第十二話 夜道の配達人・後編
翌朝は、鳥の声で目が覚めた。
宿場跡の壊れた窓から淡い光が差し込み、床に細長い影を作っている。外では木々の葉についた朝露が光り、昨日より少し冷たい空気が建物の中へ流れ込んでいた。
レオンは身体を起こし、まず自分の手を見る。
自分の手だ。
少なくとも今はそう思える。
「おはよう」
「おはよう」
エリシアは昨夜とほぼ同じ場所に座っていた。
「俺、他に変なこと言ってなかった?」
「一回だけ」
「その知らない名前?」
「うん」
「……そっか」
夢の内容を思い出そうとしたが、雨と戦場の断片しか残っていない。
無理に引き出すのも怖かった。
「今日から、ダリオの記憶を意識して使わないようにしてみる」
「できる?」
「分からない。でも、何でも頼るのはまずそうだろ」
エリシアが小さく頷く。
「剣は?」
「そっちはちゃんと練習する」
「ならいい」
「先生みたいだな」
「違う」
「即答だな」
二人は簡単に朝食を済ませ、再び北へ向かった。
◇
午前中の街道は、昨日より少し細くなっていた。
石が敷かれた部分はほとんどなくなり、硬く踏み固められた土の上へ雑草が伸びている。道の両側には背の高い木が増え、その間から差す日差しが地面を斑に照らしていた。
人とは一度もすれ違わない。
「本当にこっちで合ってる?」
レオンはハルヴァンからもらった地図を開いた。
大まかな街道と川、森の位置は合っている。
ただ、地図に描かれている道より、現実の街道はずいぶん荒れていた。
「合ってると思う」
「エリシアの『思う』と、この地図の古さ、どっちを信用したらいいんだろ」
「どっちも?」
「不安要素を足すなよ」
地図を畳む。
しばらく歩くと、道の脇に石柱が現れた。
腰ほどの高さしかなく、表面の文字は風雨でほとんど消えている。
「昔の道標かな」
近づいてみる。
文字は読めない。
ただ、上部に小さな窪みがあり、そこへ何かが取り付けられていた跡だけが残っていた。
「ここにも人がたくさん通ってたんだな」
「昔は」
「また昔か」
その先には、木製の小さな箱が立っていた。
屋根のついた細長い箱で、街道から少し外れた場所に一本の柱で支えられている。
「……何だあれ」
レオンが近づこうとした時。
箱の前に、人がしゃがみ込んでいることに気づいた。
◇
若い男だった。
年齢はレオンと同じくらいか、少し上に見える。
薄茶色の髪は無造作に後ろで束ね、旅用の短い外套を着ていた。腰には短剣が二本。背中には小ぶりな弓と、かなり使い込まれた革鞄を背負っている。
男は箱の扉を開け、中を覗き込んでいた。
「……ないか」
一人で呟く。
レオンが足を止めると、男はすぐにこちらへ顔を向けた。
「おっと」
警戒するかと思った。
ところが男は笑った。
「旅人か。珍しいな、こんな道で」
「そっちもだろ」
「俺は仕事中」
男は立ち上がり、服についた埃を払った。
「仕事?」
「配達」
そう言って、背負った革鞄を軽く叩く。
レオンは街道脇の古びた箱を見る。
「これ、郵便受け?」
「正解。まだ覚えてる人がいたか」
「いや、見た目で」
「夢がないなあ」
初対面とは思えない軽さだった。
男は二人を順番に見る。
エリシアで一瞬視線が止まったが、特に驚いた様子はない。
「俺はフィン。フィン・ハーゼル。職業は配達人、趣味は生き残ること」
レオンは男の首元を見る。
薄い古傷が一本走っている。
肌の色も、よく見れば生者とは違う。
「死んでるだろ」
フィンが一拍置いた。
「……細かいなあ」
「そこ結構大事じゃない?」
「気分の問題だよ。死んでても、生き残りたい日はある」
「どういう日だよ」
「死獣に追いかけられた日とか」
「昨日の俺じゃん」
「本当に?」
フィンの目が少し輝いた。
「でかかった?」
「狼みたいなやつ」
「それは災難だったな。噛まれた?」
「何でちょっと楽しそうなんだよ」
「人の災難は話として面白いから」
「正直すぎる」
エリシアが二人を見ている。
「似てる」
「誰と誰が?」
レオンが聞く。
「二人」
「どこが?」
「よく喋る」
フィンが嬉しそうに笑った。
「ほら、気が合うらしい」
