第十四話 六度目の鐘・後編
ゴォォォン――。
今までの鐘より、音が近い。
違う。
近いのではない。
身体の内側で鳴っている。
レオンは一瞬そう錯覚した。
フィンの喉の傷がさらに深く見えるようになり、肌の色も急速に死人らしい青白さへ変わっていく。だが、それより先にレオンの目を奪ったのはエリシアだった。
「エリシア……?」
白い服の胸元へ、黒い染みが浮かんでいる。
古い血。
一本ではない。
胸から腹にかけて、何かに深く切り裂かれたような傷が現れていた。
肌も普段より白い。
赤い瞳の下には、死人のような薄い影が落ちている。
ロウで見た死者たちと同じだった。
「その傷……」
「見ないで」
エリシアが言った。
声はいつもより僅かに弱い。
「でも――」
「今はフィンを見る」
言われて視線を戻す。
フィンはもう革鞄を見ていなかった。
レオンを見ている。
真っ直ぐ。
さっきまでとは違う目だった。
「……何だ?」
レオンは距離を取る。
足を一歩後ろへ。
それを見てフィンも一歩進んだ。
「フィン?」
返事はない。
鼻が動く。
「……匂い」
レオンの背中を冷たいものが走った。
来た。
ロウと同じ段階。
死者の意識より、本能の方が前に出ている。
「エリシア」
「離れて」
「分かってる」
ゆっくり下がる。
走らない。
走れば体温が上がる。
息も荒くなる。
汗も増える。
何より鼓動が速くなる。
分かっているのに、フィンが一歩近づくたび心臓は勝手に速くなった。
「落ち着け……」
小さく自分へ言い聞かせる。
「息を浅く」
エリシアが言う。
彼女自身も苦しそうだった。
「聞こえてる?」
「何が?」
「心臓」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「さっきより大きい」
レオンの顔から血の気が引く。
死者の聴覚が強くなっている。
フィンだけではない。
エリシアにも聞こえている。
「それ、どうやって隠すんだよ」
「分からない」
「だよな!」
声を上げたせいで呼吸が増える。
失敗した。
口を閉じる。
フィンがさらに近づいた。
「温かい……」
声は掠れている。
レオンは剣を抜かなかった。
今のフィンは敵ではない。
だが、襲われたらどうする。
押さえ込む?
斬る?
逃げる?
頭の中で選択肢がぶつかる。
「エリシア、フィンを止められる?」
「やる」
彼女が間へ入る。
フィンはエリシアを見る。
一瞬だけ動きが止まった。
だが、すぐにその肩越しからレオンを覗き込む。
「何で……」
声が低い。
「何でレオンだけ……」
レオンは答えない。
「温かいな」
フィンが呟いた。
エリシアの手が剣へ伸びる。
「フィン」
「何で……レオンだけ温かい?」
心臓が跳ねた。
レオンは表情を崩さないよう必死だった。
「知らないよ」
できるだけ軽く返す。
「鐘のせいじゃないのか?」
「違う」
フィンは首を振る。
「音がする」
「何の?」
「中で……ずっと」
レオンの胸を見る。
「どく、どくって」
完全に鼓動を捉えられている。
隠しようがない。
「フィン、見ないで」
エリシアが彼の視界を遮った。
「レオンから離れて」
「でも、あったかい」
「分かってる」
その言葉に今度はレオンがぎょっとした。
「エリシア?」
彼女の肩が僅かに揺れた。
フィンだけではない。
エリシアにも鐘の影響が出ている。
赤い瞳が、一瞬だけレオンの首元へ向く。
「エリシア」
名前を呼ぶ。
彼女の目が戻る。
「私は分かる」
「何が?」
「私が誰か」
息をする必要のないはずの彼女が、苦しそうに一度口を閉じた。
「まだ分かるから、大丈夫」
レオンは答えられなかった。
大丈夫には見えない。
フィンがエリシアの肩を避けようとする。
レオンはさらに距離を取った。
背後に木の幹が近づく。
逃げ道がなくなる前に横へ移る。
走らず。
呼吸を抑え。
胸の鼓動をどうにか落ち着かせようとする。
だが、自分の意思で止められるものではない。
「頼むから……早く六回目、来いよ」
初めて鐘を待った。
◇
時間の感覚がなくなった。
一分だったのか。
五分だったのか。
フィンはエリシアに押さえられながら、それでも何度もレオンへ手を伸ばそうとした。
「温かい」
同じ言葉。
「何で」
繰り返す。
裸足の男も往復をやめていた。
道の端に立ち、こちらを見ている。
その顔からはほとんど人らしい表情が消えている。
「……いる」
男が呟いた。
「生き――」
レオンの身体が強張った。
「エリシア、あいつも気づいてる!」
「分かってる」
今度は二人。
もしここへさらに死者が現れたら。
レオンは腰の剣へ手を置いた。
抜くしかないかもしれない。
フィンまで。
そう考えた瞬間、胃の奥が冷たくなる。
昨日知り合ったばかりだ。
仲間ですらない。
