第十一話 借りた剣・前編
死獣が地面を蹴った。
黒灰色の巨体が視界いっぱいに迫り、レオンは反射的に剣を持ち上げた。
昨日教わった構えも、肩の力を抜くことも、その瞬間にはほとんど頭から消えていた。目に入ったのは裂けた口と、そこから並ぶ黄ばんだ牙だけだった。
「レオン!」
エリシアの声が飛ぶ。
「っ――!」
横へ避けようとした。
だが遅い。
死獣の前脚が剣へぶつかり、金属を殴られたような衝撃が両腕を突き抜けた。踏ん張った足が簡単に地面を離れ、レオンの身体は街道脇へ弾き飛ばされる。
「ぐっ……!」
背中から草むらへ落ちた。
肺の空気が一気に押し出され、しばらく息ができない。視界の端で空と草原がぐるりと回り、背負っていた荷物が地面へ叩きつけられた。
痛い。
肩も。
背中も。
剣を握った右手も痺れている。
「こんなの……聞いてないって……」
掠れた声を出しながら身体を起こす。
死獣はもうこちらを見ていた。
間にエリシアがいるにもかかわらず、その濁った片目はレオンから外れない。頭を低くし、地面を掻きながら次に飛びかかる機会を窺っている。
エリシアが一歩踏み込んだ。
剣が横へ走る。
死獣は後ろへ跳び、刃を避けた。巨体に似合わない速さで草の上へ着地すると、そのまま円を描くように移動してレオンへ近づこうとする。
「私を見て」
エリシアが死獣の進路を塞ぐ。
反応はない。
死獣は低く唸りながら、彼女の向こうにいるレオンだけを見ている。
「やっぱり俺目当てじゃないか……」
立ち上がろうとして、左手を地面へついた。
冷たいものへ触れた。
草ではない。
腕だった。
「あ――」
横を見る。
荷車のそばで倒れていた男。
その手首を、レオンの左手が握っている。
離さなければ。
そう思った瞬間、風景が消えた。
◇
雨だった。
冷たい雨が兜を叩いている。
足元には泥。
何十人もの男たちが怒鳴り、馬が嘶き、鉄と鉄がぶつかる音が絶え間なく続いていた。
レオンは立っている。
違う。
自分ではない。
誰かの身体の中にいる。
『第三荷車を下げろ! 道を塞ぐな!』
自分のものではない低い声が喉から出る。
目の前では兵士が二人、ぬかるみに嵌まった荷車を押していた。荷台には木箱が積まれ、その向こうでは黒い煙が雨の中へ立ち上っている。
『ダリオ! 右だ!』
名前を呼ばれた。
身体が振り返る。
獣が飛んできた。
狼に似ている。
今より少し小さいが、鋭い牙と太い前脚を持っている。
怖い。
けれど身体は逃げなかった。
視線が獣の口ではなく、肩へ向く。
右肩が沈む。
次に頭が来る。
知っている。
何度も見てきた。
『牙を見るな! 肩を見ろ!』
誰かの怒鳴り声。
いや。
違う。
自分が昔、誰かに教えられた言葉だ。
獣が飛びかかる。
真正面では受けない。
左足を半歩。
腰を逃がす。
剣の腹を鼻先へ当て、力で止めるのではなく横へ流す。
牙が肩を掠める。
空いた首へ刃を入れる。
身体が知っている。
どこを見ればいい。
どこへ足を置けばいい。
どの瞬間なら斬れる。
考える前に分かる。
『次!』
別の獣。
今度は――
◇
「レオン!」
エリシアの声で世界が戻った。
青い空。
揺れる草。
倒れた荷車。
右手の剣。
男の冷たい腕。
「……ダリオ」
知らない名前が、自然に口から出た。
考える暇はなかった。
死獣がエリシアの剣を避け、その横を抜けてくる。
真っ直ぐレオンへ。
さっきなら牙を見ていた。
今度は違った。
目が、勝手に肩を見る。
右肩が沈んだ。
次に頭が来る。
「……来る」
分かる。
なぜ分かるのか考えるより先に、左足が動いた。
半歩。
記憶の中と同じ場所へ。
死獣が跳ぶ。
レオンは剣を上げた。
「レオン、下がって!」
エリシアの声。
でも、身体は別の答えを知っていた。
真正面では受けない。
剣の腹を鼻先へ。
横へ流す。
「――っ!」
金属へ強い衝撃が走った。
腕が千切れそうになる。
記憶の中のダリオなら、もっと滑らかに受け流せていた。
レオンの身体には、そんな筋力も経験もない。
剣先が予定より下がる。
死獣の牙が左肩すれすれを通った。
「うわっ!」
風圧と獣臭が顔へぶつかる。
