第十話 灰の街道・前編
ヴァルネの城壁が見えなくなってから、ずいぶん歩いた気がする。
北へ延びる街道は、緩やかな丘を越えながらどこまでも続いていた。朝露に濡れていた草は太陽が高くなるにつれて乾き始め、風が吹くたび、淡い緑の波が斜面を走っていく。
振り返っても、もう灰色の城壁は見えない。
代わりに広がっているのは、青い空と草原ばかりだった。
「……本当に出てきたんだな」
レオンは歩きながら呟いた。
「ヴァルネから?」
「うん。数日前まで、あの街の存在すら知らなかったのに」
腰には昨日買った剣がある。
肩には荷物。
厚手の外套はまだ必要ないので丸めて背負っているが、水袋や食料まで加わると想像以上に重かった。
旅人らしい格好にはなった。
少なくとも見た目だけは。
「肩、痛い」
「もう?」
「剣だけならまだしも、荷物もあるからな」
「持とうか?」
エリシアが聞く。
レオンは少し迷ったあと、首を横に振った。
「いや。これくらい自分で持てないと、この先ずっとお前に荷物持ってもらうことになる」
「私は平気」
「俺が平気じゃないんだよ。精神的に」
「そう」
エリシアはそれ以上言わなかった。
彼女の荷物はレオンより少ないとはいえ、同じように旅に必要なものを持っている。それなのに歩幅は朝からほとんど変わっていない。
対するレオンは、すでに額へ薄く汗が滲んでいた。
「これ、文書庫までずっと歩くんだよな」
「たぶん」
「ハルヴァンさん、昔なら馬車で数日って言ってたぞ」
「うん」
「歩いたら?」
「もっとかかる」
「聞くんじゃなかった」
エリシアが僅かにこちらを見る。
「戻る?」
「戻らない」
即答した。
足は重いが、ヴァルネへ戻ったところでリネアの記録が増えるわけではない。
それに、あの街に留まり続けるより、今は先へ進みたかった。
何より、目的地がある。
ロウ村で目覚めた時は、自分がどこへ行けばいいのかすら分からなかった。それに比べれば、北へ向かえばいいと分かっているだけでもずいぶん違う。
街道の脇では、黄色い小さな花の間を蝶が飛んでいた。
少し先の草原には茶色い獣が二頭いて、レオンたちが近づくと長い耳を立てる。そのまま数秒こちらを見たあと、草を蹴って丘の向こうへ駆けていった。
「今の何?」
「角兎」
「ウサギ?」
「似てる」
「角あったけど」
「だから角兎」
「そのままだな」
遠ざかる後ろ姿を眺めながら、レオンは少し笑った。
鳥が飛び、虫が鳴き、獣が草原を走っている。
人間のほとんどが死んでいることを忘れれば、穏やかな世界にさえ見えた。
だからこそ、余計に分からない。
どうして人間だけが、ああなったのか。
その疑問を口にしかけたが、今聞いてもエリシアから答えが返ってくる気はしなかった。
レオンは代わりに空を見上げた。
白い雲が、ゆっくり北へ流れていた。
◇
昼前になると、街道は小さな林へ入った。
頭上を枝葉が覆い、照りつけていた日差しが急に柔らかくなる。木漏れ日が道の上に細かな模様を作り、吹き抜ける風にも湿った土と樹皮の匂いが混ざり始めた。
昨夜まで雨が降っていたらしく、街道の端にはまだ水溜まりが残っている。
そこへ鳥が降り、水浴びをしていた。
レオンたちが近づくと羽音を立てて木の上へ逃げる。
「静かだな」
レオンが言った。
「鳥いるよ」
「そういう意味じゃなくてさ。人がいない」
ヴァルネへ向かう南側の街道では、荷車や旅人を何度も見かけた。
こちらは朝からまだ数人とすれ違っただけだ。
「北へ行く人、少ないのか?」
「昔はもっと多かった」
「昔って?」
エリシアは少し考えた。
「戦争の前」
また時間の単位がおかしい。
レオンは聞き返そうとしてやめた。
どうせ具体的な年数は返ってこない。
街道の様子を見ると、確かに昔はかなり使われていたらしい。路面の両脇にはところどころ石が敷かれ、木の根元には崩れた道標も残っている。
ただし、今は草に半分埋もれていた。
道標の表面には削れた文字がある。
