第八話 消された名前・後編
翌朝のヴァルネは、薄い霧に包まれていた。
青鹿亭を出ると、石畳は夜露で濡れ、建物の屋根や煙突の輪郭が白い霞の向こうへぼやけている。朝市へ向かう荷車がゆっくり道を進み、その車輪が濡れた石を踏むたびに低い音を立てていた。
通りの端では、小さな鳥が水溜まりで羽を洗っている。
近づくと一斉に飛び立ち、霧の向こうへ消えた。
「昨日より寒いな」
「少し」
「お前も分かるんだ」
「温度は分かる」
「寒くはない?」
「平気」
「やっぱりずるいな」
二人は街の中央へ向かった。
目的地は、衛兵から教えてもらったヴァルネの記録庁だった。
広場を通る。
中央には、あの勇者像が立っている。
『勇者エリシア、ここに眠る。』
石碑の文字は変わらない。
その前を本人らしき少女が普通に歩いていく。
レオンは何度見ても慣れそうになかった。
「なあ」
「何?」
「毎回ここ通るの、気まずくない?」
「何が?」
「自分の墓の前だぞ」
「慣れた」
「慣れるんだ……」
霧の中に立つ石像を振り返る。
像の剣先には小さな水滴が溜まり、朝の光を反射していた。
◇
記録庁は広場から少し離れた場所にあった。
灰色の石造りの建物で、正面には太い柱が四本並んでいる。入口の脇には古い木が一本立ち、黄色くなり始めた葉が風に揺れていた。
中へ入ると、外より少し暖かい。
高い天井まで棚が並び、その中には紙束や革張りの冊子、木札がぎっしり収められていた。
紙と埃の匂いがする。
窓から差し込む朝の光の中を、細かな埃がゆっくり舞っていた。
「すごい量だな」
レオンは思わず上を見上げる。
棚には番号が振られ、壁には年代ごとの案内板がある。
「これ全部、この街の記録?」
「一部だと思う」
「一部?」
この世界がどれだけ長く続いているのか、また少し怖くなった。
受付には眼鏡をかけた老人がいた。
頭頂部の皮膚が一部失われ、白い骨が見えているが、手元では丁寧に本を修繕していた。
「何を探している?」
「魔王討伐の時の勇者一行について調べたいんです」
老人の手が止まった。
「勇者一行?」
「はい。特にリネアっていう人」
老人は少し眉を寄せた。
「聞いたことがないな」
レオンはエリシアを見る。
彼女の表情は変わらない。
「でも、当時の記録は残ってますよね?」
「戦時記録ならある。古いものになるが」
「見せてもらえます?」
「閲覧だけなら」
老人は席を立ち、奥へ続く扉を開けた。
◇
案内された部屋は、表の閲覧室よりさらに静かだった。
窓は細く、壁の大半を棚が埋めている。
老人が大きな帳簿を一冊、机へ置いた。
「魔王討伐戦末期の記録だ」
表紙には何度も補修した跡があり、角は布で補強されていた。
開くと、紙は茶色く変色している。
「触る時は慎重にな」
「分かりました」
レオンは椅子へ座り、最初の頁から目を通した。
日付。
戦況。
移動した部隊。
失われた街。
補給路。
負傷者。
死者。
文字を追うだけで、当時の戦争の大きさが少しずつ見えてくる。
「……相当ひどかったんだな」
ある街は一晩で陥落。
別の地域では数万人が避難。
道が使えなくなり、食料が届かなかったという記録まである。
その中に、勇者についての項目があった。
「これだ」
レオンが指で追う。
『勇者一行、北部防衛線を突破』
次の記録。
『勇者エリシア、魔族将を討伐』
さらに頁をめくる。
やがて、一行の構成員をまとめた頁が出てきた。
「エリシア……」
名前がある。
役割や簡単な記録も残っている。
その下。
一人。
もう一人。
そして途中で、妙なものを見つけた。
「……何だこれ」
一行分の記録の途中に、不自然な空白がある。
いや、空白ではない。
紙そのものが削られている。
名前があったはずの場所。
そこだけ表面を刃物のようなもので何度も擦った跡が残り、紙が薄く毛羽立っていた。
「エリシア」
呼ぶ。
彼女も覗き込む。
「これ……誰かの名前あったよな?」
少しの間。
「うん」
「リネア?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、お前一緒にいたんだろ」
エリシアは削られた部分を見つめている。
「ここは、リネアだったと思う」
レオンは周辺を確認する。
行の数。
記録の順番。
どう考えても一人分だけ削られている。
「でも何で名前だけ削るんだ?」
「分からない」
「他の本も見よう」
レオンは老人へ追加の記録を頼んだ。
◇
二冊目。
三冊目。
年代が新しくなるほど、記録は綺麗になっていった。
そして、奇妙なことにも気づいた。
「ない」
レオンは新しい写本の頁を見る。
勇者一行の名前が載っている。
エリシア。
他の仲間たち。
しかし、最初からリネアの欄そのものが存在しない。
「古い方は名前を削ってる。でも、後から写された方は……」
「最初からいない」
エリシアが言った。
「そういうことだよな」
レオンは古い記録と新しい記録を並べる。
最初の記録には、確かに一人分の場所があった。
その名前だけが削られた。
後世の写本では、削られた一行そのものが詰められ、まるで最初からその人物がいなかったように作り直されている。
偶然の傷ではない。
誰かが消した。
「いつから?」
レオンは日付を確認する。
戦争中の記録ではまだ痕跡がある。
