第十七話 百二十一年遅れの手紙
「……エリシア」
閉ざされた扉の向こうから聞こえた女の声に、レオンは剣の柄へ手を掛けたまま動かなかった。聞き間違いではない。女は確かにエリシアの名を呼んだ。それも誰かを探している声ではなく、そこにいる相手へ話しかけるような静かな呼び方だった。
隣を見ると、エリシアも扉を見つめている。普段なら迷いなく前へ出る彼女が、今は剣へ手を掛けたまま足を止めていた。
「知ってる声?」
「……分からない」
「聞き覚えも?」
「ないと思う」
フィンは二人のやり取りを聞きながら錠の前へしゃがみ込み、古い金具を覗き込んだ。表面には錆が浮いているが、鍵穴の周囲には新しい擦り傷が残っている。百年以上放置されていた錠ではなく、少なくとも最近一度は誰かが開けている。
「受付まで戻って鍵を借りる?」
「第三保管室の前にいる時点で怒られるだろ」
「それもそうだね」
レオンは扉から少し距離を取った。中にいる相手の状態が分からない以上、不用意に近づくべきではない。鐘の道でフィンがどう変わったかを見たばかりでもあり、自我を失った死者が何に反応するのかも分からなかった。
「エリシア、開いたら前を頼む。フィンは後ろを見ててくれ。職員が来たらすぐ教えて」
「分かった」
「俺は退路担当か。重要人物だな」
「道を覚えてるのがお前だけだからな。迷ったら全員捕まるぞ」
「急に責任重大になった」
配置を決めると、エリシアが剣を抜いた。刃先を錠へ添え、狙いを確かめてから僅かに手首を動かす。硬い金属音が一度だけ廊下へ響き、二つに割れた錠が床へ落ちた。
「毎回思うけど、それ剣でやることじゃないよな」
「開いた」
「便利なのは認めるけどさ」
エリシアが落ちた錠を足先で避け、ゆっくり扉を押す。長く動かされていなかったような重い軋みとともに、古紙と黴、湿った石の匂いを含んだ冷気が流れ出してきた。入口から見える範囲には誰もおらず、灯りもない。
第三保管室は、第二閲覧室より遥かに広かった。天井近くまで届く書架が何列も並び、その間を人一人がようやく通れるほどの細い通路が伸びている。革張りの記録帳や木箱には分厚い埃が積もっている一方で、入口から奥へ続く床だけは細く汚れていた。誰かが最近ここを歩いている。
エリシアが壁際の燭台へ火を移すと、橙色の光が少しずつ棚の間へ広がった。紙束や箱の影が長く伸び、暗がりの中で人の形に見えては消えていく。さらに奥へ進んだところで、羽根ペンが紙を擦るような音が聞こえてきた。
カリ、カリ、と一定の速さで続いている。
棚の隙間から覗くと、小さな机に一人の女が座っていた。四十ほどに見える女で、黒に近い茶髪を後ろでまとめ、文書庫の職員らしい濃紺の服を着ている。右側の頭部は大きく陥没し、髪の間から割れた頭蓋と乾いた血が覗いているのに、本人は何事もないように羽根ペンを動かし続けていた。
「……エリシア」
女は振り返らないまま、もう一度その名を呼んだ。
「私を知ってる?」
エリシアの問いにペンが止まり、女がゆっくり顔を上げた。濁った灰色の瞳がエリシアを捉えると、死傷とは不釣り合いなほど穏やかな笑みが浮かぶ。
「もちろんです。先ほどまで、ここにいらしたではありませんか」
レオンは反射的に床へ目を向けた。最近ついた足跡と、開け直された形跡のある錠。女の言葉が正しければ、自分たちより前にエリシアと同じ姿をした誰かがここへ入っている。
「いつ?」
「黒月三十日です。夕刻には戻ると仰っていたでしょう」
魔王討伐の日から三日後。第二閲覧室で記録が途切れ、第三保管室が封じられたのと同じ日だった。レオンは距離を保ったまま女へ尋ねる。
「今年は何年?」
「王暦六百十四年ですが」
女は何を当たり前のことを聞くのかという顔をした。彼女の中では百二十一年前から時間がほとんど進んでいないらしい。
