第二十話 消しに来た勇者
石段を下りてくる足音は、途中で一度も止まらなかった。急いでいるわけでも、こちらを警戒しているわけでもない。一定の速さで、一段ずつ地下へ近づいてくる。その音を聞いているうちに、レオンは剣を握る手が汗ばんでいることに気づき、外套の裾で掌を拭った。
逃げ道は階段しかない。その階段から誰かが降りてきている以上、奥へ追い込まれれば終わりだ。しかも周囲にいるのはエリシア、リネア、フィン、そして第三記録と呼ばれる男。全員が死者である可能性が高いこの場所で、怪我をして血でも流せば、自分が何者なのかを隠し通せる保証はない。
「フィン、奥へ行きすぎるな。何かあったら上へ抜けられる位置にいて」
「上から何か来てるんだけど?」
「だからだよ。通れる隙間ができたら先に道を確保してくれ」
「了解。逃げ道担当、継続ね」
フィンが冗談めかして答えたが、短剣を握る手は真剣だった。リネアは黒髪の姿のまま階段脇へ寄り、何かあれば横から動ける位置を取る。エリシアだけは正面から一歩も退かず、剣先を低く構えて暗い階段を見つめていた。
最後の段を踏む音がした。
闇の中から、白い靴が現れる。続いて細い脚、灰色の旅装、腰に下げた長剣。そして蝋燭の光が顔へ届いた瞬間、フィンが小さく「またか」と呟いた。
現れた女は、エリシアと同じ顔をしていた。
白い髪も、赤い瞳も、背丈もほとんど変わらない。服装こそ違うが、二人を並べれば姉妹というより、同じ人間を二つの鏡へ映したように見える。
ただし、レオンにはすぐに違和感があった。
表情がない。
エリシアも感情を大きく表へ出す方ではないが、無表情というわけではない。目線が動き、僅かに眉が寄り、言葉を選ぶ時には間がある。目の前の女には、それがほとんどなかった。
赤い瞳が地下室を見回す。
第三記録。
壁。
リネア。
エリシア。
そして最後に、レオンたち。
「開示されたのね」
声までエリシアとよく似ていた。
しかし聞き慣れた声だからこそ、違いが分かる。息の混じり方も、言葉の切り方も僅かに違っていた。
「あなたは誰?」
エリシアが尋ねる。
女は答えなかった。
「私の姿をしてる」
「そうね」
「名前は?」
「必要ない」
その言葉を聞いた瞬間、壁際にいた第三記録の男が激しく鎖を鳴らした。
「名前を残してはいけない」
男は壁へ身体を押しつけ、残った右目を見開いている。
「名前を残してはいけない。形を残してはいけない。見つかる。見つかる――」
白髪の女が男を見る。
「まだ残っていたの」
その声には驚きも嫌悪もなかった。長く放置していた物を見つけたような言い方だった。
エリシアの剣先が僅かに上がる。
「この人を知ってる?」
「記録でしょう」
「人」
「今は記録」
レオンは女の言葉に眉を寄せた。
「ずいぶん簡単に言うな」
女の目がレオンへ向いた。
真正面から見られ、心臓が一度強く鳴る。鐘の時のように鼓動まで聞き取られる様子はないが、レオンは反射的に呼吸を整えた。
「あなたは?」
「レオン」
「そう」
それだけだった。
名前を知っていた様子も、特別な反応もない。むしろ興味そのものが薄いように見えた。
リネアが一歩前へ出る。
「さっきここへ来たのも、あなた?」
「さっき?」
「上の記録官が、エリシアと同じ姿を見たと言っていたわ」
「そう」
「質問に答えてないわね」
「来た」
リネアの灰色の目が細くなる。
「何を探していたの?」
女は第三記録へ視線を戻した。
「それを」
やはり、とレオンは思った。
壁に最近刻まれていた文章にも、『記録を探している』とあった。この女は第三記録の存在を知っていた。それも、偶然迷い込んだのではなく、明確な目的を持って地下まで来ている。
「見つけたのに、何で残した?」
レオンが聞く。
「開かなかったから」
「何が?」
「記録が」
女はエリシアを見る。
「条件を満たしていなかった」
レオンもつられてエリシアを見る。
第三記録の開示条件は、勇者エリシアが魔王討伐後の記憶を失っていること。目の前の女はエリシアの姿をしているが、第三記録は彼女を勇者として認めなかったことになる。
つまり、顔だけ同じでも駄目だった。
「だから戻ってきた?」
エリシアが言う。
「あなたが来たから」
「私を待ってた?」
「違う」
女の視線が、エリシアから壁際の男へ移る。
「開いたなら、もう必要ない」
腰の剣へ手が伸びた。
動きは静かだった。
それなのに、エリシアは女が抜くより先に踏み込んでいた。
二本の剣がぶつかり、石室に鋭い金属音が響く。
レオンは一瞬遅れて身構えた。
女が狙っていたのはエリシアではない。
第三記録だった。
「記録を消す気か!」
フィンが声を上げる。
女は答えず、エリシアの剣を滑らせるように受け流した。身体を半歩沈め、そのまま肩口を抜けて第三記録へ向かおうとする。
