第九話 旅支度・後編
ヴァルネの市場は、昼が近づくにつれてますます賑やかになっていた。
通りの両側には色とりどりの布を張った露店が並び、野菜や果物、干し肉、鍋、工具、衣服まで、思いつくものは大抵売られている。香辛料を扱う店の前を通ると鼻をくすぐる強い匂いが漂い、その隣では生きた鶏が籠の中で羽をばたつかせていた。
人間は死んでいるのに、鶏は生きている。
以前ならその違和感に足を止めていたと思う。
今はまだ不思議ではあるものの、少しずつこの世界の日常として受け入れ始めていた。
「武具店は?」
「こっち」
エリシアが迷わず路地を曲がる。
「こういう道は覚えてるんだな」
「うん」
「ハルヴァンさんの言ってた通りだ」
「何が?」
「何でもない」
たどり着いた店は、派手な看板もない小さな石造りの建物だった。
入口の脇には何本かの槍や剣が立てかけられ、壁には革製の胸当てが吊るされている。
扉を開けると、金属と革、それに油の匂いが混ざって鼻へ入った。
「いらっしゃい」
奥から低い声がする。
店主は太い腕をした中年の男だった。左の頬から顎にかけて大きく皮膚が欠け、歯の一部が見えているものの、目つきは鋭く、作業台の上では小さな砥石を使って短剣を磨いていた。
「旅装か?」
男はレオンを一目見るなり尋ねた。
「分かるんですか?」
「街の人間なら、そんな火かき棒を大事そうに持ち歩かん」
「こいつ、結構働いたんですけどね」
「道具は悪くない。使い道が違うだけだ」
「正論だ……」
店主はエリシアを見る。
数秒、目が止まった。
「……あんた、どっかで見た顔だな」
「よく言われる」
「そうかい」
それ以上追及しない。
この街では、そのくらいの距離感の方がありがたかった。
「剣が欲しいです」
「使えるのか?」
「これから覚えます」
「なら軽いのでいい。見栄張って重いの持つと、最初に自分の足を斬るぞ」
店主が数本の剣を台へ並べる。
細身。
幅広。
柄に装飾のあるもの。
レオンの目は、自然と一番派手な一本へ向いた。
「これ、格好いいな」
鞘には銀色の模様が入り、柄頭には青い石までついている。
手を伸ばす。
「それはやめた方がいい」
エリシアが即座に言った。
「まだ持ってないけど」
「重い」
「見ただけで分かる?」
「うん」
レオンは試しに持ち上げた。
「……重っ」
片手で振れなくはない。
だが、これを何時間も腰に下げて歩くことを考えると、すぐに嫌になった。
店主が鼻で笑う。
「嬢ちゃんの方が分かっとるな」
「じゃあ、どれがいい?」
エリシアは並んだ剣を一本ずつ見る。
刃の厚みを確認し、柄を握り、重心を確かめていく。
最後に、飾り気のない一本を取った。
「これ」
「地味だな」
「使いやすい」
普通の革巻きの柄。
黒い鞘。
刃も特別な形ではない。
「主人公が持つ剣って、もう少し何かあるだろ……」
「主人公?」
「あ、いや、こっちの話」
日本にいた頃のゲームや漫画を思い出しただけだ。
店主が剣を受け取り、レオンへ差し出す。
「握ってみな」
言われた通りに持つ。
さっきの剣より明らかに軽い。
それでも火かき棒とは重さの位置が違い、少し手首が落ちそうになる。
「重さは?」
「これなら何とか」
「剣は持ち上げられるかじゃない。疲れた後でも振れるかだ」
店主はレオンの握りを見て顔をしかめる。
「力入れすぎだ。そんな握り方してたら十分で指が死ぬ」
「死ぬって、この街で言われると意味がややこしいですね」
「口が回るなら元気だ」
男は取り合わなかった。
職人気質らしい。
「これにします」
「悪くない選択だ」
剣だけではなく、旅用の革製胸当て、前腕を守る革具、それに厚手の外套も選んだ。
靴も、今履いているものより底が厚い旅用へ替える。
試着を終えて鏡の前へ立つと、ようやくそれらしい旅人に見えた。
「どう?」
レオンが尋ねる。
エリシアは上から下まで見る。
「火かき棒よりは強そう」
「比較対象そこ?」
「うん」
「せめて似合ってるとかない?」
「似合ってる」
「今言わせた感すごいな」
店主が作業台の向こうで笑っていた。