魔王討伐後の整理記録では、すでに名前がない。
「魔王を倒した後……」
声に出す。
その瞬間。
「違う」
エリシアが呟いた。
「え?」
彼女の顔を見る。
赤い瞳が古い帳簿へ向けられている。
「何が違う?」
「魔王を倒した時には――」
エリシアの言葉が止まった。
レオンは待つ。
「倒した時には、何?」
答えは出ない。
「エリシア」
「……まだ言えない」
今までなら、苛立っていたと思う。
だが今回は少し違った。
彼女の表情が、いつものように単に黙っている顔には見えなかった。
思い出している。
そして、その記憶そのものを怖がっているようにも見える。
「分かった」
レオンはそれ以上聞かなかった。
代わりに、削られた頁を見つめる。
「でも、一つだけ聞かせて」
「何?」
「リネアは、本当にいたんだよな?」
「いた」
即答だった。
「一緒に旅した?」
「うん」
「魔王を倒しに?」
「うん」
それだけで十分だった。
少なくとも、昨日見た女は突然現れた謎の存在ではない。
エリシアと共に旅をした人間。
そして何者かによって、歴史から消された人物。
「となると……」
レオンは椅子へもたれた。
「昨日のリネアが本物なら、何でお前の姿をしてるのか。何で滅鐘教団の印を持ってるのか。それに、誰が記録を消したのか」
「うん」
「また増えたな」
「何が?」
「分からないこと」
思わず笑う。
ロウを出れば何かが分かると思った。
ヴァルネへ来ても同じだった。
答えを一つ見つけるたび、奥からさらに大きな疑問が出てくる。
レオンは机へ広げた記録を見る。
紙は古く、文字も薄れている。
それでも、削られた場所だけは妙に生々しかった。
人は死んでも残る世界。
名前も、思い出も、仕事も、家族も抱えたまま何十年、何百年と続いていく世界で。
一人だけ、存在した証拠そのものを消されている。
「死んだんじゃないんだな」
レオンが呟く。
「何?」
「リネア。少なくとも、普通に死んだだけなら記録を消す必要ないだろ」
エリシアは何も答えなかった。
その沈黙を残したまま、二人は記録庁を出た。
◇
外へ出ると、朝の霧はほとんど消えていた。
青くなった空には白い雲が流れ、記録庁の前に立つ木から一枚の葉が落ちてきた。
風に揺れながら石畳へ落ちる。
通りの向こうでは果物屋が店を開き、籠の中へ赤い実を並べていた。
「少し待って」
エリシアが突然そちらへ向かった。
「どうした?」
店先へ行き、小さな赤い果実を一つ買って戻ってくる。
リンゴに似ているが、少し細長い。
「食べるの?」
「昨日のスープで、少し味が分かったから」
「試したくなった?」
「うん」
意外だった。
エリシアは果実を一口齧る。
しゃり、と乾いた音がした。
「どう?」
しばらく噛む。
「……甘い」
「昨日より即答だったな」
「酸っぱいのも少し」
「普通に味分かってるじゃん」
「前より分かる気がする」
レオンは少し嬉しくなった。
「一口ちょうだい」
エリシアが果実を見る。
それから、そのまま差し出してきた。
「そこ齧っていいの?」
「嫌?」
「俺は別に」
一口齧る。
確かにリンゴに近い。
瑞々しく、甘さのあとに少し酸味が残った。
「うまいな」
「うん」
エリシアの口元が僅かに動く。
「今度こそ笑っただろ」
「笑ってない」
「絶対笑った」
いつものやり取りだった。
それだけで、記録庁の重たい空気が少し遠ざかった気がした。
◇
青鹿亭へ戻る途中、レオンは自分の手を見る。
日本にいた頃とは違う若い手。
今も、自分が誰なのか完全には分からない。
過去を知る者はいるのに、誰も全部は教えてくれない。
記録だって消される。
記憶だって失われる。
もし自分についても、同じように何かが消されているのだとしたら。
「エリシア」
「何?」
「俺が昔、ろくでもない奴だったらどうする?」
エリシアの足が止まった。
「急にどうしたの?」
「リネアの記録見てたらさ。誰かが過去を消したり、逆に過去だけで誰かを決めたりするのって、結構怖いなと思って」
日本での自分。
この世界に来る前の自分。
それより前に何かがあるのかもしれない。
「もし全部思い出して、今の俺と全然違ったらどうなるんだろうな」
半分は独り言だった。
エリシアはしばらく黙っていた。
そして、いつもより少しゆっくり答えた。
「今のレオンは、今のレオン」
レオンは彼女を見る。
「過去が違っても?」
「うん」
「俺が悪い奴でも?」
「それは怒る」
「そこは怒るんだ」
「でも、レオンはレオンでいい」
風が通りを抜けた。
屋根から落ちた水滴が石畳へ落ち、近くの木では鳥が一羽鳴いている。
レオンは少しだけ笑った。
「……ありがとな」
「何が?」
「何でもない」
今度は自分が話をそらした。
エリシアが少し首を傾げる。
二人は再び歩き始めた。
その後ろで、勇者エリシアの石像が朝の光を受けていた。
歴史に残された勇者。
歴史から名前を消された仲間。
そして、過去を失った自分。
どれも同じ街にありながら、まだ一つにも繋がらない。
ただレオンには、昨日までより少しだけ確信があった。
リネアの名前が消されたことには、理由がある。
そしてその理由は、おそらく魔王が倒された後に起きた何かと繋がっている。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




