第十話 灰の街道・後編
午後になると林を抜け、再び空が大きく開けた。
午前中より雲が増えていた。
太陽は時折その陰へ隠れ、草原を覆う光が明るくなったり暗くなったりしている。街道の西側には低い丘が連なり、その斜面には背の高い草と白い花が群生していた。
東には森が続いている。
木々の向こうから時折鳥の声が聞こえるものの、人の気配はほとんどなかった。
「この辺で一泊?」
レオンが尋ねる。
「もう少し先に宿場跡があるはず」
「跡?」
「昔は宿場だった」
「今は?」
「分からない」
「今日泊まれる場所かどうかくらい把握しててほしかったな」
「野宿でもいい」
「エリシアはな」
空を見る。
まだ日は高い。
今からならもう少し距離を稼げるだろう。
レオンは歩き続けた。
しかし、一時間ほど進んだところで街道の様子が変わり始めた。
最初に気づいたのは、鳥だった。
「……静かじゃないか?」
さっきまで聞こえていた鳴き声がない。
草原を渡る風の音だけが続いている。
レオンは足を緩めた。
「エリシア?」
「うん」
彼女も何かを感じているらしい。
腰の剣へ手が伸びていた。
少し進む。
今度は臭いがした。
湿った土とは違う。
鉄臭い。
それに、獣臭。
「何かいる?」
「いるかも」
「その答え、全然安心できないな」
レオンも剣の柄へ手を伸ばした。
今度は忘れない。
肩へ力が入ったことに気づき、意識して抜く。
昨日教わったことが、頭の中へ戻ってくる。
足。
腰。
肩。
まだ構えてすらいないのに、喉が乾いた。
街道が緩く曲がった。
その先に、何かが倒れていた。
「……荷車?」
二輪の荷車が道の端へ横倒しになっている。
片方の車輪が外れ、少し離れた草の中へ転がっていた。木箱がいくつも地面へ散らばり、中身らしい布や瓶が草の上に落ちている。
荷車を引いていたらしい馬もいた。
数メートル離れた場所に横たわっている。
茶色い身体は動かない。
首の辺りの草が黒く濡れていた。
レオンの足が止まる。
「襲われた?」
「たぶん」
エリシアが先に進む。
「待って」
「大丈夫」
「その大丈夫、あんまり信用できないんだよ」
そう言いながらも、レオンは後へ続いた。
近づくにつれて臭いが強くなる。
血の匂い。
馬の腹には大きな裂傷があり、蠅が数匹飛んでいた。
生きている動物が死んでいる。
ロウ村で見た死者とは違う。
横たわった馬からは、ただ生命が失われているように見えた。
「かわいそうに……」
思わず呟いた。
「人もいる」
エリシアが言う。
荷車の反対側。
草の中に人間が倒れていた。
レオンは慎重に近づく。
男だった。
四十代ほどだろうか。旅用の厚い服を着ており、短く刈った髪には少し白いものが混じっている。
胸元が大きく裂けていた。
血はすでに流れていない。
レオンは少し距離を取ったまま声をかけた。
「……聞こえますか?」
反応はない。
「死んでる?」
「うん」
エリシアが即答した。
この世界でその言葉を聞いても、まだ慣れない。
「じゃあ、そのうち起きるのか?」
「たぶん」
「すぐ?」
「人による」
レオンは男を見る。
ヴァルネでは、死者が普通に歩いていた。
だがこの男は起き上がらない。
「死んですぐなら、まだ戻ってないこともある?」
「ある。数時間の人もいれば、もっとかかる人もいる」
「未帰者だったら?」
「戻らない」
レオンは口を閉じた。
セラ。
リナ。
死んだまま帰らなかった人たちのことを思い出す。
この男がどちらなのか、今はまだ分からない。
「名前分かるものないかな」
男へ近づこうとすると、エリシアが腕を伸ばして止めた。
「待って」
「何?」
エリシアは倒れた男ではなく、周囲を見ている。
草。
荷車。
森。
