第十六話 第三保管室
石橋を渡り終える頃には、谷の底まで夕闇が降り始めていた。旧王立文書庫は近づくほど建物というより巨大な墓に見え、断崖そのものを削って造られた灰色の壁には細長い窓が等間隔に並んでいる。そのほとんどに灯りはなく、正面玄関だけが薄い橙色に照らされていた。
「本当にまだ使ってるのか?」
レオンが声を落とすと、フィンが背負った革鞄を軽く叩いた。
「さっきの爺さんは人がいるって言ってただろ。俺としては受取人が残ってれば何でもいいよ。五十年分まとめて謝る準備もできてる」
「謝って済む遅れじゃないだろ」
「そこは死人同士、時間感覚の違いで押し切る」
「お前、配達に誇りがあるのかないのか分からないな」
二人が話している間も、エリシアは文書庫を見上げていた。鐘の道で見せた恐怖とは少し違う。入ること自体を怖がっているのではなく、この中で何かを知ってしまうことを警戒しているように見える。
「エリシア、行ける?」
「うん」
短い返事を確かめ、三人は巨大な鉄扉へ近づいた。王冠と開かれた本を組み合わせた紋章が中央に刻まれており、錆びた取っ手へフィンが手を伸ばそうとしたところで、内側から重い金属音が響いた。
錠が外れた。
続いて、誰も触れていない扉がゆっくりと内側へ開いていく。
「……こういうの、本当にやめてほしいな」
「何が?」
「誰もいないのに勝手に開く扉」
「中にいる」
「見えないところにいる方が怖いんだよ」
扉の向こうには石造りの長い廊下が伸びていた。壁には一定間隔で蝋燭が灯されているが、外の風が届かないせいか、炎はほとんど揺れていない。三人が中へ入ると背後で扉がゆっくり閉まり、乾いた紙や古い革、蝋と僅かな黴の匂いが鼻へ入り込んできた。
図書館に似ている、とレオンは思った。ただ、何かが決定的に足りない。
廊下を抜けた先には、天井の高い巨大な広間があった。壁一面を埋める書架は三階ほどの高さまで続き、その間を細い階段と渡り廊下が繋いでいる。中央には十数台の長机が並び、何人もの男女がそこで本を開いていた。
最初は利用者だと思った。しかし見ているうちに、全員が同じような作業を繰り返していることに気づく。紙を読み、必要な部分を書き写し、本を閉じて棚へ戻す。別の本を持ってきて、また最初から始める。
誰も喋らない。
十人以上いるというのに、聞こえるのは羽根ペンが紙を擦る音と、本を閉じる時の小さな音だけだった。咳払いもなければ、椅子に座り直す時の息もない。人がこれだけ集まっているのに、呼吸音が一つも存在しない。
代わりに、レオン自身の息だけが妙にはっきり聞こえた。
息を浅くすると、今度は胸の奥で鼓動が鳴っていることに気づく。フィンもエリシアも、何の音も立てずに隣を歩いている。分かっていたはずなのに、この静けさの中では自分だけが生きていることを大声で叫んでいるような気分になった。
「レオン?」
エリシアが小さく呼んだ。
「大丈夫。ちょっと静かすぎるだけ」
レオンはできるだけ普通に答え、呼吸を整えた。フィンにはまだ正体を知られたくない。ましてここには、広間だけでも十人以上の死者がいる。不用意に近づいたり、汗をかいたり、息を乱したりするのは避けた方がいい。
広間の奥には受付らしい高い机があり、その向こうで老人が帳簿へ文字を書いていた。頭髪はほとんどなく、丸い眼鏡を掛けている。左のこめかみから耳の後ろにかけて頭蓋の一部が大きく欠けていたが、老人はそんな傷など存在しないように羽根ペンを動かし続けていた。
三人が机の前へ立つと、顔を上げるより先に声が飛んでくる。
「所属」
「いきなり?」
フィンが聞き返すと、老人はようやく顔を上げた。
「利用者記録だ。所属、氏名、閲覧目的。その順で答えろ」
「フィン・ハーゼル。元北方郵便局、今は自由配達。目的は配達」
「自由配達という所属は存在しない」
「今作った」
「書かない」
「厳しいなあ」
老人はフィンを無視してエリシアを見る。
「氏名」
「エリシア」
そこで羽根ペンの動きが一瞬だけ止まった。
「姓」
「ない」
「所属」
「ない」
「閲覧目的」
「戦争末期の記録」