「名前を教えて」
「クラリス・エーヴァン。第三保管室の記録官です」
「クラリス。私はここで何をした?」
「記録をご覧になりました」
「何の記録?」
「記録をご覧になりました」
「何が書いてあった?」
「記録をご覧になりました」
声の高さも速さもほとんど変わらなかった。レオンがクラリスの手元を見ると、机の紙は同じ一行を何度もなぞったせいで黒く染まり、ところどころ破れている。何かを書いていたのではなく、同じ動作だけを繰り返していたのだ。
エリシアもそれ以上同じ質問をせず、少し間を置いてから尋ねた。
「リネアを覚えてる?」
クラリスの手が止まった。今までとは違い、羽根ペンの先から黒いインクが一滴だけ紙へ落ちる。
「……リネア様」
「ここへ来た?」
「はい」
「誰と?」
「勇者様と、ご一緒に」
エリシアの表情が僅かに揺れた。
「私と?」
「はい」
「他には?」
クラリスは答えようと口を開いたが、そこで表情が強張った。灰色の瞳が左右へ細かく動き、羽根ペンを握る指に力が入っていく。
「書いてはいけません」
「何を?」
「名前を。名前は書いてはいけない。残してはいけない。見つけられてはいけない」
「誰に言われた?」
「書いてはいけない。残してはいけない。見つけられてはいけない」
同じ言葉を繰り返しながら声だけが少しずつ速くなる。やがて乾いた音がして、握り締められた羽根ペンが真ん中から折れた。クラリスは指の間から落ちた木片を見ることもなく、黒く汚れた手を震わせている。
「名前を残したら、見つかる」
「何に?」
レオンが尋ねると、クラリスの目がこちらへ向いた。一瞬だけ胸の鼓動が強くなり、レオンは余計な反応を悟られないよう表情を変えずに待つ。
クラリスはやがて机へ視線を戻した。
「もう、見つかっています」
部屋の奥から水滴が落ちる音がした。誰もすぐには次の質問をせず、クラリスも再び黒くなった紙へ目を落としている。その静けさの中で、フィンが背負っていた革鞄を開いた。
「一つ確認したいんだけど、クラリス・エーヴァンで合ってるよね?」
「はい」
フィンは古い封筒を取り出し、燭台の灯りへ近づけた。宛先の大半は泥と年月で潰れているが、今聞いた名前を意識して見れば、残った文字の形が少しずつ繋がる。
「クラリス……エーヴァン。これ、この人宛てだ」
レオンも横から確認した。すべては読めないが、一致している部分が多い。裏返せば、そこには比較的はっきりと差出人の名が残っている。
『リネア』
クラリスは封筒をじっと見つめた。
「……遅かったですね」
フィンは珍しく笑わなかった。
「ごめん。俺が預かったのは最近なんだけど、長いこと途中で止まってたみたいだ」
「待っていました」
「どのくらい?」
「三日です」
誰も訂正しなかった。彼女にとっては本当に三日なのだろう。魔王が倒され、エリシアとリネアがここへ来た時から、百二十一年間ずっと同じ机に座り、同じ紙へペンを走らせながら、まだ三日目を生きている。
フィンは封筒を両手で持ち直し、クラリスへ向き直った。
「クラリス・エーヴァンさん。あなた宛ての手紙です。遅くなりました」
差し出された封筒を、クラリスが両手で受け取る。表を見て、裏返し、リネアの名を指先でなぞった。
「開けても?」
「あなたの手紙だからね。俺の仕事はここまで」
古くなった封蝋が乾いた音を立てて割れた。中に入っていた便箋は一枚だけで、クラリスは傷めないよう慎重に開いて文字を追っていく。途中でその目が止まり、長い間忘れていたものを見つけたように小さく呟いた。
「……そうでした。私は、これを待っていた」
