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死者の国で、俺だけが生きている  作者: ななせゆう


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第十八話 第三記録

 石段の下から聞こえた音に、レオンはしばらく動かなかった。誰かが息を吸ったように聞こえたが、それきり呼吸は続かない。代わりに、少し間を置いて硬いものが石を擦る音が戻ってきた。


 カリ、カリ。


「……行く?」


 フィンが声を落とした。


「ここまで来て帰る選択肢ある?」


「ないね。聞いてみただけ」


 エリシアはすでに剣を抜いていた。彼女が先頭、レオンがその後ろ、フィンが燭台から取った蝋燭を持って最後尾につく。狭い場所でフィンを背後に置くことには少し抵抗があったが、さっき決めた役割を変える方が不自然だ。レオンは外套の襟を少し上げ、なるべく呼吸を乱さないよう一段ずつ下り始めた。


 石段は想像していたより深かった。壁も天井も荒く削られた岩のままで、上の文書庫とは造りがまるで違う。湿った空気が肌へまとわりつき、古い鉄のような臭いが下へ進むほど濃くなっていく。その間も、暗闇の奥から石を引っ掻く音が途切れ途切れに聞こえていた。


「文書を置く場所には思えないな」


 レオンが呟く。


「湿気がひどすぎる」


「紙なら一発だね」


 フィンが蝋燭を壁へ近づけた。ところどころに古い金具が打ち込まれているが、棚を固定した跡ではない。鉄輪のようなものまで残っている。


「……嫌な予感しかしないんだけど」


「私も」


「エリシアが言うと余計怖いな」


 階段の終わりが見えた。


 下には小さな石室があった。書棚も机もなく、中央に古い椅子が一脚置かれている。その周囲には床から伸びた鎖が何本も転がり、壁一面には細かな傷が刻まれていた。


 最初、文字だとは分からなかった。


 近づくにつれ、それが何百、何千という文字の集まりだと分かる。同じ日付、同じ単語、同じ文章が何度も石へ刻まれ、古いものの上に新しいものが重なっている。壁の一部は削れすぎて窪み、文字ではなく黒い傷の塊になっていた。


 そして、その壁の前に一人の男がいた。


 背を向け、床に座り込んでいる。髪は白く、痩せ細った身体にはぼろぼろの灰色の服をまとっていた。右足には鉄輪が嵌められ、鎖が床へ固定されている。左手も壁際の金具へ繋がれていたが、右手だけは自由になっていた。


 その右手で、壁を引っ掻いている。


 爪は残っていなかった。


 指先の皮膚も削れ、白い骨が覗いている。それでも男は痛がる様子もなく、骨の先を石へ押し当ててゆっくり文字を刻んでいた。


 カリ、カリ。


 レオンは鼻の奥に感じていた鉄臭さの正体を理解した。壁の下には、乾いて黒くなったものが幾層にもこびりついている。


「……これが第三記録?」


 フィンの声から、いつもの軽さが消えていた。


 男の手が止まった。


 ゆっくり振り返る。


 顔は老人に見えた。ただ、年齢のせいでそう見えるのかは分からない。頬は深く落ち込み、左目は失われ、空洞になった眼窩の縁には古い傷が残っている。残った右目だけが三人を順番に見て、最後にエリシアで止まった。


