第十二話 夜道の配達人・前編
日が沈む少し前、二人はようやく古い宿場跡へ辿り着いた。
街道から少し外れた場所に、石造りの小さな建物が三棟ほど並んでいる。かつては旅人や馬車で賑わっていたのだろうが、今では二棟の屋根が崩れ、残った一棟も壁を蔦に覆われていた。
それでも雨風を凌ぐには十分そうだった。
「ここ?」
「たぶん」
「相変わらず目的地に着いてから『たぶん』なんだな」
レオンは苦笑しながら、残っている建物の扉を押した。
蝶番が錆びた音を立てる。
中は思っていたより広かった。壁際には石で造られた長椅子があり、中央には古い炉が残っている。天井の一部には穴が開いていたが、そこから見える空はまだ薄い青色を残していた。
床には枯れ葉や小枝が吹き込んでいる。
レオンは荷物を下ろした。
「……生き返る」
「生きてるよ」
「言葉のあやだよ」
肩を回すと、昼間に死獣へ弾き飛ばされたところが鈍く痛んだ。
それだけではない。
剣を握った右手にも、妙な疲れが残っている。
身体そのものより、頭の方が落ち着かなかった。
街道を歩いている間にも、何度か勝手に足の置き方を直していた。段差を越える時には、無意識に剣へ手が伸びた。
それが自分の癖なのか、ダリオの癖なのか分からない。
「レオン」
「ん?」
「また剣、握ってる」
言われて気づいた。
右手が腰の柄を掴んでいる。
「あ……」
慌てて離す。
「無意識?」
「らしい」
エリシアはしばらくレオンの手を見ていた。
「気持ち悪い?」
「正直、ちょっとな」
レオンは壁際へ座り込んだ。
「役には立ったんだよ。ダリオの記憶がなかったら、あの死獣に何もできなかったと思う」
「うん」
「でも、助かったからって嬉しいだけでもないんだ」
目を閉じれば、まだ雨の戦場が浮かぶ。
泥。
叫び声。
剣が肉へ入る感触。
自分は経験したことがない。
それなのに、思い出そうとすれば思い出せる。
「そのうち、俺が覚えてることと、あの人が覚えてたことの区別がつかなくなったりしないよな」
エリシアはすぐには答えなかった。
「分からない」
「まあ、そうだよな」
「でも、変だったら言う」
「何が?」
「レオンがレオンじゃなくなってきたら」
冗談なのかと思ったが、エリシアは真顔だった。
「それ、かなり怖いこと言ってるぞ」
「そう?」
「そうだよ」
それでも、一人で気づかないよりはましかもしれない。
レオンは小さく息を吐いた。
◇
日が落ちる前に、二人は近くの沢から水を汲み、炉へ火を入れた。
乾いた枝へ火が移ると、薄暗かった建物の中が橙色に照らされる。崩れた壁の隙間から入ってくる夕方の風は冷たくなっていたが、火のそばへ座るとようやく身体の緊張が解けてきた。
レオンは小さな鍋へ水を入れ、保存食の干し肉を少しだけ放り込んだ。
「そのまま食べるよりはマシになるだろ」
「料理できるの?」
「煮るだけなら料理ってほどじゃない」
日本にいた頃も、自炊くらいはしていた。
何をよく作っていたのか思い出そうとすると、また記憶が霞む。それでも包丁の使い方や火加減の感覚は残っているのだから、自分の記憶というものは本当に都合が悪い。
干し肉が柔らかくなった頃、レオンは一切れ口へ入れた。
「……硬さは減ったな」
「美味しい?」
「元よりは」
エリシアも小さな一片を受け取る。
一口食べ、しばらく噛んだ。
「塩辛い」
「そこは相変わらず分かるんだな」
レオンは袋を見た。
「これ、何の肉なんだろ」
「羊」
「羊?」
「うん」
「生きてる羊?」
エリシアが不思議そうに見る。
「普通の羊」
「いや、この世界だとその『普通』を確認したくなるんだよ」
ロウを出てから、鳥も見た。
鹿も。
馬も鶏もいた。
角のある兎まで草原を走っていた。
そして今食べている肉も、生きていた羊から作られたものだという。
「植物も育つし、動物も生まれるんだよな」
「うん」
「魚も?」
「いる」
「家畜も子供を産む?」
「産むよ」
レオンは鍋の中を見た。
火の上で湯気が上がっている。
「じゃあ、やっぱり変だ」
