第八話 消された名前・前編
青鹿亭へ戻った頃には、ヴァルネの夜もだいぶ深くなっていた。
大通りに並ぶ店の半分ほどはすでに戸を閉め、昼間は人で埋まっていた石畳にも空いた場所が目立つ。まだ営業している酒場からは笑い声が漏れ、酔った男たちが肩を組んで歩いていたが、一本裏の道へ入るだけで街は急に静かになった。
頭上には雲の切れ間から月が覗き、濡れた屋根を薄い銀色に照らしている。煙突から立ち上る煙は夜風に流され、建物の隙間へ消えていった。
レオンは少し前を歩くマルタの背中を見た。
無事に戻ってこられた。
その事実を何度確認しても、胸の奥に残っていた緊張はなかなか消えない。
「本当に大丈夫ですか?」
「何回聞くんだい」
「いや、だって」
「手も足もある。灰にもなってない。それで十分だろ」
マルタは振り返りもせず答えた。
声にはいつもの勢いが戻っている。
「むしろ、あんたの方がひどい顔してるよ」
「俺?」
「今にも倒れそうだ」
言われて初めて、自分の身体の重さを意識した。
街中を走り回り、倉庫では何が起こるか分からないまま緊張し続けていた。危険がなくなった途端、脚の疲れも空腹もまとめて戻ってきたらしい。
隣を歩くエリシアを見る。
こちらは相変わらず平然としている。
「……お前、ずるいな」
「何が?」
「何でもない」
青鹿亭の看板が見えた。
暗い通りの中で、青く塗られた鹿だけが入口の灯りを受けて浮かんでいる。
扉を開けた瞬間。
「おばあちゃん!」
リリが駆けてきた。
マルタの腰へ勢いよく抱きつく。
「おっと」
マルタが身体を受け止める。
「心配かけたね」
「どこ行ってたの!」
「ちょっと散歩だよ」
「嘘!」
「バレちまったかい」
怒っているのか泣きそうなのか分からない顔で、リリはマルタの服を握っていた。
レオンは少し離れた場所からその様子を見る。
死者。
そう分かっている。
マルタの身体は冷たいだろうし、リリの胸にも鼓動はない。
それでも、目の前にあるものは家族の姿にしか見えなかった。
ミアのことを考える。
ここには昨日まで、もう一人いた。
同じ場所で笑っていた。
レオンは視線を外した。
「レオン」
エリシアの声がした。
「何?」
「お腹鳴った」
「聞こえてた?」
「うん」
「こういう時くらい黙っててくれよ」
思ったより大きな音だったらしい。
マルタまでこちらを見る。
「そういえば、あんたたち夕飯まだだろ」
「地下入って、走り回って、戦闘見て、そのまま帰ってきました」
「忙しい一日だったねえ」
「他人事みたいに言いますけど、半分くらいマルタさんのせいですからね」
「助けに来たのはあんただろ」
「それはそうですけど」
マルタが笑った。
「座ってな。何か出してやるよ」
「今日は俺が払います」
「金あるのかい?」
「……エリシアから借ります」
「結局人の金じゃないか」
「そこは触れないでください」
食堂の隅に座る。
暖炉にはまだ火が残っていた。
赤くなった薪が時々崩れ、ぱちりと小さな火の粉を飛ばす。窓の外では夜風が看板を揺らしていたが、分厚い壁に囲まれた店内は静かで暖かかった。
しばらくすると、マルタが大きな器を二つ運んできた。
「二つ?」
レオンが尋ねる。
「一つはそっちの白い子だよ」
「私、いらない」
「いいから食べな。代金はいらない」
エリシアは器を見る。
中には肉と根菜を煮込んだスープが入っていた。表面には油が薄く浮き、刻んだ緑色の香草が散らしてある。
湯気が上がるたび、肉と香辛料の匂いが鼻へ届いた。
「……俺は遠慮なく」
レオンはスプーンを取った。
一口食べる。
温かい。
少し濃い味だが、今の身体にはむしろちょうどよかった。
「うまい……」
「大げさだねえ」
「今日ほぼ何も食ってないんですよ」
夢中で二口目を食べてから、向かいを見る。
エリシアはまだスプーンを持っていなかった。
「食べないの?」
「必要ない」
「必要なくても食べられるだろ」
「味、あまり分からない」
「前にパンは塩辛いって言ってたじゃん」
「少しは分かる」
「じゃあ少し食べてみたら?」
エリシアはスープを見る。
少し迷ったあと、スプーンを持った。
湯気の立つスープを少量掬い、口へ運ぶ。
レオンは何となくその様子を見ていた。
「どう?」
エリシアはすぐには答えなかった。
もう一口。
「……温かい」
「味じゃないな」
「少し甘い」
レオンも改めて味を確かめる。
根菜の甘みだろう。
「分かるじゃん」