「まだ何も合ってない」
「その返しがもう合ってるって」
妙に疲れる相手だった。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
◇
「それで」
レオンは古い郵便受けを指した。
「こんな誰も使ってなさそうな箱を、一個ずつ確認してるの?」
「そうだよ」
「何のために?」
「手紙を探してる」
「新しい?」
「まさか」
フィンは笑いながら箱を閉じた。
「五十年くらい前の」
レオンは聞き間違えたかと思った。
「……五十年?」
「そのくらい。正確には四十八か九か。数えるの途中で面倒になった」
「何でそんな昔の手紙を?」
「配達人だから」
「答えになってない」
「俺の中ではなってる」
フィンは先へ歩こうとして、ふと思い出したように振り返った。
「君たちはどこまで?」
「北の旧王立文書庫」
答えると、フィンの足が止まった。
「へえ」
さっきまでの軽い表情が、ほんの少しだけ変わる。
「文書庫?」
「知ってる?」
「まあね」
フィンは革鞄へ手を入れた。
中を探り、何通かの古い封筒を取り出す。
「この辺で拾った手紙の中に、あそこ宛てが何通かある」
「本当に?」
「嘘ついてどうする」
「さっき自分で人の災難を楽しんでただろ」
「それとこれとは別」
何通か確認したあと、フィンが手を止めた。
「……あった」
一通の封筒を取り出す。
他のものより明らかに古く、紙の端は茶色く変色していた。封蝋は割れておらず、文字もかろうじて残っている。
「これ」
レオンは受け取ろうとした。
フィンがさっと引く。
「触るだけ」
「何?」
「人の手紙だから」
「いや、取らないよ」
「ならよし」
変なところで律儀らしい。
レオンは手を引っ込め、封筒を覗き込んだ。
宛先が書かれている。
『旧王立文書庫――』
そこまでは読めた。
その下の文字は汚れで見えにくい。
「俺たちが行く場所だ」
「だろ?」
フィンは封筒を裏返す。
レオンの目が止まった。
封蝋に、見覚えのある印が押されていた。
一本の剣。
その左右に広がる翼。
「……待って」
声が低くなる。
「これ」
ヴァルネ。
リネアが落とした銀片。
片面に刻まれていたものと同じ印。
勇者一行がかつて使っていた紋章。
「エリシア」
呼ばれた彼女が、封蝋を見る。
赤い瞳が僅かに見開かれた。
「同じ?」
「うん」
フィンが二人を見比べる。
「知ってる印?」
レオンはすぐには答えなかった。
「……どこで見つけた?」
「だから、この先の郵便箱」
「いつ?」
「昨日」
五十年近く探し続けていた手紙。
その中から、よりによって今。
自分たちと同じ目的地へ向けた、勇者一行の印がついた手紙が出てきた。
偶然と言うには、少し出来すぎている。
「中、見せてもらえる?」
フィンは即座に首を横へ振った。
「駄目」
「でも、もしかしたら――」
「駄目なものは駄目」
さっきまでふざけていた男の声が、初めてはっきり変わった。
「宛先が残ってるなら、まだ配達できる」
フィンは手紙を革鞄へ戻した。
「人の手紙を勝手に開ける配達人になったら、いよいよ俺も終わりだ」
「もう死んでるけど」
「だから細かいって」
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
それでも、レオンには少し分かった気がした。
この男にとって、手紙を届けることは単なる習慣ではない。
「じゃあ、文書庫まで届けるつもり?」
「その予定」
フィンが北へ続く街道を見る。
「目的地、一緒だな」
レオンも同じ方向を見る。
古くなった街道は木々の間を抜け、さらに北へ続いている。
その先に、旧王立文書庫がある。
リネアの消された記録。
エリシアが確認したい過去。
そして今度は、五十年近く届かなかった勇者一行の手紙。
「……嫌な予感しかしないな」
フィンが笑う。
「奇遇だな。俺は面白くなってきた」
「やっぱり気が合わない」
「これからだって」
まだ、知り合ったばかり。
そして名前を知ったばかりの同行者ですらなかった。
それでも三人が向かう先だけは、同じだった。




