」
フィンが第三記録の男を支えながら声を潜める。
誰も返事をしなかった。
レオンたちが歩き出しても、職員たちは動かない。ただ首だけが僅かに動き、通り過ぎる一行を目で追っている。
レオンは自然に外套の前を押さえた。走りたい気持ちはあったが、フィンの前で無駄に息を乱したくない。それ以上に、静かな死者たちの間を駆け抜けること自体が何かを刺激するような気がした。
廊下を抜け、広間へ出る。
そこで全員が足を止めた。
数十人の死者が立っていた。
机の横。
書架の間。
階段の途中。
渡り廊下の上。
全員が手を止め、同じ方向を見ている。
中には、先ほどまで隠れていた死の傷が浮かび始めている者もいた。首に紫色の痣を持つ女、腹部を黒く染めた老人、片目からこめかみにかけて深く割れた若い男。誰一人苦しむ様子はなく、ただ静かに立っている。
広い文書庫に、呼吸音はない。
紙をめくる音もない。
レオンには、自分の胸の音だけがやけに大きく感じられた。
「ゆっくり」
エリシアが小さく言う。
その一言だけで、何を意味しているのか分かった。
三人は歩く速度を変えない。
リネアも今は何も言わず、第三記録の男の反対側を支えている。
受付の前を通った時、頭蓋の欠けた老人がこちらを見た。
「閲覧物の持ち出しは禁止されています」
平坦な声だった。
レオンは足を止めない。
「人だよ」
「第三記録は、閲覧物です」
「違う」
「第三記録は、閲覧物です」
老人は同じ調子で繰り返した。
「保管物を元の位置へ戻してください」
周囲に立っていた職員たちの顔が、一斉にこちらへ向いた。
首が動く音はしなかった。
だから余計に気味が悪い。
「レオン」
エリシアが呼ぶ。
「分かってる」
立ち止まればまずい。
そう感じた。
受付の老人がもう一度口を開く。
「保管物を、元の位置へ」
「戻さない」
レオンは初めて老人を見た。
「本人が出るって決めた」
老人の濁った目には、意味が伝わっているようには見えなかった。
数秒後、同じ言葉が返ってくる。
「保管物を元の位置へ戻してください」
レオンはもう答えなかった。
正面玄関へ向かって歩く。
その後ろを、何十もの死者の視線が追ってきた。
◇
鉄扉を抜けた瞬間、冷たい夜風が頬へ当たった。
レオンはそこで初めて、知らないうちに肩へ力を入れていたことに気づいた。空には雲が少なく、谷を挟んだ山々の上に細い月が浮かんでいる。崖の影になった谷底は真っ暗だったが、その上には無数の星が見えた。
「……空」
第三記録の男が呟いた。
フィンとリネアが手を離しても、今度は自分の足で立っている。
男は何度も瞬きをしながら、夜空を見上げていた。
「暗い」
「夜だからな」
レオンが答える。
「夜……」
男の声には、初めて聞く柔らかさがあった。
「そうでした。夜は、暗かった」
当たり前のことだった。
けれど、その当たり前を百年以上見ていなかった。
風が吹く。
男の白い髪が揺れる。
死者の身体だから寒さを感じているのかは分からない。それでも彼は、風が頬を通るたびに目を細めた。
「星は」
男が空を見ながら言う。
「こんなに多かったでしょうか」
「俺に聞かれても分からない」
レオンも空を見る。
「でも、今はある」
「はい」
男はそれきり長い間、空から目を離さなかった。
レオンは少し離れた場所に立つエリシアを見る。
彼女だけは星を見ていなかった。
自分の胸元へ片手を置いている。
鐘の道で浮かび上がった傷。
第三記録が告げた死因。
自分自身の剣による、胸から腹へ達する致命傷。
レオンが近づくと、エリシアは手を下ろした。
「大丈夫?」
「うん」
「それ、大丈夫じゃない時も言うだろ」
エリシアは少しだけ目を逸らした。
その反応だけで十分だった。
「怖い?」
少し迷ってから尋ねる。
エリシアはすぐには答えなかった。谷を渡る風が白い髪を頬へ掛け、彼女はそれを耳へ戻してから、自分の手を見た。
「……少し」
「自分が死んだこと?」
首を横へ振る。
「誰に殺されたか、知ること」
レオンは何も言わず、続きを待った。
「知らない相手ならいい」
「いいのか?」
「少しだけ」
エリシアは自分でも変な答えだと思ったのか、僅かに眉を寄せた。
「でも、知ってる人だったら嫌」
その言葉だけは、とても普通の少女のものに聞こえた。
勇者でもない。
百年以上存在する死者でもない。
自分を殺した相手が、大切な誰かだったかもしれないと怖がっているだけだった。
「じゃあ」
レオンは谷の向こうを見る。
「分かるまでは、勝手に決めないようにしよう」
「何を?」
「犯人。自分自身だったとか、リネアだったとか、知らない誰かだったとか。情報が一つ出るたびに決めつけてたら、たぶん頭がおかしくなる」
エリシアがレオンを見る。
「もう少しなってる」
「誰が?」
「レオン」
「ひどくない?」
ほんの少し。
本当に僅かに、エリシアの口元が緩んだ。
すぐに消えた笑みだったが、それでよかった。
背後では第三記録の男が、まだ空を見ていた。
リネアは少し離れた石橋の端に立ち、暗い文書庫を振り返っている。フィンはその隣で鞄の中身を確かめながら、時々男の様子へ目を向けていた。
レオンは文書庫を見上げる。
窓には灯りがある。
そのいくつかに、人影が立っているのが見えた。
職員たちだ。
仕事へ戻った様子はない。
何十人もの死者が窓辺に立ち、こちらを見下ろしている。
距離があるため表情までは分からない。
ただ、誰一人動かなかった。
「……今夜、ここから離れた方がいいな」
フィンが同じものに気づいたらしい。
「珍しく完全同意」
「いつも結構同意してるだろ」
「口に出さないだけ」
「それ同意したことにならないよ」
レオンたちは石橋を渡り始めた。
途中で、第三記録の男が足を止める。
「どうした?」
振り返ると、男は文書庫ではなくレオンを見ていた。
「一つ、質問があります」
「何?」
「私には、名前があったのでしょうか」
レオンは答えに詰まった。
リネアも振り返る。
その顔を見れば、彼女にも思い出せないことが分かった。
「……あったと思う」
レオンは答えた。
「でも、今は誰も覚えてない」
「そうですか」
男は少しだけ俯いた。
その横顔を見ていると、地下で「名前は不要」と答えていたのが、別人のように思えた。
「思い出したい?」
レオンが聞く。
男はしばらく考えてから、ゆっくり頷いた。
「はい」
風が橋の上を抜けていく。
谷の底から冷たい空気が吹き上がり、男の古びた服と白い髪を揺らした。
「では、それも探しましょう」
フィンが言った。
男が彼を見る。
「配達のついでだけどね。宛先不明、差出人不明、本人の名前まで不明となると、配達人としてはかなり燃える案件だ」
「仕事増やすの好きだな、お前」
「好きで五十年やってるからね」
男はフィンを見つめ、それからレオンとエリシアを見る。
表情の作り方を忘れてしまったのか、笑いはしなかった。
ただ、地下で記録を読み上げていた時とは違い、目だけがほんの少し柔らかくなっていた。
三人ではなく、四人と一人になった一行は、夜の街道へ歩き出す。
背後の文書庫では、窓に並んだ死者たちがいつまでもこちらを見ていた。




