第十一話 借りた剣・後編
死獣が動かなくなってからしばらくすると、少しずつ周囲の音が戻り始めた。
最初に聞こえたのは、森の奥から響く鳥の声だった。
一羽。
少し間を置いて、別の場所からもう一羽。
まるで危険が去ったことを確かめるように鳴き始める。
風も変わった。
血と獣の臭いが薄れ、代わりに乾いた草と土の匂いが運ばれてくる。雲の間から太陽が顔を出し、横倒しになった荷車の車輪や割れた瓶の破片を照らしていた。
少し前まで命の危険を感じていた場所なのに、世界の方は何事もなかったように午後へ戻っていく。
「……腹立つくらい平和だな」
「何が?」
「こっちの話」
レオンは立ち上がり、倒れた男――ダリオのそばへ戻った。
さっき触れた時の感覚を思い出し、今度は少し距離を取る。
「触らないの?」
「怖いんだよ」
「さっきは触った」
「あれは事故」
記憶を見たこと自体が怖いわけではない。
問題は、その後だった。
今も剣の握り方や足の置き方が、自分の昔からの習慣のように頭の中へ残っている。
ロウで見た記憶は映像に近かった。
今回は違う。
身体の使い方まで残っている。
「ダリオ、か……」
レオンは男の服装を見る。
旅人に見える。
胸元は死獣に裂かれているが、腰には古い短剣が一本あり、荷車の近くには持ち物らしい鞄も落ちていた。
「名前、本当に合ってるか確認したいな」
エリシアと一緒に散らばった荷物を調べる。
盗むつもりはない。
男が死者として戻ってくるなら、持ち物は必要になるはずだ。
布。
何本かの酒瓶。
工具。
干した薬草。
割れていない木箱の中には金属部品が詰まっている。
「商人だったのかな」
「運び屋かも」
鞄の中から、小さな木札が出てきた。
文字が彫られている。
「ダリオ・セイン……」
レオンは思わず息を止めた。
やはり名前は合っている。
木札の裏には商業組合らしい印があり、その下にはヴァルネとは別の街の名前が刻まれていた。
「本当にダリオだった」
「うん」
「俺、名前まで覚えてたんだな」
少し気味が悪かった。
自分の日本での名前すら思い出せないのに、数分前まで知らなかった死者の名前が、今ははっきり分かる。
木札を元へ戻そうとして、鞄の底に硬いものがあることに気づいた。
小さな金属板だった。
古びてはいるが、そこには剣と盾を組み合わせた紋章が刻まれている。
「これ、兵士の?」
エリシアが受け取る。
「軍の古い身分章」
「やっぱり元兵士なんだ」
戦場の記憶とも一致する。
ダリオは昔、兵士だった。
その後は荷を運んで生活していたのだろうか。
生前なのか。
死後なのか。
それすら分からない。
「この人、もう死者だった可能性もある?」
「ある」
「死者が死獣に襲われて、こうなった?」
「かもしれない」
「生きてる人だった可能性は?」
エリシアはダリオを見た。
「低いと思う」
「どうして?」
「傷以外にも、古い死斑がある」
言われて見ると、服の隙間から覗く首元の皮膚はかなり青白く、一部が黒ずんでいる。
死獣に襲われるより前から死者だったということか。
「じゃあ、死者も襲うんだな」
「死獣は獣だから」
「俺だけ狙ってたように見えたけど」
「レオンの匂いの方が気になったのかも」
「生きてるだけで餌扱いかよ……」
この世界で自分が希少なのは、どうやら良いことばかりではない。
むしろ今のところ、面倒の方が多かった。
◇
荷車から使えそうな板を一本取り、ダリオの身体を街道脇の木陰へ移した。
もし死者として戻るなら、道の真ん中に寝かせたままよりはいいだろう。
持ち物も近くへまとめる。
「戻った時、馬見たら落ち込むだろうな」
レオンは死んだ馬へ目を向けた。
こちらは相変わらず動かない。
「馬も死獣になる?」
「なることはある」
レオンは一瞬、馬から距離を取った。
「今?」
「分からない」
「それ先に言ってくれよ」
「全部の動物がなるわけじゃない」
「でも可能性はあるんだろ?」
「うん」
レオンはさらに一歩離れた。
エリシアが馬を見ている。
「今は大丈夫だと思う」
「その根拠は?」
「何となく」
「一番信用できないやつだ」
とはいえ、このままここに留まる理由もない。
