第十五話 鐘の道
六度目の鐘が消えてからも、三人はしばらく無言で歩いていた。
森の中には鳥の声が戻り始めていたが、レオンにはその明るい鳴き声さえどこか遠く感じられた。後ろでは、裸足の男が今も同じ道を往復しているはずだ。振り返らなくても、湿った土を踏む一定の足音が耳の奥に残っている。
隣を歩くフィンは、時々首筋へ手をやっていた。普段は薄い線にしか見えない傷を確かめているらしい。
「そんなに触ると開くぞ」
レオンが言うと、フィンは顔をしかめた。
「縁起でもないこと言うなよ。さっき本当に開いてた気がするんだから」
「気がする?」
「記憶が曖昧なんだよ。鐘が三つくらい鳴った辺りから、頭に霧がかかったみたいでさ」
レオンは表情を変えないようにした。
「どこまで覚えてる?」
「手紙を届けなきゃって考えてた。それから……何か近くに、妙に温かいものがあったような」
やはり残っている。
レオンは喉の奥が乾くのを感じたが、水袋には手を伸ばさなかった。フィンの前で水を飲む必要はないし、今は呼吸が乱れるような歩き方も避けたかった。
「鐘のせいだろ」
「エリシアにもそう言われたけどな」
フィンは前を歩く彼女を見る。
「二人とも、何か隠してない?」
「会った翌日に全部話すほど仲良くなった覚えはないな」
「冷たいねえ」
「死人に言われたくない」
「それは上手い」
フィンが笑った。
いつもの調子に戻っている。そのことには安心したが、だからといって警戒を解く気にはなれなかった。
五度目の鐘が鳴った時、フィンは確かにレオンの鼓動を聞いた。体温にも気づいた。六度目で自我が戻ったからといって、その経験まで完全に消えた保証はない。
少なくとも、しばらくは気をつけた方がいい。
レオンがそんなことを考えていると、前を歩くエリシアが立ち止まった。
「道、分かれてる」
木々の間で、旧街道が二方向へ分岐していた。
右は北東へ続いているものの、倒木と背の高い草に半分埋もれている。左は坂を緩やかに下り、森のさらに奥へ消えていた。分岐の中央には、先ほど見たものと同じ石柱が立っている。
「地図だと?」
レオンが尋ねると、フィンは古い郵便路の地図を広げた。
「第三街道は左。ただ……」
「ただ?」
「昔はここに小屋があった」
フィンが地図の一点を指す。
「道守りの詰所。馬車が壊れた時の工具とか、水とか置いてた場所だよ」
レオンは左の道を見る。
木々の向こうに、屋根らしき黒い影が僅かに見えた。
「まだあるみたいだな」
「珍しいね。とっくに潰れてると思ってた」
三人は左へ進んだ。
◇
小屋は、森に呑まれかけていた。
石造りの壁は苔に覆われ、屋根の半分には枝が積もっている。それでも煙突からは細い煙が上がり、入口の前には割ったばかりらしい薪が積まれていた。
「誰かいる」
レオンが声を落とす。
「見れば分かるって」
「お前はもう少し警戒しろ」
「鐘の後から急に慎重になったなあ」
お前のせいでもある、とは言わなかった。
フィンが扉を叩く。
「すみませーん。旅人です」
返事はない。
もう一度叩こうとしたところで、内側から錠が外れる音がした。
扉を開けたのは、背の低い老人だった。
髪はほとんど白く、左目は濁っている。厚手の古い上着を着ているが、袖口から覗く腕には乾いた傷がいくつも残っていた。
「騒ぐな。聞こえてる」
低く掠れた声だった。
「道を通りたいだけです」
フィンが答える。
老人は三人を順番に見ると、最後に北の方へ目を向けた。
「鐘は?」
「さっき六回」
その一言で、老人の顔が僅かに険しくなった。
「なら、今のうちに抜けろ」
「この先も鳴るんですか?」
レオンが尋ねる。
「知るか」
老人はぶっきらぼうに答えた。
「鳴る日は鳴る。鳴らん日は何年でも鳴らん。道守りだった連中も、理由までは知らなかった」
「だった?」
「ここが現役だった頃の話だ」
老人は開いた扉にもたれた。
フィンが石柱について尋ねる。
「あの鐘みたいな印、昔からありました?」
「俺が子供の頃にはもう古かった。爺さんの爺さんでも、誰が彫ったか知らなかったそうだ」
レオンとエリシアが目を合わせる。
滅鐘教団より古い。
少なくとも、今まで見てきた教団がこの道を作ったとは考えにくい。
「昔の人は、あの鐘を何だと思ってたんです?」
「知らん」
「本当に何も?」
「若いのはすぐ答えを欲しがるな」
老人の濁った左目がレオンを見た。
「分からんものを分からんまま残すのも、長く生きるには必要だ」
言葉遣いは老いているが、ハルヴァンとは違う。こちらは人に教える気がほとんどなく、必要なことだけ話す人間らしい。