「少し」
エリシアがもう一口食べた。
ほんの僅かだが、表情が柔らかくなった気がする。
「美味しい?」
聞くと、エリシアは考え込んだ。
「まだ分からない」
「そこまで慎重に答えること?」
「でも、嫌いじゃない」
それで十分だった。
レオンは笑いながら自分のスープへ戻った。
◇
食事が終わる頃には、宿の客もほとんど部屋へ戻っていた。
マルタはリリを二階へ寝かせ、食堂にはレオンとエリシアだけが残った。
暖炉の火も小さくなっている。
レオンは机の上へ、倉庫で拾った銀片を置いた。
逆さまの鐘。
裏側には剣と翼。
「もう一度確認するけど、この剣と翼の印は勇者一行のものなんだよな?」
「うん」
「リネアも一緒にいた?」
「いた」
今回は、エリシアはすぐに答えた。
レオンは少し驚く。
「どんな人だった?」
エリシアの視線が銀片へ落ちる。
「よく喋った」
「俺より?」
「レオンより」
「相当だな」
「嘘も上手だった」
「急に評価落ちたけど」
「でも、悪い人ではなかった」
エリシアの声がほんの少し柔らかくなる。
その変化を、レオンは聞き逃さなかった。
「仲良かった?」
「……たぶん」
「また、たぶんか」
「昔のことだから」
昔。
エリシアがそう言う時、その期間がどれくらいなのかレオンには分からない。
「リネアは、元々あんな顔じゃないんだよな?」
「違う」
「黒い髪で、灰色の目?」
エリシアが顔を上げた。
「見えたの?」
「一瞬だけ。頬に傷もあった」
「それがリネア」
「じゃあ何でお前の姿をしてたんだ?」
「リネアは姿を変える魔法を使う」
「魔法」
異世界なのだから存在していてもおかしくない。
それでも、初めてはっきりその言葉を聞いた気がした。
「本当に魔法あるんだな」
エリシアがレオンを見る。
「今さら?」
「いや、今まで死人とか鐘とかの方が強すぎて、そっちまで頭回ってなかった」
「あるよ。魔法」
「もっと早く言ってほしかった」
「聞かなかったから」
「その理屈で行くと、俺が聞いてない重要情報まだ百個くらいあるだろ」
エリシアは否定しなかった。
「否定してくれよ」
思わずため息が出る。
「で、リネアが姿を変えられるのは分かった。でも、何で今お前の顔なんだ?」
答えはなかった。
エリシアにも分からないらしい。
「それに、この銀片」
レオンは指先で裏返した。
勇者一行の印。
そして滅鐘教団の印。
「リネアが教団に入った?」
「分からない」
「昔から関係してた可能性は?」
「知らない」
「じゃあ記録を調べよう」
「記録?」
「明日。お前たちが魔王を倒しに行った時の記録が街にあるなら、リネアについても何か残ってるだろ」
エリシアが黙る。
「嫌?」
「……少し」
意外な返事だった。
「何で?」
「昔のことだから」
「思い出したくない?」
少し長い沈黙。
「分からない」
いつもの言葉だった。
けれど今回だけは、本当に分からないのだろうと感じた。
「じゃあ俺一人で――」
「行く」
「無理しなくても」
「一緒に行く」
赤い瞳がまっすぐレオンを見る。
「分かった」
それ以上は何も言わなかった。
◇
二階の部屋へ戻った。
窓を開けると、夜の冷たい風が少しだけ入ってくる。
ヴァルネの街にはまだ灯りが残っていた。
屋根の向こうには高い塔。
そのさらに奥には城壁。
城壁の外は真っ暗で、遠くの森も山も夜へ溶けている。
レオンはベッドへ横になった。
「……今日はさすがに疲れた」
「うん」
「お前、今日も寝ないの?」
「たぶん」
「死者ってみんなそうなの?」
「寝る人もいる」
「お前は?」
「必要ない」
「便利だなあ」
目を閉じる。
けれど頭はなかなか静かにならなかった。
リネア。
滅鐘教団。
未帰者。
自分を知る者たち。
そして、エリシアが隠していること。
「なあ」
「何?」
「俺が寝てる間に消えたりしないよな」
言ってから、少し子供っぽかったかと思った。
だがエリシアは笑わなかった。
「消えない」
「本当に?」
「うん」
「朝まで?」
「朝まで」
レオンは薄く目を開ける。
エリシアは窓際の椅子に座っていた。
月明かりに白い髪が淡く光っている。
「じゃあ、寝る」
「うん」
目を閉じる。
今度は少しだけ安心できた。
意識が沈む直前、椅子が僅かに動く音がした。
エリシアは朝まで、そこにいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




