第一話 死者の村・後編
窓の向こうに立つ女は、籠を抱えたままレオンを見つめていた。
何も言わない。
ただ、自分の存在を認識されている。
それだけで昼間とはまるで別人のように見えた。
「……何だよ」
レオンが半歩下がったところで、女の顔に違和感を覚えた。
頬が窪んでいる。
夕暮れの影のせいではない。肌そのものが灰色に変わり、乾いていくように見える。
レオンが目を凝らした、その時。
――ゴォン。
二度目の鐘が鳴った。
女の頬に亀裂が走った。
口元から耳の下へ皮膚が裂け、その奥から黒ずんだ肉と歯が覗く。
「……え?」
血は出ていない。
悲鳴も上げない。
女自身が何も感じていないようだった。
レオンは窓枠へ背中をぶつけながら、道の向こうへ視線を動かした。
昼間、何度も転んでいた子供が立っている。
額が割れ、皮膚の隙間から白い頭蓋骨が見えていた。
井戸の老婆は片目を失っている。
家を出入りしていた男は、首が人間ならあり得ない方向へ曲がっていた。
「何だよ……これ」
喉が乾いた。
誰一人として痛がっていない。
自分の傷を確認する者もいない。
ただ、昼間と同じように立っている。
――ゴォン。
三度目の鐘が響いた。
今度は、村中の者たちに変化が広がった。
服の下に隠れていた傷が浮かび上がる。腹が裂けた男、胸に大きな穴のある女、片脚の肉をほとんど失った老人。
どれも、生きていられる傷ではなかった。
鼻の奥へ、あの甘い臭いが強く届く。
目を覚ました時から漂っていた臭い。
花か果物が腐っているのだと思っていた。
違った。
腐った肉の臭いだった。
「……死んでる」
言葉が震えた。
この村の人間は、最初から。
「こいつら……全員、死んでたのか?」
そう口にした瞬間。
村人たちが、一斉にレオンへ顔を向けた。
背中を冷たいものが走った。
――ゴォン。
四度目の鐘が鳴る。
パン売りの女が鼻を動かした。
「……あったかい」
レオンは息を呑んだ。
別の死者も、こちらを見ながら呟く。
「においがする」
「……あたたかい」
「いる」
昼間は決められた言葉しか話さなかった者たちが、今は明らかにレオンのことを話していた。
胸の奥で心臓が速くなる。
意識したせいで、ドクン、ドクンという鼓動が耳元で鳴っているように感じた。
呼吸も浅くなっている。
手のひらには汗が滲んでいた。
「……俺?」
女が一歩近づいた。
周囲の死者たちも動き始める。
身体が熱い。
息をしている。
汗をかいている。
今まで当たり前だった身体の反応が、ここでは自分だけのものなのかもしれない。
――ゴォォン。
五度目の鐘が響いた。
死者たちが、一斉にレオンへ向かって動き出した。
「っ!」
考えるより先に、小屋の出口へ走った。
扉を開けて外へ出る。
周囲からいくつもの顔がこちらを向いていた。
「なんなんだよ!」
右へ走る。
昼間に歩いた道だ。
前方には、あの子供が立っていた。
さっきまで笑いながら転んでいた少年が、今は額を割ったまま無表情でこちらを見ている。
避けようとした瞬間、小さな手が伸びてきた。
「うわっ!」
肩を掴まれた。
冷たい。
しかも、子供とは思えないほど強い。
レオンは腕を振り、身体を捻った。服が裂ける音がして、肩に鋭い痛みが走る。
何とか手を振りほどき、そのまま走った。
後ろを振り返る余裕はない。
ただ、足音が増えていることだけは分かった。
走れば息が切れる。
身体が熱くなる。
汗が流れる。
それに合わせるように、背後の足音まで速くなっている気がした。
「これ……走ったら余計まずいんじゃないか?」
だからといって止まれるわけもない。
辺りを見回し、道端に置かれていた鉄の棒へ手を伸ばした。
先端が曲がっている。
火かき棒だった。
「何もないよりはマシだろ……」
前から男が近づいてくる。
首の半分が裂けていた。
左右には家。
後ろからも死者が来ている。
避ける場所がない。
レオンは火かき棒を両手で握った。
「来るな」
男は止まらない。
「来るなって!」
思い切り振った。
鉄の先端が男の肩へ当たり、骨を殴ったような硬い感触が腕まで響く。
男の身体が僅かに傾いた。