「確認します」


 掠れた声だった。


「勇者エリシア。魔王討伐後の記憶を保持していますか」


 レオンはエリシアを見る。


 彼女はすぐには答えなかった。目の前の男と、壁一面に刻まれた傷を見比べている。


「……欠けてる」


「回答が不明確です。魔王討伐後、黒月三十日の出来事を保持していますか」


「してない」


 男の右目が閉じた。


 しばらく何も起きない。


 やがて唇が動いた。


「開示条件を確認しました。第三記録を開始します」


「待って」


 エリシアが遮る。


「あなたの名前は?」


 男は目を開けた。


「第三記録です」


「名前」


「第三記録です」


「元の名前は?」


「不要です」


 抑揚すら変わらなかった。


 レオンは壁へ視線を移した。名前を残してはいけない。上にいたクラリスの言葉が頭をよぎる。


「自分で消したのか?」


 男はレオンを見る。


「不要な情報は削除されました」


「誰に?」


「第三記録を開始します」


 答える気がないのか、もう答えられないのか分からなかった。


 フィンも何も言わない。普段なら何か一言挟みそうな場面なのに、壁と男の指を見たまま黙っている。


 男は正面を向き、まるで目の前に見えない文書でも置かれているような姿勢を取った。


「王暦六百十四年、黒月二十七日。魔王討伐を確認。勇者隊、生存者帰還」


 淡々とした声だった。感情も迷いもなく、覚えた文章をそのまま読み上げている。


「黒月二十八日。王都への正式帰還を延期。理由、非公開。勇者エリシア、リネアほか関係者による協議を確認」


 エリシアの眉が僅かに動いた。


 男は続ける。


「黒月二十九日。王立文書庫へ勇者エリシア、リネア来訪。第一記録、第二記録の修正を申請。申請理由――」


 そこで声が止まった。


 右手が僅かに震える。


「申請理由」


 もう一度繰り返したが、その先が出てこない。男は壁へ向き直ると、指先を石へ押し当てた。


 カリ、と短い音がした。


「申請理由、記録禁止」


「禁止?」


 レオンが尋ねる。


「はい」


「誰が禁止した?」


 男は答えず、そのまま続きを読み始めた。


「修正対象、勇者隊所属記録。対象者一名。氏名――」


 再び止まる。


 今度は長かった。


 男の口が僅かに動いているのに、音にならない。右手が壁を探るように滑り、無数の傷の中から一つをなぞった。


「氏名、記録禁止」


 フィンが小さく息を吐くような真似をした。


「リネア?」


「分からない」


 レオンは声を抑えた。状況だけならそう考えるのが自然だが、ここまで名前そのものが異常な扱いを受けている以上、決めつける気にはなれなかった。


 エリシアは男から目を離さない。


「続けて」


「黒月三十日。修正命令を正式受領。王国内に存在する対象者の氏名、所属、功績、肖像記録を順次削除。後世の写本には対象者を含めないものとする」


 ヴァルネで見た削り跡が、レオンの頭に浮かんだ。


 偶然でも、一人の役人が勝手にやったことでもなかった。


 組織的に消されている。


「命令したのは誰?」


 レオンが聞く。


 男は間を置かず答えた。


「勇者エリシア」


 石室の空気が急に重くなった気がした。


 レオンは隣を見た。


 エリシアは動いていない。ただ、その目だけが男を凝視している。


「私が?」


「はい」


「理由は?」


「記録禁止」


「私は何て言った?」


 男の右手が震え始める。


「対象者の名を残してはならない」


「それだけ?」


「名を残せば、見つかる」


 クラリスと同じ言葉だった。


 エリシアが一歩近づく。


「何に?」


 男は答えない。


「誰に見つかるの?」


「記録禁止」


「誰が決めた?」


「記録禁止」


「私は知ってた?」


 男の顔が僅かに歪んだ。


 初めて、機械的ではない反応を見せた。


「知っていました」


 エリシアの指が剣の柄の上で固まる。


「何を?」


「記録禁止」


 そこから先へ進めない。


 レオンは喉まで出かかった質問を飲み込んだ。問い詰めても同じところを回るだけだ。男の中には情報がある。だが何かによって、そこへ辿り着く道そのものが切られている。


「リネアは?」


 今度はフィンが尋ねた。


「この命令に同意したの?」


「はい」


 意外な答えだった。


「自分の名前が消えるとしても?」


 男の右目がフィンへ向く。


「質問の前提を確認できません」


「つまり、消された一人がリネアとは限らない?」


「対象者氏名、記録禁止」


「徹底してるなあ……」


 フィンの声にも冗談らしさはなかった。


 レオンは壁へ近づきすぎないよう注意しながら、刻まれた文章を眺めた。同じ日付と同じ言葉が何度もある。その中に、『黒月三十日』という文字だけが異様な回数刻まれていることに気づいた。