日も少しずつ西へ傾いている。
野宿を避けるなら、エリシアが言っていた宿場跡まで進んだ方がいい。
「行こうか」
「うん」
荷物を背負う。
右腕がまだ痛む。
肩へ紐が食い込むと、さっき死獣に弾き飛ばされた時の鈍い痛みまで戻ってきた。
歩き始める。
数歩進んだところで、エリシアが振り返った。
「歩ける?」
「それくらいは平気」
「無理してない?」
「ちょっとしてる」
「じゃあ荷物持つ」
「それは――」
「貸して」
拒否する前に、背負っていた荷物の一部を取られた。
「いや、自分で持つって朝言っただろ」
「朝は怪我してなかった」
「正論で返すのやめてもらえる?」
「嫌?」
「……助かる」
結局、素直に甘えることにした。
◇
街道を北へ進む。
午後の日差しは次第に傾き、草原へ長い影を落とし始めていた。遠くの丘は金色に照らされ、その向こうには森が濃い青緑の帯になって続いている。
レオンは歩きながら、何度も自分の右手を見た。
さっきから剣の柄へ触れるたび、不思議な感覚がある。
握り方が分かる。
どの指へ強く力を入れ、どこを緩めれば刃が動くのか。
昨日までは知らなかった。
「……変だな」
「何が?」
「剣」
エリシアが視線を向ける。
「持ってると、前より馴染む」
「ダリオの記憶?」
「たぶん」
試しに柄を握る。
親指。
人差し指。
中指。
力の配分を変える。
意識しなくても手が正しい場所を探していた。
「怖い?」
エリシアが聞いた。
レオンはすぐには答えなかった。
「便利ではある」
「うん」
「さっきだって、あれがなかったら多分何もできなかった」
死獣の肩を見ることも。
攻撃を流すことも。
踏み込む場所も知らなかった。
「でもさ」
右手を開く。
「これ、俺の経験じゃないんだよな」
「うん」
「昨日まで剣なんてまともに握ったこともなかったのに、今は人を斬る時にどこを狙えばいいかまで何となく分かる」
口にした途端、背中に薄い寒気が走った。
技術だけではない。
戦場で何人もの敵を見た感覚まで残っている。
剣が身体へ入る感触。
血の臭い。
倒れた仲間を跨いで進む足。
それらが、自分自身の経験のように頭の奥へ沈んでいる。
「……これ、大丈夫なのかな」
エリシアは少し考えてから答えた。
「分からない」
「まあ、そうだよな」
「でも」
エリシアがレオンを見る。
「嫌なら、使わない方がいい」
「そう簡単かな」
「どうして?」
「もう入ってるから」
レオンは自分の頭を指差した。
「忘れようとしても、分かるんだよ。どう動けばいいか」
エリシアは黙った。
風が街道を横切り、二人の間を通り抜ける。
◇
しばらく歩いた後だった。
森へ沈みかけた太陽を見ながら、レオンは無意識に道の先へ目を向けた。
街道が緩く曲がっている。
右側には森。
左側には低い丘。
その景色を見た瞬間、口が勝手に動いた。
「第三荷車を下げろ。左翼を――」
そこで言葉が止まった。
エリシアが足を止める。
レオンも止まった。
「……え?」
自分が何を言ったのか理解するまで、少し時間がかかった。
「今、俺……」
「ダリオが言ってた?」
「たぶん」
雨の中の戦場。
荷車。
兵士。
記憶の断片が、一瞬だけ頭を横切る。
「でも、今は何も見てなかった」
死者にも触れていない。
思い出そうとしたわけですらない。
ただ道を見ていた。
それだけなのに。
口からダリオの言葉が出た。
レオンは自分の喉へ手を当てた。
「……今の俺、誰だった?」
答えは返ってこなかった。
エリシアはレオンを見ていた。
いつも静かな赤い瞳が、今は少しだけ険しく見える。
「レオン」
名前を呼ばれる。
それだけで、少し安心した。
「何?」
「レオンは、レオン」
以前にも似た言葉を聞いた。
あの時は、自分の過去について考えていた時だった。
今は意味が違って聞こえる。
「……そうだよな」
自分で答える。
それでも、すぐには歩き出せなかった。
右手には、自分の剣がある。
頭の中には、他人の剣が残っている。
どこまでが借りたものなのか。
そして、どこからが自分なのか。
レオンには、もうはっきりとは分からなかった。