老人は小屋の壁を指した。
「ただ、一つだけ昔から決まりがある」
石壁には、何本もの傷が刻まれていた。
三本。
四本。
六本。
その横に、かすれた文字が残っている。
『鐘の鳴る道に留まるな』
「さっきの石柱にも似たことが書いてあった」
「読めたなら守れ。道は歩くためのもんだ。鐘を数えるために座り込む場所じゃない」
「六回鳴った後は?」
「静かになることが多い」
「多い?」
「必ずとは言ってない」
老人はそこで話を切り、扉を閉じようとした。
「待って」
エリシアが初めて口を開いた。
「この道の先に、旧王立文書庫がある?」
老人の手が止まった。
「ある」
「まだ入れる?」
「建物は残ってる。人もいる」
「人?」
「死人だがな」
老人は鼻を鳴らした。
「記録を守るしか能のない連中が、今でも棚と睨み合ってる。第三街道をそのまま下れば谷へ出る。迷わなければ、日が落ちる前には見える」
「ありがとう」
「礼はいらん。鐘がまた鳴る前に行け」
扉が閉じた。
フィンがしばらく小屋を見つめる。
「愛想悪いなあ」
「お前が愛想良すぎるだけじゃない?」
「比較すると俺の人当たりの良さが際立つね」
「自分で言うな」
会話をしながらも、レオンは壁に刻まれていた言葉を考えていた。
鐘の鳴る道に留まるな。
誰が作ったのか分からない。
何のためなのかも分からない。
それなのに、昔から人は鐘を避ける方法だけは知っていた。
知識というより、災害への備えに近い。
その事実が、レオンには妙に不気味だった。
◇
小屋を離れてから、街道は緩やかに下り始めた。
森の木々も少しずつ変わり、太い針葉樹が増えている。頭上を覆う枝の隙間から西日が差し込み、道の片側だけを赤く染めていた。
しばらく歩いたところで、フィンが不意に革鞄を開いた。
「そういえば、さっきの鐘で忘れるところだった」
例の手紙を取り出す。
「歩きながら出すなよ。落としたらどうする」
「レオン、俺よりこの手紙に厳しくなってない?」
「五十年どころじゃなく届かなくなるぞ」
「それは困る」
フィンは封筒を夕日にかざした。
「昨日、宛先の泥を取った時に気づかなかったんだけど、裏にも文字がある」
「封蝋の方?」
「その横」
レオンとエリシアも足を止めた。
古びた紙の裏側。剣と翼の封蝋から少し離れた場所に、薄く文字が残っている。
インクの大半は消えていた。
それでも、名前だけは読めた。
『リネア』
レオンは思わずフィンを見る。
「これ、差出人?」
「普通なら書く場所はそこ」
フィンの声からも冗談が消えている。
「姓は潰れてる。でも名前はリネアで間違いないと思う」
エリシアが手紙へ一歩近づいた。
「見せて」
「触らないなら」
「見るだけ」
フィンが封筒を向ける。
エリシアは長い時間、名前を見つめていた。
「リネアの字?」
レオンが尋ねる。
「……似てる」
「本人が書いた?」
「分からない。でも、この書き方は覚えてる」
名前の最後の一文字が、少しだけ跳ねている。
そんな細かな癖まで覚えているのに。
「じゃあ、リネアは本当に勇者一行の一員だった。それも、この文書庫へ何か送ってた」
ヴァルネの公式記録では、彼女の名前は削り取られていた。
後から作られた写しには、最初からその一行すら存在しない。
ところが、誰にも回収されなかった一通の手紙には名前が残っていた。
歴史から消された本人の筆跡が。
「中身、気になる?」
フィンが尋ねる。
「死ぬほど」
「死んでないけど?」
レオンは一瞬言葉に詰まり、すぐに顔をしかめた。
「言葉のあやだよ」
「そう?」
「そうだ」
危ない。
今のフィンを相手に、生死に関する言葉へ余計な反応を見せるべきではない。
フィンは気にした様子もなく手紙を鞄へ戻した。
「でも開けないよ」
「分かってる」
「えらい。学習したな」
「お前の手紙じゃないんだろ」
「だからこそだよ」
その言葉だけは、妙に真面目だった。
◇
再び歩き始めてからも、エリシアはほとんど話さなかった。
普段から口数は少ない。
それでも今日は違う。
視線が道ではなく、自分の記憶の中へ向いているように見えた。
「エリシア」
「何?」
「リネアの手紙、覚えてない?」
「覚えてない」
「文書庫へ何か送ったことも?」
「分からない」
レオンは少し迷った。
ヴァルネの記録庁で古い記録を見た時、エリシアは「魔王を倒した時には」と言いかけ、その先を話さなかった。
文書庫へ行こうと決めた時も、彼女は「確認したいことがある」としか言わなかった。
今なら聞いてもいい気がした。