「何で同じことを何度も書いてる?」


 男が壁を見る。


「忘れないためです」


「死者でも忘れるから?」


「はい」


「どれくらい続けてる?」


「三日です」


 レオンは何も言えなかった。


 上のクラリスと同じだ。


 百二十一年。


 この男も、自分が過ごした時間を三日だと思っている。その間ずっと記憶が薄れないよう、指が壊れても同じ文章を石へ刻み続けてきた。


「これを考えたのは誰?」


 エリシアが聞く。


「リネア様です」


 男の答えは早かった。


「紙は消される。書物は燃える。写本は改められる。人の記憶も薄れる。故に、記録は複数の方法で残す必要があると」


 そこで男は一度口を閉じた。


「第三記録は、忘れないことを命じられました」


 レオンは壁に残った血を見る。


 そのために名前を捨て、地下へ鎖で繋がれ、百年以上同じ日付を刻み続けている。


 これを記録と呼んでいいのか。


 人間だったものを、本や石板と同じように扱っているだけではないのか。


「自分で望んだのか?」


 気づけば、レオンは尋ねていた。


 男は首を傾げる。


「何をですか」


「ここに残ること」


 長い沈黙があった。


 壁のどこかから水が落ちる。


「……記録がありません」


 その返事が一番気味悪かった。


 自分が望んだかどうかさえ、もう残っていない。


 レオンはそれ以上聞けなかった。


 エリシアも俯き、しばらく男を見ていたが、やがて静かに言った。


「続きを聞かせて」


「承知しました」


 男は再び記録を読み始めた。


「黒月三十日、夕刻。第一記録、第二記録の修正作業開始。第三記録を地下保管へ移行。勇者エリシアより、追加指示を受領」


「追加指示?」


「本人が魔王討伐後の記憶を保持している場合、第三記録を開示してはならない。記憶を喪失している場合のみ、開示する」


 リネアの手紙と同じだった。


 エリシアが自分自身へ課した条件。


 少なくとも、この記録が正しいなら。


「何で、覚えてたら見ちゃいけないんだ?」


 レオンは考えながら口にした。


「覚えてるなら必要ないから、じゃない?」


 フィンが言う。


「それだけなら、こんな条件にする必要あるか? 普通に『忘れてたら見ろ』でいいだろ」


 フィンが黙る。


 エリシアも答えなかった。


 記憶がある状態で見てはいけない理由。


 それが何なのか、今の記録からは分からない。


「続きは?」


 エリシアが尋ねた。


 男は口を開いた。


「黒月三十日、夜――」


 そこで、これまでとは違う変化が起きた。


 壁を引っ掻いていた右手が完全に止まり、男の顔から僅かに残っていた表情が消える。


「どうした?」


 返事がない。


「記録の続きは?」


「……確認します」


 声が少し低くなった。


「勇者エリシア。魔王討伐後の記憶を保持していますか」


「してない」


「確認しました」


 男がエリシアを見た。


 その右目には、初めて怯えに近いものが浮かんでいた。


「黒月三十日、夜。勇者エリシア、文書庫を退館」


 レオンは無意識に息を浅くした。


「同日深夜、王城より緊急記録が到着」


 石室の奥で、水滴が一つ落ちる。


「記録内容――勇者エリシアの死亡を確認」


 誰も動かなかった。


 レオンは、隣に立っている白髪の少女を見た。


 同じ顔。


 同じ名前。


 百二十一年前に魔王を倒した勇者。


 そして、その勇者は文書庫を出た数時間後に死んだと、目の前の記録は告げている。


 エリシアは男を見つめたまま、静かに尋ねた。


「死因は?」


 男の唇が動く。


「記録されています」


「何?」


 その瞬間、上の階から大きな音が響いた。


 何か重いものが倒れたような音だった。続いて、クラリスの声が地下まで届く。


「勇者様?」


 声が震えている。


「どうして――」


 途中で途切れた。


 その直後、地下へ続く石段の上から、ゆっくりと足音が聞こえ始めた。


 一歩。


 また一歩。


 誰かが降りてくる。


 エリシアが剣を抜き、フィンも腰の短剣へ手を掛けた。レオンは二人より一歩後ろへ下がり、暗い階段の入口を見つめる。


 やがて上から、女の声がした。


「そこまで読んだのね」


 レオンは、その声を知っていた。


 ヴァルネで聞いた声だった。

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