クラリスが椅子から立ち上がると、床で金属が擦れた。そこで初めて、レオンは彼女の右足首に黒い鉄輪が嵌められていることに気づいた。そこから伸びる鎖は石床へ直接打ち込まれた金具に繋がり、鉄そのものは古く錆びているのに、付け根の埃には最近擦れたような跡が残っている。
「誰がそれを?」
エリシアが尋ねた。
クラリスは自分の足元を見つめ、まるで今初めて鎖の存在に気づいたように首を傾げる。
「分かりません」
「俺たちが来る前に、誰かここへ来た?」
レオンが尋ねる。
「勇者様が」
クラリスの返事に、三人の視線がエリシアへ集まった。
「どんな姿だった?」
「今と同じです」
「白い髪で、赤い目?」
「はい」
ヴァルネで見たリネアの姿が頭をよぎる。だがエリシアが「リネアだった?」と尋ねると、クラリスは迷わず首を横へ振った。
「違います」
「でも、私と同じ姿だった」
「はい」
「なら、誰?」
クラリスは答えず、目の前のエリシアをじっと見つめた。しばらくして困ったように眉を寄せる。
「同じでした。でも、違いました」
それ以上は言葉にできないらしい。リネアなら姿を変えられることは分かっている。それなのに、クラリスが正しく見分けているのなら、別の誰かがエリシアの顔でここへ来たことになる。
「手紙を見せて」
エリシアが言うと、クラリスは便箋を素直に差し出した。紙の中央は湿気で文字が滲み、完全に読めない箇所も多い。それでも『記録を残します』『名前は消してください』『第三』『勇者様には』といった断片だけは残っていた。
レオンも隣から文字を追う。最後の数行だけは比較的状態がよく、そこでエリシアの指が止まった。
『勇者様が、魔王討伐後のことを覚えているなら、この先を見せないでください。もし覚えていないのなら、第三記録を渡してください。』
レオンはもう一度読み直した。リネアはこの手紙を書いた時点で、エリシアが魔王討伐後の記憶を失う可能性を考えていたことになる。
「これ、今のエリシアに渡すために書かれたみたいじゃないか」
「……うん」
エリシアは否定しなかった。顔にはほとんど変化がないが、便箋の端を持つ指だけが僅かに強張っている。
「第三記録って?」
フィンがクラリスへ尋ねる。
その言葉を聞いた途端、クラリスは机から離れようとした。鎖が床を擦り、数歩進んだところで足を止められる。
「お渡ししなければ」
「どこにある?」
「棚の後ろです」
クラリスが指したのは、部屋の奥にある古い書架だった。一見すると他の棚と変わらないが、近づいてみると床の埃に半円状の筋が残っている。エリシアとフィンが左右から手を掛けて引くと、重い木材が低く軋みながら動き、その背後から冷たい空気が流れ出した。
壁ではなかった。
人一人が通れるほどの狭い入口があり、その先に石段が地下へ続いている。燭台を近づけても途中から先は闇に沈み、湿った土と石、それに錆びた金属のような匂いが上がってきた。
フィンが階段へ足を掛けようとしたところで、レオンは腕を伸ばした。
「待て。何か聞こえる」
三人が黙ると、地下から小さな音が聞こえてきた。最初は水滴かと思ったが違う。硬い何かが石の表面をゆっくり引っ掻き、しばらく止まってから、また同じ音を立てている。
カリ、カリ。
「第三記録って、紙なのか?」
レオンが振り返る。
クラリスは鎖の届くぎりぎりの場所から、暗い階段を見つめていた。
「記録です」
「本?」
返事はない。
地下から、再び石を引っ掻く音が聞こえた。
クラリスはその音を聞きながら、静かに呟く。
「まだ、動いているのですね」
その言葉が終わると同時に、地下の音が止んだ。
静かになったはずなのに、レオンはさっきより強く剣の柄を握った。暗闇の奥で何かがこちらの存在に気づき、動くのをやめたように感じたからだ。
数秒後、石段の下から、誰かがゆっくり息を吸うような音が聞こえた。