◇
次に食料と旅用品を揃えた。
水袋。
火を起こす道具。
簡単な毛布。
縄。
保存の利く黒パンと干し肉。
乾燥させた果物。
小さな鍋。
買う物が増えるたび、レオンの表情は微妙になっていった。
「……結構するな」
「必要だから」
「分かってる。でも全部エリシアの金なんだよな」
「気にしなくていい」
「俺が気にするんだよ」
露店の老婆が二人の会話を聞いて、皺だらけの顔を綻ばせた。
「若いの、借りられる時に借りときな。返せる頃に返せばええ」
「そういうものですか?」
「金なんぞ墓へ持っていけんからのう」
そこで老婆は自分で少し考えたあと、肩を揺らして笑った。
「いや、わしらの場合は墓から帰ってきとるから、ちと違うか」
「自分で言って自分で否定するんですね」
「長く死んどるとな、細かいことはどうでもようなる」
老婆は乾燥果物を一つ余分に袋へ入れた。
「道中で食べな」
「ありがとうございます」
「そっちの白い娘にも食わせてやりなよ。細いんじゃから」
「私は食べなくても――」
「若い娘がそんなこと言うもんじゃない」
エリシアが黙った。
レオンは笑いをこらえる。
「エリシアでも押し切られることあるんだな」
「……あるみたい」
珍しく少し困ったような顔をしていた。
◇
買い物を終えた後、エリシアは青鹿亭へ戻らず、城壁近くの空き地へレオンを連れていった。
昔は兵士の訓練場として使われていたらしく、土が踏み固められた広い場所がある。片隅には腐りかけた木の人形が何体か並び、その向こうには高い城壁がそびえていた。
壁の上を衛兵が歩いている。
空には白い雲が流れ、城壁の外から吹いてくる風が草の匂いを運んできた。
「何するの?」
「剣」
「今日から?」
「明日出るなら今日しかない」
「ごもっともです」
レオンは買った剣を抜いた。
昼の光を受け、刃が細く光る。
手にした途端、少し緊張した。
火かき棒とは違う。
本当に人を斬れる道具だ。
「まず構えて」
「こう?」
見よう見まねで剣を両手に持つ。
エリシアが数秒見た。
「違う」
「早いな」
「足が近すぎる。右足を少し後ろ」
言われた通りに動かす。
「腰、正面に向けすぎ。肩に力が入ってる」
「注文多くない?」
「今三つだけ」
「これから増えるやつだ」
エリシアはレオンの横へ立ち、自分の剣を抜いた。
「見る?」
「お願いします」
構える。
それだけだった。
派手な動きはない。
だが、レオンと違って身体のどこにも無駄な力が入っていないのが分かった。
足元は安定し、剣先は僅かに相手へ向いている。
「こう」
「簡単そうに見えるんだけど」
「やってみて」
真似する。
「違う」
「一秒だったぞ」
「肩」
力を抜く。
「今度は腰」
「同時に言ってくれない?」
「一つずつの方が分かりやすいと思った」
「それはそうなんだけど……」
何度か繰り返す。
構えだけで腕が疲れてきた。
「剣って、もっとこう、振り方から教えるんじゃないの?」
「立てないと振れない」
「ぐうの音も出ない」
ようやくエリシアが頷いた。
「少し良くなった」
「少し?」
「最初より」
「褒め方が厳しいな」
今度は剣を上から下へ振る。
一回。
二回。
三回。
十回を超えた頃には肩が重くなり、十五回目で息が乱れ始めた。
「十七」
「数えてたの?」
「うん」
「何で十七?」
「今、十七回だから」
「そういうことじゃなくて」
十八回目を振ろうとしたところで剣先がぶれた。
エリシアが止める。
「今日はここまで」
「まだいける」
「疲れて形が崩れてる。続けると変な癖がつく」
レオンは剣を下ろす。
腕が重い。
「お前――じゃなくて、エリシアは、誰に教わったんだ?」
聞いてから、自分で言い直したことに少し違和感を覚えたが、そのまま続ける。
「そんなに最初から強かったわけじゃないだろ?」
「先生がいた」
「どんな人?」
エリシアは少し遠くを見るような目をした。
「厳しい人」
「やっぱり?」
「私よりずっと」
「それは嫌だな」
「毎日、剣を振らされた」
「何回?」
「千回」
