第九話 旅支度・前編
翌朝、ヴァルネの空は久しぶりにすっきりと晴れていた。
青鹿亭の二階から外を見ると、薄い雲が東の空に残っているものの、その向こうから差し込む朝日が石造りの屋根を淡い金色に染めている。昨日まで濡れていた石畳もほとんど乾き、通りでは店を開けるために木戸を外す音や、荷車の車輪が石を転がる音が響いていた。
レオンは窓枠へ腕を置き、少し遠くに見えるヴァルネの城壁を眺めた。
この街へ来て、まだ数日しか経っていない。
それなのに、ロウ村で目を覚ました時よりずっと多くのことを知った。
死者にも普通の生活があること。
死んだ後にも、もう一度死ぬことがあること。
死んでも戻ってこない「未帰者」がいること。
滅鐘教団。
そして、歴史から名前を消されたリネア。
分かったことを並べてみても、全体像は少しも見えてこない。むしろ、知れば知るほど霧が濃くなっているような気さえした。
「考え事?」
背後からエリシアの声がした。
振り返ると、彼女はいつも通り窓際から少し離れた椅子に座っている。
「昨日の記録のこと。リネアの名前を消した奴がいるなら、別の場所には元の記録が残ってないかなって」
「記録庁にはなかった」
「ヴァルネには、だろ?」
エリシアがレオンを見る。
「別の街?」
「そういうこと。戦争中の記録って、全部ここで作ってたわけじゃないだろ」
昨日、古い帳簿を何冊も見ているうちに気づいたことだった。
記録によって紙質も筆跡も違う。後から写されたものがあるなら、その元になった文書がどこかに存在したはずだ。
「昨日のじいさんに聞いてみよう」
「ハルヴァン?」
「名前知ってたの?」
「前に会ったことがある」
「……何年前?」
エリシアは少し考えた。
「覚えてない」
「聞いた俺が悪かった」
二人は部屋を出た。
◇
朝の広場には、すでに多くの人が集まっていた。
夜には暗く沈んでいた建物の壁も、朝日を受けると石の一つ一つまで見える。二階の窓から布団を干している女がいる一方で、路地の角では片腕のない男が露店の骨組みを組み立てていた。
広場の中央には、変わらず勇者エリシアの石像が立っている。
像の足元には、昨日にはなかった白い花が数本置かれていた。
誰かが供えたのだろう。
レオンはその花を見てから、隣を歩くエリシアへ視線を移す。
「自分の墓に花が増えてるぞ」
「そうみたい」
「何か思わない?」
「綺麗だと思う」
「そこ?」
本人にとっては、墓であることより花そのものの方が重要らしい。
レオンは苦笑しながら記録庁へ向かった。
◇
昨日と同じ受付には、眼鏡を掛けた老人が座っていた。
机には修繕途中の本が広げられ、細い指で破れた紙の端へ糊を塗っている。
「また来たか」
老人は顔を上げるなり、少し呆れたように言った。
「昨日だけで足りんかったかの」
「すみません。また聞きたいことがあって」
「若いもんはせっかちじゃな。古い記録というものは、急かしたところで喋りゃせんぞ」
昨日はほとんど事務的な会話しかしていなかったが、改めて話してみると想像以上に年寄りらしい人だった。
「ハルヴァンさん、でしたよね」
「ほう。名を覚えておったか」
「エリシアに聞きました」
ハルヴァンの目が隣へ向く。
「そちらはわしのことを覚えておったのか?」
「名前だけ」
「相変わらずじゃのう」
「みんなそれ言いますね」
レオンが言うと、ハルヴァンは喉の奥で笑った。
「そりゃあ言うとも。昔からこの娘は、人の名前より道の方をよく覚えとる」
「道?」
「一度通った山道は何十年経っても間違えんくせに、昨日会った人間の名は忘れる。妙な娘じゃよ」
エリシアは否定しなかった。
「それで、今日は何じゃ」
ハルヴァンが眼鏡を少し持ち上げる。
レオンは昨日見つけた、リネアの名前が削られていた記録について説明した。
「ヴァルネ以外に、もっと古い記録が残ってる場所ってありませんか?」
「ほう……」
ハルヴァンは椅子へ深く座り直した。
