第一話 死者の村・前編
目を覚ますより先に、土の匂いがした。
雨を吸った土と、朝露に濡れた草の青臭さ。その奥に、熟れすぎた果物にも似た甘い臭いが混じっている。決して強くはないのに妙に鼻の奥へ残り、俺は顔をしかめながら目を開けた。
頭上には、薄く雲の広がった空があった。
雲の切れ間から差し込む朝の光は弱く、空全体が白く霞んでいる。視線を横へ向けると、背の低い草の先に細い土道が延び、その両側には石と木で造られた家々が並んでいた。
「……どこだ、ここ」
そう呟いてから、自分の声に違和感を覚えた。
記憶にある声より若い。
肘をついて身体を起こすと、背中に張りついていた湿った草や小さな葉がぱらぱらと落ちた。服は見覚えのない簡素なものだったが、泥に汚れている以外は破れていない。
まず周囲を確認した。
舗装された道路はない。電柱も、標識も、車も見当たらない。家の屋根には黒っぽい板や藁が使われ、軒先では束ねた草が風に揺れている。
道の向こうには緩やかな丘があり、その先に深い森が見えた。
「日本じゃ……ないよな」
自分で口にした言葉が、妙に現実味を持たなかった。
夢なのかもしれない。
そう考えながら立ち上がろうとして、自分の手が目に入った。
「……え?」
細い。
指も手の甲も、記憶にある自分のものより明らかに若かった。袖を捲って腕を見る。肌には皺もなく、筋肉のつき方も違う。
頬や顎へ手を当てると、髭の感触もほとんどなかった。
「俺、こんな若かったか?」
違う。
自分は三十代だった。
そのことは分かる。
日本で暮らしていた。電車にも乗ったし、スマートフォンも使った。仕事帰りにコンビニへ寄ったこともあるし、冬の朝に目覚ましを止めて二度寝したことも覚えている。
ところが、自分自身について思い出そうとすると、急に記憶が遠くなった。
「名前……」
出てこない。
家族のことを考えてみる。
誰かと食卓を囲んだことは覚えている。声も、笑っていたことも、どこかに残っている。
なのに、その顔だけが浮かばない。
ここへ来る直前のことも同じだった。
事故に遭ったのか。
病気だったのか。
眠っていただけなのか。
そこだけ記憶を切り取られたように何もなかった。
考えているうちに頭の奥が重くなり、俺は額を押さえた。
その時、不意に一つの言葉が浮かんだ。
「……レオン」
口に出すと、不思議なくらい自然だった。
自分の名前だ。
日本にいた頃の名前は思い出せない。それなのに、今の自分がレオンだということだけは、誰かに教えられなくても分かった。
「どういうことだよ……」
答える声はない。
代わりに、遠くで鳥が鳴いた。
小さな黒い鳥が石造りの家の屋根へ降り、首を傾げながら辺りを見回している。その姿を見ていると、少なくとも世界そのものは普通に朝を迎えているように思えた。
レオンは服についた土を払い、人を探して村の方へ歩き出した。
◇
村へ入って最初に見つけたのは、井戸のそばにいた老婆だった。
背中を丸め、頭に古びた布を巻き、井戸から桶を引き上げている。
ようやく人に会えた。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「あの、すみません」
声をかけても、老婆は振り返らなかった。
縄が井戸の縁を擦る音だけが聞こえる。
「すみません。この村のことを聞きたいんですけど」
もう少し近づいて声を大きくしても、反応はなかった。
耳が遠いのだろうか。
レオンがそう思っている間に、老婆は汲み上げた水を隣の木桶へ注いだ。
ざあ、と水が落ちる。
しかし、木桶には一滴も溜まらなかった。
「……あれ?」
レオンは足元を見る。
桶の底が抜けている。
水はそのまま地面へ流れ、小さな泥の筋を作って井戸の脇へ広がっていた。
「おばあさん、桶壊れてますよ」
老婆は何も答えず、空になった桶を再び井戸へ落とした。
縄を手繰る。
水を汲む。
底のない桶へ注ぐ。
そして、また井戸へ戻す。
同じ動きだった。
最初から最後まで、一度もレオンの方を見ない。
「……聞こえてないのか?」
それ以上近づく気にはなれなかった。
村の中をもう少し進む。
石造りの小さな家の間を抜けると、少し広い道へ出た。道端には木箱や樽が並び、家の窓からは薄い布のカーテンが風に揺れている。
人の姿も増えていた。
籠を抱えた女が向こうから歩いてくる。
今度こそ話せるかもしれない。
「すみません」
女は足を止めた。
レオンは安心して、少し笑った。
「この村って、何ていう――」
「パンはいかがですか?」
「え?」
「焼きたてですよ」
女は籠を差し出した。
中にはいくつものパンが入っている。
ただし、焼きたてには見えなかった。表面は黒く乾き、ひびが入り、いくつかは形まで崩れている。
「いや、パンじゃなくて。この村の名前を知りたいんです」
「パンはいかがですか? 焼きたてですよ」
声の調子まで、さっきと同じだった。
「だから、俺は――」
「パンはいかがですか?」
レオンは口を閉じた。
数秒すると、女は何事もなかったように歩き始めた。