「今の十七回で腕が死にそうなんだけど」
「慣れる」
「慣れたくない気もしてきた」
少し笑ったあと、レオンは尋ねる。
「その先生、今は?」
風が城壁の上を抜けた。
エリシアの白い髪が揺れる。
「もう会えない」
短い返事だった。
レオンは、それ以上聞かなかった。
◇
その夜、青鹿亭の部屋には買った荷物が並んでいた。
外套。
剣。
革鎧。
食料。
地図。
ロウ村で目を覚ました時には何一つ持っていなかったのに、今では旅へ出るための道具が一式揃っている。
ベッドへ腰を下ろしながら、レオンは剣を膝へ置いた。
「本当に行くんだな」
「うん」
「エリシアはいいの?」
「何が?」
「ヴァルネに残りたいとか。リネアのこともあるし、滅鐘教団もまだこの辺にいるかもしれない」
エリシアは少し考えた。
「文書庫に行きたい」
「どうして?」
「確認したいことがあるから」
「リネア?」
「それも」
それ以上は言わない。
だが以前のように完全に拒んでいる感じではなかった。
「分かった」
レオンは剣を鞘へ戻した。
「じゃあ明日、北へ」
「うん」
「何も起きないといいな」
「たぶん起きる」
「そこは嘘でも大丈夫って言ってくれよ」
「…大丈夫」
「今の間で全然安心できない」
エリシアの口元が僅かに動いた。
「笑っただろ」
「笑ってない」
「最近のそれ絶対嘘だからな」
レオンはベッドへ倒れ込んだ。
◇
翌朝。
まだ街の半分が眠っているような時間に、二人は青鹿亭を出た。
東の空が薄く明るくなり始めたばかりで、通りには朝靄が低く漂っている。店の扉はほとんど閉じたままだが、パン屋の煙突からはすでに煙が上がり、遠くでは鶏の鳴き声が聞こえていた。
マルタとリリが入口まで見送りに出ている。
「気をつけて行きな」
マルタが腕を組んだまま言う。
「特にあんた」
「俺?」
「そうさ。エリシアは放っておいても帰ってきそうだけど、あんたは目を離したら穴にでも落ちそうだからね」
「そんな信用ないですか?」
「この数日を思い返してみな」
「……否定できない」
リリが小さな袋を差し出した。
「これ」
「何?」
「パン。おばあちゃんが作った」
「私が作ったって言うんじゃないよ。店のだ」
マルタが訂正する。
リリは笑った。
「ありがとう。大事に食べるよ」
「ちゃんと帰ってきてね」
レオンは少しだけ返事に詰まった。
「うん。帰ってくる」
エリシアもリリを見る。
「またね」
「エリシアお姉ちゃんも」
「うん」
二人は青鹿亭を離れた。
街の中心を抜ける。
勇者像のある広場も、朝はまだ人が少ない。
石像の足元には昨日の白い花が残っていた。
レオンは一度だけ振り返る。
「何?」
エリシアが尋ねる。
「いや。何となく」
数日前、この街へ入った時。
あの像を見て、自分の知らない世界へさらに迷い込んだ気がした。
今は少し違う。
分からないことは増えた。
それでも、次にどこへ行けばいいかは分かっている。
北門へ向かう。
城壁が近づくにつれて街の家々は少なくなり、代わりに厩舎や倉庫が増えていった。馬の鼻息や荷車を準備する音が朝の静けさの中へ響いている。
門を抜ける。
厚い城壁の影から外へ出た瞬間、視界が大きく開けた。
北へ続く街道。
朝露に濡れた草原。
その先には濃い緑の森があり、さらに遠くには青みがかった山並みが霞んでいた。
空は広い。
ヴァルネの中では建物に切り取られていた空が、ここでは地平線近くまで続いている。
風が吹いた。
草が一斉に揺れ、どこか近くで鳥が飛び立つ。
レオンは腰の剣を確かめた。
「行くか」
「うん」
二人は北へ向かって歩き始めた。
目指すのは、旧王立文書庫。
歴史から一人の名前が消される前の記録が、本当に残っているかは分からない。
それでも今は、立ち止まっていても何も変わらない。
ヴァルネの城壁が少しずつ遠ざかっていく。
レオンは一度だけ振り返り、それから前を向いた。
北へ延びる街道の先で、朝の森が静かに待っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