レオンは少し近づいて見たが、ほとんど読めない。
「文書庫の方向?」
「違うと思う」
「思う?」
「字が消えてるから」
「だったら俺と条件同じじゃないか」
エリシアは無言で先へ進んだ。
「無視するなよ」
追いかける。
しばらくして、林の中に小さな休憩所らしき場所を見つけた。
屋根だけが残った古い石造りの建物で、壁は半分ほど崩れている。近くには水の流れる細い沢があり、木陰には腰を下ろせそうな石もあった。
「休もう」
今度はレオンが言う前に、エリシアが立ち止まった。
「助かる」
「歩き方、遅くなってるから」
「そんな分かりやすかった?」
「朝より歩幅が狭い」
「よく見てるな……」
荷物を下ろした瞬間、肩が急に軽くなる。
レオンは石へ腰を下ろし、水袋を口へ運んだ。
冷たい水が喉を通る。
それだけで少し生き返った気がした。
「お前――」
口にしかけて止める。
別にレオンがエリシアをそう呼んではいけないわけではない。それでも、最近は名前で呼ぶ方がしっくりくるようになっていた。
「エリシアは水、飲まないの?」
「今はいらない」
「こういう時だけ羨ましいな」
黒パンを取り出し、干し肉と一緒に齧る。
硬い。
ヴァルネで食べた温かい料理が、すでに恋しくなった。
「旅って、食事の質が一気に落ちるんだな」
「嫌?」
「腹減ってるから食えるけど、毎日これはつらい」
「果物もある」
「それは夜に取っとく」
老婆が少し多めに入れてくれた乾燥果物だ。
エリシアが袋を見る。
「食べないの?」
「お前に――エリシアにも食わせろって言われたから」
「私は別に」
「怒られるぞ」
「ここにいない」
「そういう問題じゃない」
小さな一片を渡す。
エリシアはしばらく見つめたあと口へ入れた。
「どう?」
「甘い」
「よかったな。味覚戻ってきてるんじゃない?」
「戻ってるのかは分からない」
「前より分かるなら進歩だろ」
エリシアはもう一度袋へ視線を落とした。
レオンは笑う。
「もう一個いる?」
「……少し」
「素直になったな」
乾燥果物を一つ渡す。
エリシアは何も言わず受け取った。
◇
休憩を終えて再び歩き始めると、レオンは時々腰の剣へ手を伸ばすようになった。
昨日習った構えを思い出しながら、歩きやすい場所で何度か柄を握ってみる。
「肩」
前を歩いていたエリシアが言った。
「まだ何もしてないぞ」
「力入ってる」
言われて気づいた。
確かに、剣を握っただけで腕から肩まで固くなっている。
「昨日も言われたな」
「うん」
「こんなすぐ直るもの?」
「直らない」
「じゃあ気長に頼むよ」
エリシアが振り返る。
「毎日やれば慣れる」
「千回はやらないからな」
「五百回?」
「交渉するところじゃない」
昨日聞いた、エリシアの師匠の話を思い出す。
毎日千回。
考えただけで肩が痛くなりそうだった。
「そういえば、エリシア」
「何?」
「魔法も教えられる?」
少し前に、リネアが姿を変える魔法を使うと知った。
この世界に魔法があるなら、剣よりそちらの方が便利ではないかと今さら思ったのだ。
「使えるか分からない」
「俺が?」
「うん」
「どうやったら分かる?」
「試す」
「危なくない?」
「たぶん」
「その『たぶん』が怖いんだよ」
エリシアは少し首を傾げた。
「今は剣が先」
「まあ、それもそうか」
まだ剣すらまともに振れない。
何でも一度に覚えようとする方が無理なのだろう。
レオンは剣の柄から手を離した。
その時、林の奥で何かが動いた。
枝が折れる音。
反射的にそちらを見る。
「今の何?」
エリシアも足を止めていた。
数秒待つ。
茂みから小さな鳥が飛び出した。
「……鳥か」
息を吐く。
「レオン」
「何?」
「剣」
「え?」
「今、音がした時に握ってなかった」
「あ」
確かに。
買っただけで安心していた。
必要になった瞬間に使えなければ意味がない。
「……覚えとく」
「うん」
レオンは少しだけ、腰の剣が重く感じた。