それだけだった。
「嘘だろ……」
腕を掴まれた。
冷たい指が皮膚へ食い込み、痛みで顔が歪む。
「離せ!」
腹を蹴る。
一度では離れない。
二度、三度と蹴りつけ、ようやく手が外れた。
よろめきながら再び走る。
どこへ逃げる。
頭の中に、昼間の老人が浮かんだ。
『北だ』
意味のない言葉だと思っていた。
それでも、北へ行けば村の外へ出られるはずだ。
「北……どっちだ」
井戸の位置を見る。
昼間通った家。
森へ続く道。
方向が分かった。
曲がろうとした瞬間、横から人影が飛び出してきた。
肩がぶつかる。
二人とも地面へ倒れた。
火かき棒が手から離れ、石の上を転がっていく。
すぐに立たなければ。
レオンは地面へ手をついた。
左手が、倒れた死者の腕へ触れる。
冷たい。
そう思った次の瞬間。
目の前からロウ村が消えた。
◇
歓声が聞こえた。
あまりの音量に、レオンは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
さっきまで夜だったはずなのに、目の前には明るい広場が広がっている。
高い城壁。
風にはためく旗。
数え切れないほどの人間。
泣いている者もいれば、知らない者同士で抱き合っている者もいた。
『魔王が倒された!』
誰かが叫ぶ。
『勇者様が魔王を倒したぞ!』
鐘が鳴った。
ロウの鐘とは違う。
高く、明るく、祝福するような音だった。
胸の中へ強い喜びが流れ込んでくる。
助かった。
戦争が終わった。
これで明日も生きられる。
それはレオン自身の感情ではなかった。
そこでようやく気づく。
自分はここにいない。
知らない誰かの目を通して、この光景を見ている。
人混みの向こうに、一人の少女がいた。
白い髪に赤い瞳。
腰には剣を下げている。
『勇者エリシア!』
群衆がその名を叫んだ。
魔王を倒した英雄。
ところが、その少女だけは笑っていなかった。
人々が互いの顔を見て喜ぶ中、エリシアは一人で空を見上げている。
『……空?』
誰かが気づいた。
周囲の者たちも顔を上げる。
青かった空が、ゆっくりと黒く染まり始めていた。
雲ではない。
夜になったわけでもない。
世界から光そのものが抜け落ちていくようだった。
『何だ、あれ』
『勇者様?』
『エリシア様!』
白い光が走った。
耳の奥を突き抜けるような高い音が響く。
その直後、胸が止まった。
苦しくはなかった。
痛みもない。
ただ、自分が死んだことだけが分かった。
身体が地面へ崩れ落ちる。
周囲でも次々に人が倒れていった。
さっきまで広場を満たしていた歓声が消え、悲鳴さえ長くは続かない。
やがて、静かになった。
それなのに。
『……え?』
意識が残っている。
心臓は動いていない。
呼吸もしていない。
それでも考えることができた。
指を動かす。
動いた。
身体を起こす。
起き上がれた。
隣で死んだ男も、ゆっくりと身体を起こしている。
妻を抱いたまま倒れた男も。
その横にいた子供も。
老人も。
皆が立ち上がっていく。
生き返ったわけではない。
死んでいることだけは、なぜか分かった。
死んだまま、動いている。
広場のどこかで、誰かが泣いた。
『魔王は倒されたのに……』
震えた声が、静まり返った街へ落ちる。
『どうして……』
◇
「――っ!」
レオンは大きく息を吸った。
土の匂い。
夜の冷たい風。
倒れた死者。
離れた場所に転がる火かき棒。
ロウ村へ戻っている。
「今の……何だ」
頭の奥がズキズキと痛んだ。
知らない人間の喜びや恐怖が、自分の記憶のように残っている。
魔王が倒された。
世界が救われたと、皆が思った。
その直後に人々は死んだ。
「魔王を倒した後に……?」
普通なら逆だろう。
魔王を倒したから、人々は助かるはずだった。
考えようとした時、左手の下にある腕が動いた。
「っ!」
慌てて手を離す。
周囲には、すでに何人もの死者が集まっていた。
レオンは転がっていた火かき棒を拾い、家の壁まで後退した。
逃げ道がない。
「……来るな」
一人が近づく。
「来るなよ」
殴っても止まらない。
走っても追われる。
何をすればいいのか分からない。