老人はそれ以上何も聞かず、今度はレオンへ視線を移した。机を挟んでいるとはいえ、距離は二歩ほどしかない。鐘の後のフィンほど感覚が鋭いとは思わないが、レオンは外套の前を閉じたまま、自然に見える範囲で呼吸を抑えた。
「レオン。所属なし。目的は同じく戦争末期の記録です」
「姓」
「覚えてない」
「覚えていない?」
「はい」
老人は眼鏡越しに数秒こちらを見た。心臓が妙に大きく鳴っている気がしたが、やがて老人は何事もなかったように帳簿へ視線を戻した。
「珍しくない」
それだけだった。
レオンが内心で息を吐いたところで、エリシアが尋ねる。
「第三保管室へ行きたい」
今度は、老人の手が完全に止まった。
「第三保管室は閲覧停止中だ」
「いつから?」
「記録上は百二十一年前」
フィンが眉を上げる。
「随分長い停止だな。理由は?」
「記載されていない。停止命令も解除されていない」
「でも、第三保管室宛ての手紙がある」
フィンが革鞄から例の封筒を取り出すと、老人の目が初めて明確に動いた。
「受取人は?」
「読めない。宛先は第三保管室で間違いない」
「差出人」
「リネア」
老人の表情は変わらなかった。ただ、羽根ペンを持つ指だけが止まる。
「その名の職員記録はない」
「職員じゃない」
エリシアが答える。
「では何者だ」
「それを知りたいから来た」
二人の視線がぶつかった。広間では相変わらず羽根ペンが紙を擦り、本が閉じられている。周囲の誰一人、こちらへ顔を向けない。
やがて老人は机の下から一枚の木札を取り出した。
「第三保管室への申請は却下する。戦時記録を調べたいなら第二閲覧室を使え」
「手紙は?」
「第三保管室へは届けられない」
「受取人がいたとしても?」
「規則だ」
フィンは何か言い返しかけたが、レオンが肘で止めた。ここで揉めても意味はない。
◇
第二閲覧室は広間の奥にある細長い部屋だった。窓はなく、壁を埋める書架と天井から吊るされた蝋燭だけがある。職員が運んできた戦争末期の資料は十冊以上あり、王都、北方戦線、魔王討伐軍などの分類ごとに机へ積まれていた。
「どこから見る?」
レオンが尋ねると、エリシアは迷わず一冊を取った。
『魔王討伐作戦・終結報告』
三人で机を囲み、頁をめくっていく。最初はどの部隊がどこへ進軍したか、何人が戦死したか、補給路がどこで途切れたかという報告が延々と続いていた。何千人が死んだという記録でさえ、倉庫の在庫と変わらない調子で書かれている。
やがて魔王討伐の日付へ辿り着いた。
『王暦六百十四年、黒月二十七日。勇者隊、魔王討伐を確認』
その下には勇者隊の構成員が並んでいる。エリシアの名もあった。しかし、いくら目を走らせてもリネアの名前は見つからない。
「ここにもない」
レオンが呟くと、エリシアが紙へ顔を近づけた。
「削られてない」
「最初から?」
「うん」
ヴァルネで見つけた古い資料には、明らかに一行を削った跡があった。だがこの記録には傷一つない。最初からリネアという人物が存在しなかった形で作られている。
エリシアが無言で次の頁をめくった。
討伐翌日。その次の日。そして三日後。
そこだけ、それまで細かく続いていた記録が突然一行になる。
『第三保管室へ移送。以降の記録は封印指定とする』
「何を移送したんだ?」
レオンは前後を確かめた。本来なら資料名や数量、移送責任者などが記されていそうな欄があるが、何も書かれていない。何を運んだのかも、どれだけ運んだのかも分からず、ただ第三保管室へ移したという事実だけが残っている。
「これ、記録として変じゃない?」
フィンも身を乗り出した。
「荷物なら最低でも数くらい書くだろ。俺でも書くぞ」
「それは説得力あるのかないのか微妙だな」
「失礼だな」
レオンの視線が、一番下の署名欄で止まった。
「……ここ」
名前が消えている。
時間で薄れたのではない。紙の表面だけが荒れ、細かな繊維が毛羽立っている。誰かが意図的に削った跡だった。
「また名前だけ」
フィンが声を潜める。
「リネア?」
「分からない」
レオンはそう答えながらエリシアを見る。
彼女は署名ではなく、日付を見ていた。
「この日……」
「どうした?」
「覚えてない」
エリシアの指が、魔王討伐から三日後の日付の上で止まる。