エリシアが追う。
再び剣が重なる。
二人の動きを見て、レオンは妙な寒気を覚えた。
似ている。
顔だけではない。
足を置く位置、刃を受ける角度、次の動作へ移るまでの僅かな間。これまで何度もエリシアの戦いを見てきたから分かる。目の前の女は、エリシアと同じ剣を使っている。
リネアも気づいたらしく、笑みが完全に消えていた。
「……それまで真似できるのね」
女は答えない。
エリシアが横薙ぎに振った刃を、まったく同じ角度で受ける。二人の剣が噛み合い、互いの顔が至近距離で向かい合った。
「誰に教わったの?」
エリシアが尋ねる。
「同じ人」
初めて、女が即答した。
エリシアの動きが僅かに止まる。
その隙を女は逃さなかった。身体を回し、剣の腹でエリシアの刃を押し流すと、一直線に第三記録へ踏み込む。
「エリシア!」
レオンは考えるより先に動いた。
女の右肩を見る。
刃ではなく肩。
ダリオの記憶が教えた動きだった。次にどこへ斬り込むかは、剣先より先に肩が示す。
第三記録の首へ向かっている。
半歩。
正面から止めず、軌道だけをずらす。
身体が勝手に形を選び、レオンは剣を斜めに差し込んだ。
甲高い音がした。
女の刃が逸れる。
だが腕が痺れた。
力そのものが違う。受け止めたわけではないのに、衝撃だけで肩まで痛みが走った。
「っ……!」
女が初めてレオンをまともに見た。
赤い瞳が僅かに揺れる。
「その動き」
レオンの背筋が冷たくなる。
まずい。
ダリオの技を知っているのか、それとも別の何かに反応したのか分からない。だが問い返す余裕はなかった。
「レオン、下がって」
エリシアが女との間へ割り込む。
今度は三度、続けて金属音が響いた。エリシアは必要最低限の動きだけで刃を弾き、女も同じように応じる。鏡合わせのような攻防だったが、四度目で僅かな差が出た。
エリシアが踏み込む。
女は同じ角度で返そうとした。
その前に、エリシアの剣先が女の袖を裂いた。
白い腕が露出する。
傷口は開かなかった。
血も出ない。
レオンは一瞬、自分が斬られた場合のことを考えた。ここで自分だけ赤い血を流せば、フィンどころかリネアにも隠し通せない。
絶対に当たれない。
その考えが身体を硬くしそうになり、レオンは一度だけ息を整えた。
「フィン、記録を守れ!」
「俺!?」
「他に誰がいるんだよ!」
「勇者二人と化ける人と剣持ったレオンがいるけど!?」
「いいから!」
「配達人の業務範囲、広がりすぎだろ!」
文句を言いながらもフィンは第三記録の前へ回った。男自身は恐怖で動けず、壁に刻まれた言葉を何度も指でなぞっている。
「消してはいけない。忘れてはいけない。残さなければ――」
「大丈夫。今は消させないから」
フィンがそう言った時、女が突然剣を引いた。
エリシアも追わない。
二人の間に数歩分の距離が開く。
白髪の女は裂けた袖を一度見たあと、エリシアへ視線を戻した。
「変わってない」
「何が?」
「剣」
「あなたは変」
「そう」
女は何の感情もなく頷いた。
リネアが横から問いかける。
「魔王城の地下にあった印。あなたは知ってる?」
そこで初めて、女の表情が変わった。
ほんの僅かだった。
赤い瞳がリネアへ向き、口元から無機質さが消える。
「見たのね」
「何なの?」
「残ってはいけないもの」
「そればかりね。名前も、記録も、印も。全部消して回ってるの?」
「違う」
「なら何?」
女は答えず、ゆっくりと剣を下ろした。
「鐘が鳴り始めている」
レオンの胸の奥がざわつく。
「旧街道の鐘か?」
「街道だけじゃない」
「ロウでも鳴った」
女がレオンを見る。
「六回?」
「ああ」
「七回目は?」
レオンは眉を寄せた。
「七回目?」
女の顔から、僅かに浮かんでいた感情が消えた。
「まだならいい」
「待て。六回までじゃないのか?」
「誰がそう言ったの?」
「……誰も」
ロウでも旧街道でも、六回で終わった。
だから勝手に六回までだと思っていた。
女はそれ以上説明しなかった。
リネアが一歩詰める。
「七回鳴ったら、何が起こるの?」
「知らない方がいい」
「それで済ませると思う?」
「知れば残る」
「何が?」
「名前と同じ」
会話が噛み合わない。
いや、女の中では一貫しているのかもしれない。名前も記録も、あの印も、知ることそのものが危険だと考えている。
その時、第三記録の男が壁へ爪を押しつけた。
「七度目」
レオンたちが振り返る。
男は震えながら、新しい文字を刻もうとしていた。
「七度目は、記録してはいけない」
カリ、と骨が石を削る。
「見てはいけない。聞いてはいけない。呼んではいけない」
「何を?」
エリシアが尋ねる。
男の手が止まった。
「記録禁止」
またそこだ。