レオンが火かき棒を握る手に力を込めた、その時だった。
――ゴォン。
六度目の鐘が鳴った。
目の前まで伸びていた手が止まった。
レオンも動けない。
さらに何か起こるのかと思い、息を殺して待つ。
数秒後。
目の前の男が腕を下ろした。
視線がレオンから外れる。
そのまま身体の向きを変え、元来た道を歩き始めた。
他の死者たちも同じだった。
裂けていた皮膚が戻り、浮かび上がっていた傷も少しずつ見えなくなっていく。
パン売りの女は昼間と同じ場所へ戻ると、籠を抱え直した。
「パンはいかがですか? 焼きたてですよ」
昼間とまったく同じ声だった。
レオンは壁にもたれ、その場へ座り込んだ。
脚に力が入らない。
手も震えている。
「何なんだよ……ここ」
自分の左手を見る。
何も変わっていない。
それなのに頭の中には、知らない誰かの記憶が残っていた。
魔王。
勇者エリシア。
黒く染まった空。
死んだ人々。
ここから逃げなければならない。
そう思っても、身体がすぐには動かなかった。
「見つけた」
女の子の声がした。
レオンは顔を上げた。
道の向こうに、一人の少女が立っていた。
白い髪が夜風に揺れている。
赤い瞳。
黒い外套。
腰には一本の剣。
その顔を見た瞬間、レオンは息を止めた。
初めて会う。
そのはずなのに知っている。
さっき見た記憶の中。
歓声に包まれた広場に立っていた少女。
「……エリシア?」
少女の赤い瞳が、僅かに見開かれた。
レオンの方が戸惑う。
「え……本当に?」
少女は答えず、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
レオンは反射的に火かき棒を握り直す。
「待て。お前――」
「動かないで」
「は?」
目の前まで来たエリシアが手を伸ばした。
掌が、服越しにレオンの胸へ触れる。
「お、おい」
身体を引こうとして、止まった。
冷たい。
夜気の冷たさとは違う。
雪の中に置いてあった石へ直接触れたような冷たさだった。
さっき自分を掴んだ死者の手を思い出し、身体が強張る。
エリシアは気にする様子もなく、胸へ手を当てたまま何かを確かめていた。
レオンの心臓が鳴る。
その鼓動を掌で感じたのだろう。
少女の表情が初めて大きく変わった。
「……あなた、生きているの?」
レオンはすぐに答えられなかった。
代わりに、胸へ触れている彼女の手首を掴む。
やはり冷たい。
「お前は……?」
少女は少し黙った。
「エリシア」
「それは知ってる」
答えてから、自分でもおかしいことに気づいた。
エリシアの眉が僅かに動く。
「どうして?」
「俺にも分からない。さっき、誰かの記憶みたいなのを見て……魔王が倒されて、それで皆が……」
うまく説明できなかった。
エリシアは何も言わず聞いている。
そこでレオンは、彼女が現れた時の言葉を思い出した。
「待て。さっき『見つけた』って言ったよな」
エリシアは黙った。
「誰を探してた?」
返事はない。
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
「……俺なのか?」
赤い瞳が、真っ直ぐレオンを見る。
「お前、俺のこと知ってるのか?」
しばらくの沈黙のあと、エリシアが静かに口を開いた。
「レオン」
胸が大きく脈打った。
まだ名乗っていない。
「なんで……」
喉が乾く。
「なんで俺の名前を知ってる?」
エリシアは答えなかった。
ただ、レオンの胸からゆっくりと手を離した。
その向こうでは、死者たちがまた同じ夜を繰り返し始めている。
底のない桶へ水を注ぐ老婆。
同じ道を往復するパン売り。
何度も同じ場所で転ぶ子供。
誰の胸も動いていない。
誰も息をしていない。
その中で、レオンの心臓だけが確かに脈打っていた。
なぜ自分がここにいるのかは分からない。
目の前の少女が何者なのかも分からない。
それでも、一つだけ理解できたことがある。
この死者の国では、生きている自分の方が異常だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