「全然?」
「魔王を倒したところまでは覚えてる。その次の日も少し。でも、ここまで来ると何もない」
彼女は目を閉じた。
「朝だった気がする。誰かと話した。それだけ」
「誰と?」
「分からない」
「何を話した?」
エリシアはゆっくり首を横へ振った。
レオンはそれ以上聞かなかった。無理に掘り返しても、思い出せないものを苦しませるだけだ。
目の前には、魔王討伐から三日後に突然封じられた記録がある。その保管先が、今も百年以上閉ざされている第三保管室だった。
◇
「行くしかないね」
フィンが声を落とした。
「第三保管室?」
「他にある?」
「受付で止められたばっかりだぞ」
「じゃあ正面から行かなきゃいい」
「配達人って不法侵入も業務に入ってるのか?」
「届けるためなら多少は」
「絶対入ってない」
エリシアは二人のやり取りを聞きながら資料を閉じた。
「私も行く」
「だろうな」
レオンも帰るつもりはなかった。
閲覧室を出ると、文書庫の中はさらに暗くなっていた。窓がほとんどないため外が夜になったのかも分かりにくいが、広間を歩く職員の数は減っている。それでも、残った死者たちは昼と変わらない様子で本を運び続けていた。
疲れない。
眠らない。
時間が来ても帰らない。
仕事をする必要があるから働いているのではなく、かつて自分がしていたことを、今も続けているだけなのかもしれない。
そう思った途端、広間の光景が違って見えた。
百年以上前に死んだ人間たちが、何百冊もの記録に囲まれながら、終わる理由のない仕事を繰り返している。誰も雑談をせず、誰も欠伸をせず、腹が減ったとも言わない。
紙をめくる音だけが、死んだ建物の中で続いている。
「……行こう」
レオンは無意識に声を小さくした。
フィンの記憶を頼りに広間を避け、建物の脇へ続く通路へ入る。昔は郵便物や資料を運ぶために使われていたらしく、表側より狭く、蝋燭の数も少ない。湿った石壁へ三人の足音が反響するたび、誰かが後ろから同じ歩調でついてくるように聞こえた。
「こっちだったと思う」
「五十年前の記憶だろ?」
「もっと前かもしれない」
「急に不安になってきた」
「道は身体が覚えてるもんだよ」
その言葉に、レオンは僅かに表情を曇らせた。
身体が覚えている。
ダリオの記憶が残っている自分には、今あまり聞きたくない言葉だった。
それから二度角を曲がった先で、廊下が行き止まりになった。奥には古い木製の扉が一枚あり、その横の石壁には薄れた文字が残っている。
『第三保管区域』
「当たり」
フィンが小さく笑った。
扉には金属製の錠が掛けられていた。エリシアが手を伸ばして確かめる。
「壊せる」
「壊すなよ。さすがに音でバレる」
「じゃあどうする?」
「そこを考えるんだよ」
レオンが扉へ近づいた時、足元の埃に気づいた。
「待って」
長い間使われていない廊下らしく、床には薄く灰色の埃が積もっている。しかし扉の前だけ、その表面が乱れていた。靴底の跡がいくつか残り、扉のすぐ下には埃のない細い線まである。
「これ、最近開いてる」
フィンもしゃがみ込む。
「そう見えるな。少なくとも百年放置された跡じゃない」
「誰かが中に入った?」
「あるいは、今も使ってる」
レオンは扉を見上げた。
閲覧停止から百二十一年。職員には入れないと言われた場所。その前に、消された署名と最近ついた足跡がある。
嫌な感覚が腹の奥へ沈んだ。
「エリシア、下がって――」
言い終わる前に、扉の向こうから音がした。
コン、と木を叩く乾いた音だった。
三人とも動きを止める。フィンの笑みが消え、エリシアの手がゆっくり剣の柄へ移った。
しばらく待っても何も起きない。
「……今の、中からだよな?」
フィンが囁く。
「多分」
レオンも声を抑える。
再び音がした。
今度は二度。
コン、コン。
誰かが扉を叩いている。
レオンは剣の柄へ手を掛けながら、一歩だけ後ろへ下がった。閉ざされた第三保管室の中に誰かがいる。それだけでも十分おかしいのに、扉の向こうから聞こえてくる音には、こちらが来るのを待っていたような妙な間があった。
そして三度目の音が響いた直後、女の声が扉越しに聞こえた。
「……エリシア」