「原本を探したい、ということか」
「はい。昨日見たのが写しなら、書き換えられる前のものがどこかにあるかもしれない」
老人は白い眉を寄せ、しばらく机を指で叩いていた。
「王立文書庫」
「王立?」
「今はもう王国などないがの」
ハルヴァンは立ち上がり、背後の棚から古い地図を一枚取り出した。
机へ広げる。
紙は黄ばんでおり、折り目の一部は今にも破れそうだった。
「ヴァルネから北へ行ったところに、旧王都時代の文書庫がある。正しくは旧王立文書庫。戦争中、王都が何度も火災や襲撃に遭ったせいで、重要な記録の一部を街の外へ移したのじゃ」
太い指が地図の北側をなぞる。
ヴァルネ。
街道。
森。
丘陵地帯。
その先に小さな四角い印があった。
「ここですか?」
「ああ。昔なら馬車で数日といったところじゃな。今の道がどれほど残っとるかは知らん」
「記録はまだある?」
「さてのう」
ハルヴァンが肩を竦める。
「百年以上前から、まともに管理されとらん。建物そのものが残っておるかさえ怪しい。じゃが、戦時中に運び込まれた原本があるとすれば、そこが一番可能性は高い」
レオンは地図を見る。
「魔王討伐の記録も?」
「あるかもしれん。勇者一行に関する軍の報告書も、最初は王都へ送られておったはずじゃ。後からヴァルネへ写された記録より古いものが残っとれば……まあ、昨日見つけた削り跡の前が分かるかもしれんの」
確証はない。
だが、初めて具体的な行き先ができた。
「行ってみよう」
レオンが言うと、ハルヴァンが片方の眉を上げた。
「軽く言うのう」
「危ないですか?」
「街道を歩くのに安全も危険もあるか。昔より人通りは少ないし、獣も出る。死獣の噂もあるぞ」
「死獣?」
「死んでも動く獣じゃ。人間ほど多くはないがな」
レオンは顔をしかめた。
「動物まで?」
「全部ではない。むしろ珍しい方じゃ。それでも出会えば面倒じゃぞ。死人のわしらなら噛まれても腹が立つ程度で済むが――」
そこでハルヴァンの視線がレオンへ向いた。
レオンは思わず身構える。
「……何です?」
「いや。若い旅人は気をつけろ、というだけじゃ」
気づかれているのか。
分からない。
ハルヴァンはそれ以上何も言わず、地図を折り畳んだ。
「持っていけ」
「いいんですか?」
「写しじゃ。どうせ棚で埃を食っとるだけよ」
レオンは地図を受け取る。
「ありがとうございます」
「礼なら無事に戻ってから言え。若い頃の旅は、戻ってきて初めて旅になるもんじゃ」
「……何か格好いいですね」
「長く生きとると、たまにはそれらしいことも言える」
ハルヴァンが笑った。
レオンもつられて笑い、地図を服の内側へしまった。
◇
記録庁を出ると、太陽はだいぶ高くなっていた。
朝の冷たさは薄れ、広場には暖かな光が落ちている。石畳の上を小さな鳥が跳ね、パン屋の前では客が列を作っていた。
「北か」
レオンは歩きながら地図を思い出す。
「遠い?」
「歩けば何日か」
「何日かって、すごく幅があるな」
「道によるから」
「そして俺、何も持ってないんだよな」
火かき棒を見る。
ここまで何度も役に立ってはいる。
しかし、死獣が出る道へこれ一本で向かうのはさすがに不安だった。
「装備、買った方がいい?」
エリシアが言う。
「むしろ買わない選択肢ある?」
「お金」
「あ」
完全に忘れていた。
レオンは自分の懐を探る。当然ながらほとんど入っていない。
「……そうだった」
「貸すよ」
「また?」
「うん」
「俺の借金、着実に増えてない?」
「数えてない」
「それが一番怖いんだけど」
エリシアは少し首を傾げる。
「返さなくてもいい」
「いや、それは駄目だ。いつか返す」
「どうやって?」
「それは……これから考える」
「考えてないんだ」
「今言っただろ、これからって」
市場へ向かいながら、レオンは少し笑った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