「何かいる」
声が先ほどより低かった。
レオンの背中に緊張が戻る。
「どこ?」
「分からない」
風が吹いた。
草が大きく揺れる。
その一瞬、森の縁で黒いものが動いた気がした。
レオンは目を凝らす。
「今、あそこ……」
何もいない。
けれど、視線を戻した時、地面に妙な跡があることに気づいた。
荷車の周囲。
草が何かに踏み倒されている。
大きな足跡だった。
人間ではない。
肉球のような形。
それが、馬の周囲を何度も回っている。
「狼?」
「似てる」
エリシアが剣を抜いた。
刃が曇った午後の光を反射する。
「普通の?」
「違うと思う」
「何が違う?」
返事の代わりに、低いうなり声が聞こえた。
レオンはゆっくり振り返る。
荷車の向こう。
倒れた馬の陰から、一頭の獣が姿を現した。
狼に似ている。
ただし、レオンの知っている狼より二回りほど大きい。
背中は腰の高さ近くまであり、黒灰色の毛は泥と何か黒い液体で固まっていた。
右肩の肉が大きく欠けている。
骨まで見えている。
それなのに歩いている。
「……あれも死者?」
「死獣」
エリシアが言った。
ハルヴァンから聞いた言葉だった。
死んでも動く獣。
「本当にいるんだな……」
死獣は低く頭を下げた。
左目は濁っているが、もう片方の目はレオンを正確に捉えていた。
鼻が何度か動く。
その様子に、嫌な記憶が蘇る。
ロウ村。
四度目、五度目の鐘。
『あったかい』
『においがする』
死者たちが自分へ向いてきた時と似ていた。
「もしかして、こいつも俺が生きてるって――」
「下がって」
エリシアがレオンの前へ出る。
死獣が歯を剥いた。
片側の頬が裂けているせいで、閉じきらない顎の奥まで見える。
涎はない。
呼吸もしていないように見えた。
それでも喉の奥から、湿った低い音が漏れている。
「普通の動物も死んだらああなるの?」
「全部じゃない」
「理由は?」
「分からない」
「また謎増えたな……」
軽口を叩いたものの、声は自分でも分かるほど硬かった。
剣を抜く。
鞘と刃が擦れる音が、妙に大きく聞こえる。
昨日は訓練場だった。
木の人形を前にしていた。
今は違う。
目の前の獣はこちらを殺せる。
そして自分は、死んだ後に起き上がれる保証すらない。
「レオン」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「顔で判断するなよ」
「手、震えてる」
言われて剣を見る。
本当に震えていた。
「初めてなんだから仕方ないだろ」
握り直す。
力が入る。
昨日の声が頭の中へ蘇った。
『肩』
レオンは息を吐き、少しだけ力を抜いた。
足を開く。
右足を後ろへ。
腰を正面へ向けすぎない。
覚えている。
身体ができるかどうかは別として。
「無理に戦わなくていい」
エリシアが言った。
「私がやるから、レオンは離れてて」
「それでいいなら、最初から剣買った意味なくない?」
「生き残るために買った」
「……それ言われると弱いな」
今ここで格好をつけて死ぬ方が馬鹿だ。
レオンは一歩下がった。
死獣の耳が僅かに動く。
視線はエリシアではなく、レオンへ向いたままだった。
「なあ」
「何?」
「こいつ、俺しか見てなくない?」
エリシアも気づいていた。
「たぶん、匂い」
「生きてる匂い?」
「かもしれない」
「最悪だな」
死獣が一歩進んだ。
レオンも下がる。
靴の踵が何かへ当たった。
倒れている男の腕だった。
「っ」
反射的に足をずらす。
その僅かな動きへ、獣が反応した。
後脚が地面を掻く。
黒い毛の下で筋肉が縮む。
「レオン!」
エリシアの声。
死獣が地面を蹴った。
黒い巨体が、真っ直ぐレオンへ飛びかかってきた。