「……何なんだ?」
その背中を目で追う。
十歩ほど進んだところで、女が止まった。
身体の向きを変える。
そして、そのまま元の場所へ戻ってくる。
レオンの前で足を止めた。
「パンはいかがですか? 焼きたてですよ」
腕に鳥肌が立った。
何も答えず道の端へ避ける。
女はまた歩き出した。
十歩進む。
戻ってくる。
それを眺めているうちに、少し先から子供の笑い声が聞こえた。
「あはは!」
五、六歳くらいの少年が道を走り、石につまずいて転んでいた。
元気だな、と最初は思った。
少年は笑いながら立ち上がり、数歩戻る。
そして、また同じ石へ向かって走り出した。
「……え?」
同じ場所で転んだ。
「あはは!」
レオンは足を止めた。
少年はまた立ち上がると、同じ距離だけ戻った。
その向こうでは、一人の男が家の扉を開けて外へ出てくる。
右を見る。
左を見る。
家へ戻る。
しばらくすると、また扉が開いた。
同じ男が出てきて、同じ方向へ顔を向け、同じように家へ戻った。
レオンはゆっくり周囲を見回した。
薪を割っている男がいる。
斧を振り下ろすが、足元にはすでに薪がない。それでも一定の間隔で斧を持ち上げ、同じ切り株へ何度も振り下ろしている。
洗濯物を干している女は、一枚の布を縄へ掛けては外し、再び同じ位置へ掛け直していた。
さっきまで、普通の村に見えていた。
煙突から煙が上がり、人が道を歩き、家の軒先には生活用品が置かれている。
けれど、よく見れば誰一人として何かを終わらせていなかった。
ただ、同じことを繰り返している。
「何なんだよ……この村」
レオンの声だけが、その奇妙な日常から浮いているように感じた。
◇
村の北側まで歩いたところで、一人の老人を見つけた。
木の柵へ身体を預け、森へ続く道を眺めている。
もう期待しない方がいい。
そう思いながらも、レオンは声をかけた。
「あの」
老人がこちらを向いた。
「……旅人か」
レオンは思わず目を瞬いた。
「はい。たぶん」
「たぶん?」
会話になっている。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
「ちょっと事情があって、自分でもよく分からなくて。ここって何ていう村ですか?」
「ロウだ」
「ロウ村……」
初めてまともな情報を聞けた。
「近くに大きな町はありますか?」
老人は片腕を上げ、北を指した。
「北だ」
「北に町があるんですね。歩いてどれくらいです?」
「北だ」
「いや、時間を――」
「北だ」
レオンの表情が固まった。
「……町の名前は?」
「北だ」
老人の目は、もうレオンを見ていなかった。
腕を上げたまま、森の向こうを指している。
「北だ」
「……もういいです」
返事はない。
老人は同じ言葉を繰り返し続けていた。
まともだったと思ったのは、最初の一言だけだったらしい。
◇
夕方になると、村を吹き抜ける風が冷たくなった。
西の空は赤く染まり、遠くの森が黒い影のように沈んでいる。屋根の上に止まっていた鳥たちもいつの間にか姿を消し、代わりに虫の声が草むらから聞こえ始めていた。
レオンは何度も北へ続く道を見た。
あの老人の言葉を信じて歩き出すべきか迷ったが、知らない森の中で夜を迎えるのも怖い。
「今日はここにいた方がましか……」
使われていなさそうな小屋を見つけた。
中には小さな机と椅子、藁を敷いただけの寝床がある。棚や床には埃が積もり、しばらく誰も入っていないようだった。
腰を下ろした途端、喉が渇いていることに気づいた。
腹も減っている。
井戸の水をそのまま飲む勇気はなかったので、かまどに残っていた古い鍋を洗い、水を入れた。
小屋の隅にあった藁へ火打石のようなもので火をつける。かまどのそばに置いてあった薪へ火を移すと、ぱちぱちと小さな音を立てて燃え始めた。
湯気が上がる。
その当たり前の光景を見ているだけで、少しだけ安心できた。
温めた水を飲みながら窓の外を見る。
パン売りの女は、まだ同じ道を歩いていた。
子供も転び続けている。
薪を割る男の斧も、同じ間隔で上下していた。
日が沈んでも、誰も家へ帰ろうとしない。
いつからこうしているのだろう。
今日だけなのか。
昨日も、その前の日も同じだったのか。
考えていると、急に村がひどく遠い場所のように感じられた。
その時。
――ゴォン。
腹の底まで響くような、低い鐘の音が鳴った。
レオンは椅子から半分腰を浮かせる。
「鐘……?」
窓へ近づき、村を見回した。
鐘楼らしき建物は見えない。
それよりも、別のことに気づいた。
静かだった。
薪を割る音がない。
子供の笑い声も消えている。
パン売りの足音も聞こえない。
村人全員が、同時に動きを止めていた。
レオンは窓枠へ手を置いた。
「……何だ?」
道の上にいたパン売りの女が、ゆっくりと顔を上げる。
昼間、何度声をかけても一度も目を合わせなかった女が、初めて真っ直ぐレオンを見た。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