「何が?」
「人間だけだよ」
言葉にすると、これまでぼんやり感じていた違和感がはっきりした。
「世界全部が死んだわけじゃない。森も生きてる。動物も生きてる。なのに、人間だけがほとんど死んで、そのまま動き続けてる」
魔王が倒された直後に起きた何か。
あの白い光。
黒くなった空。
「偶然じゃないよな」
エリシアは炎を見ていた。
「たぶん」
「人間だけを狙った何かがあった?」
返事はない。
だが、エリシアの表情が少しだけ硬くなった。
レオンはそれを見て、質問を重ねるのをやめた。
今はまだ話さない。
それとも、本当に知らない。
以前より、その二つを区別できるようになってきた気がする。
「そういえば」
レオンは食料袋から赤い果実を一つ取り出した。
ヴァルネを出る時に買ったものだった。
「食べる?」
半分に切って差し出す。
以前なら「いらない」と答えたかもしれない。
エリシアは少しだけ果実を見たあと、素直に受け取った。
一口齧る。
「甘い」
今度はレオンが聞く前に言った。
「味、結構分かるようになってきた?」
「前よりは」
さらに一口。
レオンは少し笑った。
「気に入った?」
「……たぶん」
「そこは『美味しい』でいいんじゃない?」
エリシアは果実を見る。
「まだ、よく分からない」
「慎重だなあ」
「でも、好き」
レオンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そっか」
「何?」
「いや。何でもない」
火が小さく弾けた。
◇
夜が深くなると、宿場跡の外は完全な暗闇になった。
街灯も家の明かりもない。
壊れた天井の隙間から見える星だけが、やけに明るかった。
日本にいた頃、こんな空を最後に見たのはいつだっただろう。
思い出せない。
レオンは毛布へ身体を包みながら、炉の向こうに座っているエリシアを見る。
「今日も寝ない?」
「うん」
「便利だけど、暇じゃない?」
「慣れてる」
「何年くらい?」
エリシアがこちらを見る。
「聞く相手間違えたな」
「うん」
「自分で認めるんだ」
笑いながら目を閉じる。
身体が疲れていたせいか、眠りはすぐに訪れた。
◇
雨が降っていた。
『左翼を下げろ!』
誰かが叫ぶ。
『まだ荷が残ってる!』
泥の中を走る。
足が重い。
剣を握っている。
違う。
これは自分ではない。
分かっているのに身体を止められない。
『ダリオ!』
誰かが名前を呼ぶ。
振り返る。
若い兵士がいた。
血まみれの顔で笑っている。
『後で酒、奢れよ』
『生きて帰れたらな』
自分の口がそう答えた。
景色が変わる。
燃える荷車。
倒れた馬。
雨。
死体。
また誰かが叫ぶ。
『――隊長!』
違う。
その名前は。
誰だ。
『――――!』
「……待て」
レオンは夢の中で声を出した。
「俺じゃない」
振り返った兵士の顔が、急にこちらを見た。
◇
「レオン」
肩を揺すられた。
目を開く。
暗い天井。
小さくなった炉の火。
エリシアがすぐそばにいた。
「……夢?」
「たぶん」
身体を起こす。
服の下が汗ばんでいた。
「何か言ってた?」
「名前」
レオンの心臓が嫌な音を立てる。
「ダリオ?」
「違う」
「じゃあ、誰?」
エリシアがその名前を口にした。
聞いたことがない名前だった。
だが、なぜか胸の奥が僅かに痛んだ。
「……知らない」
「うん」
「本当に知らない」
「分かってる」
レオンは額を押さえた。
夢の内容はすでに薄れ始めている。
けれど、誰かと酒を飲む約束をした感覚だけが妙に残っていた。
「これ、ダリオの記憶だよな」
「たぶん」
「寝てても出てくるのか……」
便利な能力だと思うには、少しずつ気味が悪くなってきた。
エリシアが元の場所へ戻ろうとする。
「エリシア」
「何?」
「少しだけ、そこにいて」
言ってから、自分でも情けないと思った。
だがエリシアは何も言わず、その場へ座った。
「ありがとう」
「うん」
レオンはもう一度横になった。
今度は、次に目を閉じるまで少し時間がかかった。




