第十四話 六度目の鐘・前編
三度目の鐘が消えた後も、フィンはしばらく北を向いたまま動かなかった。
「届けないと」
革鞄の肩紐を握り、同じ言葉を同じ調子で繰り返している。いつもの軽口も笑みもなく、その横顔は、街道の先にある何かしか見えていないようだった。
レオンは反射的に近づきかけ、すぐに足を止めた。
ロウを思い出したからだ。
鐘が進むほど死者たちは自我を失い、最後には自分の体温や匂いに反応した。ヴァルネでは衛兵に、生者は体温や呼吸、鼓動、汗でも見分けられると教えられている。
フィンはまだ、レオンが生きていることを知らない。
今まで一緒に歩いている間も、必要以上に近づかないようにはしていた。休憩中に水を飲む時も、フィンの視線が外れているのを無意識に確認していたし、疲れて呼吸が荒くなれば少し距離を取った。
それでも、鐘が死者の感覚まで変えるなら話は別だ。
「エリシア」
「分かってる」
彼女はレオンより一歩前へ出た。
フィンとの間に自然に身体を入れる。
「フィン」
エリシアが呼ぶ。
「聞こえる?」
「届けないと」
「何を?」
「手紙を。届けないと」
問いには答えているようで、答えていない。
レオンは周囲へ目を向けた。
旧街道の右側は木々が密集し、左側は緩い斜面になっている。逃げるなら左だ。ただし下草が深く、足を取られる可能性がある。
風は弱い。
頬へ当たる空気の向きを確かめると、レオンたちの方からフィンへ流れている。
「……最悪だな」
「何?」
エリシアが小さく聞く。
「風。こっちからフィンの方へ吹いてる」
エリシアはすぐに意味を理解した。
「位置、変える?」
「できれば」
二人はフィンを刺激しないよう、ゆっくり道の反対側へ回った。
フィンは気づかない。
北だけを見ている。
「届けないと……」
声が少し掠れてきた。
レオンは外套の前を閉じた。
体温を完全に隠せるとは思わない。ただ、肌を晒しているよりはましだ。
先ほどから緊張で汗が出始めていることにも気づき、余計に嫌な気分になった。
「こういう時に限って、生きてる身体って不便だな」
「普段は?」
「普段はありがたいよ」
「ならよかった」
「今その返しする?」
小声で返したが、エリシアの存在がありがたかった。
一人だったら、フィンを見捨てるか、正体が露見する危険を承知で近づくか、もっと迷っていたと思う。
◇
旧街道の奥から聞こえていた足音は、ゆっくり近づいてきた。
裸足で湿った土を踏む音。
一定の歩幅。
急いでもいなければ、こちらを警戒している様子もない。
やがて木々の間から、一人の男が現れた。
年齢は五十ほどに見える。服は古く、片袖が破れていた。裸足の足は泥に汚れ、右の頬には古い裂傷が残っている。
男は三人を見なかった。
道の中央を真っ直ぐ歩き、フィンの横を通り過ぎる。
「……北へ……危ない……戻れ……」
呟いている。
少し先まで進んだところで男は止まり、身体の向きを変えた。
今度は南へ歩く。
「北へ……危ない……戻れ……」
同じ歩幅。
同じ声。
同じ場所まで戻ると、また向きを変えた。
地面に残っていた裸足の足跡の主だった。
「ロウと同じだ」
レオンは声を抑えた。
「完全に?」
「少なくとも、繰り返してるところは」
フィンも似た状態になり始めている。
ただ、違うこともある。
ロウでは村全体が異常に包まれていた。ここには村も鐘楼もない。ただ古い街道と森があるだけだ。
「この辺そのものが、鐘の範囲なのか?」
「かもしれない」
エリシアの声も慎重だった。
裸足の男がまた北へ向かう。
その時、四度目の鐘が鳴った。
ゴォォン――。
今度は音を聞いた瞬間、レオンの身体ではなく、目の前の死者たちに変化が起きた。
「フィン……?」
首筋。
今まで薄い傷跡にしか見えなかった線が、ゆっくり開いていく。
皮膚が裂けたのではない。