それでも、剣を向けたい相手ではなかった。
「フィン」
返事はない。
「頼むから戻ってこい」
自分でも無意味だと分かっていながら言う。
「その手紙、届けるんだろ」
フィンの動きが一瞬だけ止まった。
赤く濁ったように見える目が、僅かに揺れる。
「……手紙」
「そうだよ。第三保管室」
「届け……」
ほんの少し自我が戻る。
しかし、それだけだった。
次の瞬間にはまたレオンへ顔を向ける。
その時。
六度目の鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
音が森全体を包んだ。
レオンは身構えた。
何かが来ると思った。
だが、起きたのは逆だった。
フィンの身体から力が抜ける。
首の深い傷が、ゆっくり薄れていく。完全に消えたわけではないが、最初に見た古傷程度まで戻った。
エリシアの胸元の黒い染みも消えていく。
肌の色。
表情。
目。
少しずつ、いつもの彼女へ戻る。
裸足の男だけは違った。
数歩ふらついたあと、また北へ歩き始める。
「北へ……危ない……戻れ……」
何も変わらない。
レオンはそれを見る余裕もなく、まずエリシアへ駆け寄った。
「エリシア」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
反射的に手首を掴む。
いつもの冷たさ。
その感触に、胸の奥の緊張が一気にほどけた。
「……戻ってる」
「うん」
「よかった」
言ったあと、すぐにフィンの存在を思い出して手を離した。
振り返る。
フィンは道の上に座り込み、額を押さえていた。
「……気持ち悪い」
「大丈夫か?」
「分からん。頭ん中を誰かに引っ掻き回された感じ」
声はいつものフィンだった。
レオンは距離を保ったまま様子を見る。
「覚えてる?」
「何を?」
心臓が一度強く鳴った。
「鐘が鳴った後」
フィンは眉を寄せる。
「手紙のことばっかり考えてた気がする。あと……何か変な夢みたいな」
「どんな?」
「寒いのに、近くに火があるような……」
フィンがレオンを見る。
レオンはできるだけ表情を変えなかった。
「鐘のせいだろ」
先に言う。
「エリシアも変だった。見え方も感覚もおかしくなってた」
嘘ではない。
ただ、全部は言っていない。
エリシアがすぐに続けた。
「鐘の間に感じたことは、信用しない方がいい」
「そうなの?」
「うん」
フィンはしばらく二人を見比べたあと、肩を竦めた。
「じゃあ、そうする。何か俺、変なこと言った?」
「かなり」
「どんな?」
「同じこと何回も」
「それだけ?」
「それだけで十分怖かったよ」
レオンは笑ってみせた。
フィンも、まだ少し気分が悪そうにしながら笑う。
「悪い悪い。次から気をつける」
「気をつけてどうにかなるのか?」
「気持ちの問題」
いつもの返しだった。
それだけで少し安心した。
◇
三人が落ち着いたあと、レオンはもう一度石柱を調べた。
古い文字。
第三街道。
鐘が鳴る時は留まるな、という警告。
そして、滅鐘教団のものに似ているが、明らかに違う鐘の印。
「これ、いつ頃のもの?」
フィンが苔を指で払う。
「俺がこの道を走ってた頃にはもう古かったよ」
「つまり五十年以上前?」
「もっとずっと前。石そのものは王国初期とか、それ以前かもしれない」
レオンは刻まれた印を見る。
滅鐘教団が作ったものではない。
少なくとも、そう考えた方が自然だった。
「じゃあ、教団が鐘を作ったわけじゃない可能性があるのか」
「何の教団?」
フィンが尋ねる。
レオンは少し迷った。
「ヴァルネで調べてた連中。逆さまの鐘を印に使ってる」
「へえ」
フィンは石柱の印と見比べる。
「似てるけど違うな」
「そうなんだよ」
なら、何が先なのか。
昔から存在した鐘の仕組みを、滅鐘教団が真似したのか。
それとも全く別物なのか。
まだ何も分からない。
ただ、ロウの異常も、この旧街道の鐘も、一つの村だけで起きた偶然ではなかった。
「行こう」
エリシアが言った。
「ここに長くいたくない」
「珍しく意見一致」
フィンが立ち上がる。
レオンも荷物を持った。
その時、北へ歩いていた裸足の男がまた戻ってきた。
「北へ……危ない……戻れ……」
六度目の鐘が鳴ったのに、彼だけは元へ戻らない。
フィンたちは戻った。
ロウの住民たちも、少なくとも六度目の後には見た目を取り戻していた。
なのにこの男は、今も同じ道を往復している。
レオンはしばらくその背中を見送った。
「鐘を何度も浴びると、戻れなくなるのかな」
誰への質問でもなく呟く。
エリシアは答えなかった。
フィンも、今度は冗談を言わなかった。
三人は男を残し、北へ向かって歩き始めた。
背後では、裸足の足音が何度も同じ道を往復している。
その音が聞こえなくなるまで、レオンは一度も振り返らなかった。