白髪の女が男を見る。
そして、今度は明確な焦りを見せた。
「それ以上、思い出させないで」
「どうして?」
エリシアの問いに、女はすぐ答えた。
「思い出すことと、見つかることは同じだから」
次の瞬間、女は床へ手をついた。
石に刻まれた小さな印が淡く浮かび上がる。
円の中に、鐘に似た形。
壁に刻まれていたものと同じだった。
「止めて!」
リネアが叫ぶ。
床から黒い影が広がった。
エリシアが斬り込むが、刃が届くより一瞬早く、女の身体が影へ沈む。足、腰、肩と順に石床の暗がりへ溶けていき、最後に白い顔だけが残った。
「待て!」
レオンが声を上げる。
女の赤い瞳がこちらを見る。
「第三記録は消した方がいい」
「理由を言え!」
「残せば、また来る」
「誰が?」
影が顎まで覆う。
女は最後にエリシアを見た。
「今度は、私じゃない」
それを最後に姿が消えた。
床には何も残らなかった。
焦げ跡も、灰も、血もない。ただ印だけが僅かに黒く残り、しばらくするとそれも石の色へ戻っていった。
誰もすぐには動かなかった。
フィンが最初に口を開く。
「……説明してくれる人、いる?」
「俺も欲しい」
「よかった。俺だけじゃなかった」
リネアは笑わなかった。
床へしゃがみ込み、女が消えた場所を指先でなぞっている。
「さっきの魔法、知ってる?」
レオンが尋ねる。
「似たものは。でも、あれは違う」
「何が?」
「転移なら、移動先へ魔力の道を繋ぐ。今のは……最初からそこにいなかったみたい」
「幻?」
「剣は本物だったでしょう?」
レオンは痺れの残る腕を見る。
確かに刃は当たった。
重さも衝撃もあった。
それなのに、リネアは「最初からいなかった」と言う。
エリシアは床ではなく、自分の剣を見ていた。
「同じだった」
「剣の使い方?」
「うん」
リネアが立ち上がる。
「私も見てた。癖まで似ていたわ」
「教えた人も同じって言ってた」
レオンが口にすると、エリシアの視線が上がった。
「私の先生を知ってる」
「そうなるな」
「でも、先生はもういない」
旅の途中、エリシアがそう話していたことをレオンは覚えている。ただ今は、その人物について尋ねても答えが増えるとは思えなかった。
むしろ気になるのは別の言葉だった。
「七回目……」
フィンも同じことを考えていたらしい。
「俺、鐘の道で六回でも十分ひどかったんだけど」
「俺ももう一回あれを味わうのは嫌だな」
「俺は途中ほとんど覚えてないから、余計怖いんだよ」
レオンは第三記録を見る。
「七回目について何か残ってない?」
男は壁を見たまま動かない。
「第三記録」
返事がない。
「聞こえてる?」
しばらくして、男が振り返った。
「聞こえています」
「七度目の鐘について知ってることを教えてほしい」
「記録禁止です」
「何で禁止された?」
「記録禁止です」
「誰が禁止した?」
「記録禁止です」
完全に閉じている。
レオンは諦めかけたが、エリシアが男へ近づいた。
「私が禁止した?」
男が彼女を見る。
長い沈黙のあと、首を横へ振った。
「違います」
レオンは眉を寄せる。
「じゃあ誰が?」
男の唇が僅かに開いた。
声は出ない。
右目が怯えたように震え、やがて壁へ向き直る。
「名前を残してはいけない」
また同じ言葉だった。
だが今度は、それだけでは終わらなかった。
男の指が壁の傷を辿っていく。古い文字の層を何度も撫でたあと、一か所で止まった。
「ここに、ありました」
「何が?」
「名前が」
レオンたちは灯りを近づけた。
そこだけ、他の文字より深く削られている。名前を消すために表面を削ったのではなく、石そのものを何度も抉った跡だった。
文字は残っていない。
だが、そのすぐ横に一文だけ残されていた。
『七度目を聞いた者は、門を開く』
レオンは無意識に文章を読み返した。
「門?」
誰も答えない。
リネアの顔から血の気が引いたように見えた。死人にそんな変化があるのか分からないが、少なくとも表情は明らかに強張っている。
「リネア」
「……帰るわよ」
「何?」
「ここから出る」
「待てよ。今の文章について――」
「後で話す」
「知ってるのか?」
リネアは答えず、階段へ向かった。
いつもの余裕がない。
「急いで」
エリシアが不思議そうに彼女を見る。
「どうしたの?」
リネアは一度足を止めた。
振り返った顔には、レオンが初めて見る種類の恐怖があった。
「今、ここに長くいない方がいい」
「理由は?」
リネアが答えるより先に、石室全体が微かに震えた。
地震のような揺れではない。
もっと低い。
遠くで巨大な何かが動いたような振動が、床から靴底へ伝わってくる。
そして。
地下のさらに下。
石の向こう側から。
ゴォン――。
低い鐘の音が、一度だけ響いた。