まるで隠れていた傷が、初めからそこにあった姿へ戻っていくようだった。
喉を横切る深い切創。
乾いた黒い血。
傷は首の半分近くまで達している。
普通なら、それだけで死んでいる。
いや、実際に死んでいる。
分かっているはずなのに、レオンの喉が詰まった。
「フィン、お前……」
言いかけて止める。
フィンはまだ北を見ている。
「届けないと。俺が……届けないと……」
先ほどより声に焦りが混じっている。
革鞄を抱き締めるように胸へ寄せ、歩き出そうとした。
「止める」
レオンが言うと、エリシアが腕を伸ばした。
「レオンは近づかないで」
「でも、このまま行ったら――」
「私がやる」
正しい。
頭では分かっている。
レオンが触れば、フィンに体温が伝わる可能性がある。
エリシアならその危険はない。
彼女はフィンの前へ回り込み、肩へ手を置いた。
「止まって」
「邪魔するな」
フィンの声が変わった。
普段なら絶対に使わないような低い声音だった。
「届けないといけないんだ。まだ残ってる。あいつのも、あの子のも、全部……」
意味の分からない名前をいくつか口にする。
五十年前の配達先なのかもしれない。
あるいは、もう本人も普段は覚えていない名前なのかもしれない。
「フィン」
エリシアがもう一度呼ぶ。
「ここを見る」
「退いてくれ」
「見て」
強く言われ、フィンの目がようやくエリシアへ向いた。
一瞬だけ、自我が戻ったように見えた。
「……エリ、シア?」
「そう」
「俺……何して……」
しかし、その直後だった。
フィンの目が大きく揺れた。
「届けないと」
また元へ戻る。
四度目の鐘だけで、もうこれほど影響が出ている。
レオンは嫌な予感しかしなかった。
「あと二回か」
「うん」
「ロウと同じなら」
「うん」
問題は、五度目だった。
ロウではあの時、死者たちが一斉にレオンを見た。
◇
裸足の男にも傷が現れていた。
背中に大きな穴が開き、服の一部が内側へ引き込まれている。おそらく槍か何かに貫かれて死んだのだろう。
それでも男は、北と南を往復し続けている。
「北へ……危ない……戻れ……」
レオンはその言葉を聞きながら、石柱へ目を向けた。
先ほど見つけたものだ。
「エリシア。あれだけ確認したい」
「今?」
「今しかないかもしれない」
五度目が来れば、動ける保証がない。
フィンから距離を保ったまま、レオンは石柱へ近づいた。
表面の苔を剣の鞘で軽く払う。
下から古い文字と記号が現れた。
文字の方は半分以上削れている。
『北方――第三――街道』
『鐘――時――留まるな』
読めるのはその程度だった。
「第三街道……ここで合ってる」
フィンの地図にあった名前。
そして、その下に刻まれた記号を見て、レオンは眉を寄せた。
鐘に似ている。
「滅鐘教団の印?」
エリシアも見る。
「違う」
「だよな」
似てはいる。
円の中に、鐘のような形。
だが教団の印は明確に逆さまの鐘だった。
石柱のものは上下が判然とせず、鐘らしき形の周囲から細い線が何本も伸びている。
「古そうだな」
「教団より?」
「たぶん」
「……また『たぶん』か」
軽口を返しながらも、レオンは笑えなかった。
もしこれが滅鐘教団より古いものなら、鐘そのものは教団が作ったものではない可能性がある。
そこまで考えた時、フィンが突然こちらを向いた。
レオンの身体が強張る。
目が合った。
フィンの視線が、さっきまでと違う。
荷物でも道でもない。
レオン自身を見ている。
「……レオン?」
「何だ?」
できるだけ普通に返す。
近づかない。
息を整える。
走ってもいないのに、心臓だけが速くなっていく。
駄目だ。
落ち着け。
焦れば焦るほど、生者らしい反応が増える。
「どうした?」
もう一度尋ねる。
フィンは首を傾げた。
「いや……」
鼻が僅かに動いた。
レオンは無意識に一歩下がった。
その時。
五度目の鐘が鳴った。