「そういえば、記録庁でも何か言いかけてたよな。魔王を倒した時には、って」
エリシアの歩みが僅かに遅くなる。
「うん」
「何を確認したかった?」
返事はない。
レオンは急かさなかった。
道には夕方の光が細く伸び、三人の影を長く引いている。先を歩いていたフィンは、二人の会話を聞いていないふりをして少し距離を開けた。
やがてエリシアが口を開いた。
「記憶と、記録」
「比べたいってこと?」
「うん」
「何で?」
彼女は一度目を伏せた。
「魔王を倒した後のことを、全部覚えてないから」
レオンは足を止めた。
「……全部?」
「全部じゃない」
エリシアも立ち止まる。
「覚えてることはある。でも、抜けてる」
「どのくらい?」
「分からない」
「期間が?」
「それも」
レオンはすぐには言葉を返せなかった。
魔王を倒した。
その直後に世界は滅びた。
この物語の中心にある時間だ。
そこを、エリシア自身が覚えていない。
「だからヴァルネの記録を見た時、変だったのか」
「うん」
「リネアの名前が消されてたことも?」
「私は、リネアがいたことは覚えてる。でも、そのあと何があったのかが曖昧」
「魔王を倒す前までは?」
「覚えてる」
「倒した後から?」
エリシアは小さく頷いた。
胸の奥に、嫌なものが沈んでいく。
あまりに都合が良すぎる。
世界が滅びた時期と、エリシアの記憶が欠けた時期が重なっている。
「何で今まで言わなかった?」
責めるつもりはなかった。
それでも声には少し強さが出た。
エリシアはすぐに答えなかった。
「大事だから」
「大事だから?」
「言いたくなかった」
レオンは意味を掴めず、彼女を見る。
「逆じゃないか?」
「自分でも分からないことを話したら、それが答えみたいになるから」
エリシアは言葉を選びながら続けた。
「レオンに、間違ったことを覚えてほしくなかった」
いつもの短い受け答えより、ずっと長い。
それだけ慎重に話していることが分かった。
「それに」
エリシアの声が僅かに小さくなる。
「思い出すのが、怖かった」
レオンは何も言えなくなった。
エリシアが「怖い」と口にしたのは、ほとんど初めてだった。
ロウの鐘。
リネア。
ヴァルネの削られた記録。
六度目の鐘の前に浮かび上がった、彼女自身の死の傷。
これまで別々に見えていたものが、一つの時期へ集まり始めている。
「……分かった」
それだけ答える。
「聞かないの?」
「聞いてるだろ」
「もっと」
「聞いても分からないんだろ?」
「うん」
「じゃあ、文書庫で確かめよう」
エリシアがレオンを見る。
「記録が正しいとも限らないけど、少なくとも今ここで考えてるよりは材料が増える」
「……うん」
「それに、リネアの手紙もある」
少し先からフィンの声が飛んできた。
「開けないからな!」
「聞こえてたのかよ!」
「配達人は耳がいいんだ!」
レオンは思わず笑った。
エリシアの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
夕方が深くなり始めた頃、森の終わりが見えた。
木々の間から差す光が急に強くなり、風にも湿った土とは違う冷たさが混じる。道を抜けた三人の前に、深い谷が広がっていた。
「……あれか」
レオンは足を止める。
谷の向こう側に、巨大な石造りの建物があった。
建っている、という表現では少し違う。
灰色の断崖を削り、その中へ建物を埋め込んだような造りをしている。高い壁には細長い窓がいくつも並び、谷底から見上げれば砦にも墓にも見えそうだった。
建物へ続く石橋が、谷を横切っている。
橋の手前には二本の石柱が立ち、その上に王冠と開かれた本を組み合わせた古い紋章が残っていた。
「旧王立文書庫」
フィンが地図を畳む。
「ちゃんと残ってたな」
「疑ってたの?」
「五十年も経てば建物くらい消えることあるだろ」
「目的地に着いてから言うなよ」
谷には夕暮れの影が落ち始めている。
その一方で、断崖の上だけはまだ西日を受け、赤く光っていた。空を鳥の群れが横切り、その影が文書庫の壁を流れていく。
レオンは建物を見上げた。
あの中に、ヴァルネから消されたリネアの名前が残っているかもしれない。
魔王が倒された後に何が起きたのか。
エリシアが何を忘れているのか。
そして、世界が死んだ理由へ繋がる何かが。
「行こう」
エリシアが言った。
レオンは頷いた。
三人が石橋へ足を踏み出した時、フィンの鞄の中で、古い手紙が小さく擦れる音を立てた。
長い間届かなかったそれを待っているものが、まだ向こう側にいるのか。
今のレオンには分からなかった。