それでも、正面から受けたさっきとは違う。
死獣の巨体が横へ流れた。
首が見える。
斬れる。
そう分かった。
右足を踏み込む。
腰を回す。
剣を振る。
だが身体がついてこない。
「ぐっ……!」
腿の筋肉が強く引きつった。
踏み込みが浅い。
刃は死獣の首ではなく、肩口の腐った肉を浅く裂いただけだった。
それでも死獣の体勢が崩れる。
「エリシア!」
呼ぶ必要すらなかった。
白い髪が視界の横を通った。
エリシアは大きく振りかぶらない。
崩れた死獣の横へ一歩入り、僅かに剣先の角度を変えただけに見えた。
銀色の線が走る。
次の瞬間、死獣の頭が胴体から離れていた。
黒灰色の巨体が草の上を滑り、土を巻き上げながら止まる。
頭は数歩先へ転がった。
濁った目が、最後までレオンを向いていた。
◇
しばらく何も聞こえなかった。
いや、実際には風が吹いている。
草も擦れているし、遠くでは鳥の声もした。
ただ、レオンの耳には自分の鼓動ばかりが大きく響いていた。
「……終わった?」
「うん」
エリシアが剣を下ろす。
死獣は動かない。
首の切断面から血はほとんど流れず、黒ずんだ肉が見えているだけだった。
レオンはようやく息を吐いた。
途端に、全身から力が抜ける。
「痛っ……」
右腕が震えた。
肩から手首まで痺れている。
左の腿にも強い痛みがあり、膝を曲げると今にも攣りそうだった。
「座って」
「いや、大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「……はい」
素直に草の上へ座った。
エリシアがしゃがみ、レオンの腕を確認する。
「骨は?」
「分かるの?」
「折れてたら触ると分かる」
「それ、あんまり試してほしくないんだけど」
冷たい指が前腕を押していく。
「痛い?」
「そこは平気。もうちょい上……痛っ」
「ここ」
「強く押すなって」
「折れてないと思う」
「先にそう言ってくれ」
エリシアはレオンの顔を見る。
「さっきの動き、誰に教わったの?」
問いかけられ、レオンは言葉に詰まった。
「……俺じゃない」
「分かってる」
「分かるの?」
「昨日と全然違ったから」
「そこまではっきり言われると傷つくな」
軽口を返しながら、自分の左手を見る。
さっきまで、倒れた男に触れていた手。
「また見た」
エリシアの表情が少し変わった。
「記憶?」
「たぶん。ロウと同じだ」
雨。
泥。
兵士。
獣。
剣。
今も思い出せる。
それどころか、あの時身体がどう動いたのかまで分かる。
「この人……ダリオって呼ばれてた」
倒れている男を見る。
「兵士だったと思う。戦場で、さっきみたいな獣と戦ってた」
「それを真似した?」
「真似したっていうか……」
レオンはうまく説明できず、剣を持った。
立ち上がり、さっきと同じように構えてみる。
「こうやって……肩を見るんだ」
想像の中に死獣を置く。
右肩が沈む。
半歩左へ。
腰を逃がす。
頭では完全に分かっていた。
ところが足を動かした瞬間、左腿に激痛が走った。
「痛っ!」
姿勢が崩れる。
エリシアが腕を掴んだ。
「ほら」
「今のはさっきのせいだから」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何?」
エリシアは少し考え、レオンの剣を見る。
「動きは分かってる。でも、身体はレオンのまま」
レオンは黙った。
確かにそうだった。
記憶の中では、もっと深く踏み込めた。
剣を受けた腕もぶれなかった。
あの男――ダリオの身体ならできた。
だが今のレオンにはできない。
「技だけ借りた、みたいな感じか」
「たぶん」
「便利そうに見えて、結構危ないな」
「うん」
「否定してほしかった」
「危ないから」
エリシアは真顔だった。
レオンは剣を鞘へ戻し、もう一度草の上へ座った。
借りた知識に身体が追いつかない。
もしさっき、記憶のまま深く踏み込んでいたら、避けるどころか自分で脚を壊していたかもしれない。
勝ったという実感はなかった。
むしろ、自分の身体がどれだけ弱いのかを思い知らされた気分だった。




