第六話 帰らない者たち・後編
詰所を出ると、夕暮れの街は赤く染まり始めていた。
西の空には大きな雲が浮かび、その縁だけが燃えるような橙色に光っている。建物の長い影が石畳を横切り、軒先では店主たちが夜に備えて灯りをつけ始めていた。
レオンは人の間を縫うように走った。
「すみません!」
荷物を抱えた男を避ける。
角を曲がる。
市場では片付けを始めた店が道へ木箱を積んでおり、急いでいるレオンにはそれさえ障害になった。
「くそ……!」
身体が熱い。
息が上がる。
胸が痛いほど速く脈打っている。
こんな時だけは、疲れないエリシアが羨ましい。
「レオン」
すぐ横から声がした。
彼女は息一つ乱していない。
「もう少し速く走れる?」
「これが全力!」
「分かった」
エリシアが少し前へ出る。
「先に向かうか?」
「道分かる?」
「……分からない」
「じゃあ駄目」
「...ぐっ!」
こんな時なのに、少しだけ腹が立った。
青鹿亭へ近づくにつれ、見覚えのある建物が増えていく。
花屋。
食堂。
昨日、匂いを嗅いできた老婆がいた通り。
そのすべてを駆け抜け、ようやく青い鹿の看板が見えた。
「マルタ!」
扉を押し開ける。
暖炉には火が入っていた。
何人かの客もいる。
しかし、カウンターにマルタの姿はなかった。
「マルタさん!」
返事がない。
食堂の奥を見る。
厨房。
廊下。
誰もいない。
「お兄ちゃん?」
階段から声がした。
リリが立っていた。
毛布ではなく、今日は薄い青色の服を着ている。片手には木で作られた小さな人形を持っていた。
「リリ。おばあちゃんは?」
「裏」
「裏?」
「さっき誰か来たから」
胸の奥が嫌な音を立てる。
「誰が?」
「知らない人」
レオンはエリシアを見る。
二人は同時に裏口へ向かった。
◇
外へ出ると、昼間調べた路地に夕暮れの影が落ちていた。
建物の間から見える空は細く、すでに紫色へ変わり始めている。屋根の上では鳥たちがねぐらを探して鳴き交わし、遠くの大通りからは店を閉める木戸の音が聞こえた。
「マルタさん!」
路地を見渡す。
いない。
地下礼拝堂へ続く石蓋も閉じたままだった。
地面には昼間と同じように細い水路があり、わずかな水が西日の残りを反射して流れている。
「エリシア」
「うん」
彼女はすでに地面を見ていた。
足跡がある。
土のついた靴跡。
青鹿亭の裏口から路地の奥へ二人分続いている。
そのうち一つは大きく、深い。
「マルタさんの?」
「たぶん」
「もう一つは?」
エリシアは答えず、歩き始めた。
足跡を追う。
路地の奥。
細い角を曲がる。
そこから先は、古い家が密集した住宅区になっていた。
夕方の炊事をしているらしく、いくつもの煙突から煙が上がっている。窓の向こうで食卓を囲む家族も見えた。
死者たちの普通の夕暮れ。
その中を、レオンたちは痕跡を追って走る。
足跡はやがて石畳へ出た。
「ここから分からない」
レオンは周囲を見る。
道は三方向へ分かれている。
人も多い。
足跡などすぐに他のものへ紛れてしまう。
「くそ……」
その時だった。
背後から騒ぎ声が聞こえた。
「誰か来てくれ!」
男の声。
続いて何かが倒れる音。
レオンとエリシアは振り返り、声のした方へ走った。
◇
細い通りに、人だかりができていた。
「どうした?」
人を掻き分ける。
中央には一人の衛兵が倒れていた。
さっき詰所にいた男だった。
地下の紙を受け取った時、横で記録を調べていた若い衛兵。
「何があった!」
レオンがしゃがみ込む。
衛兵は地面へ手をつき、苦しそうに身体を丸めていた。
死者は呼吸しない。
それでも、苦しんでいることだけは分かる。
「声が……」
「何?」
衛兵の首筋に黒い筋が浮かんでいる。
レオンは思わず身体を引いた。
「誰の声?」
「兄貴……」
衛兵の指が石畳を引っ掻く。
「兄貴が……いた」
背筋が冷えた。
「その人、未帰者?」
衛兵は答えなかった。
代わりに、身体の端が崩れ始めた。
「エリシア!」
「離れて」
彼女がレオンの肩を掴み、後ろへ引く。
衛兵の指先が黒く変色する。
皮膚が裂けるのではない。
灰へ変わっている。
「待ってくれ……」
衛兵が自分の手を見る。
その顔に浮かんだ恐怖は、生きた人間のものと何も変わらなかった。
「俺、まだ……」
レオンは思わず手を伸ばした。
「触らないで!」
エリシアに止められる。
「でも!」
「今触ったら何が起きるか分からない!」
黒い灰が腕を這い上がる。
衛兵は何かを掴もうとするように手を伸ばした。
「兄貴じゃ……なかった……」
声が途切れる。
次の瞬間、身体全体が崩れた。
風が吹いた。
黒い灰が石畳の上を薄く広がる。
そこにいた衛兵は、もういなかった。
周囲に集まった死者たちは誰も声を出さなかった。
遠くでは、夕刻を告げる普通の鐘が鳴っている。
店の灯りもつき始めている。
空を鳥が群れになって横切っていく。
その日常の真ん中で、一人の死者が二度目に死んだ。
「……間に合わなかった」
レオンは灰を見つめた。
「レオン」
「分かってる」
何が分かっているのか、自分でも分からなかった。
ただ、さっきまで話していた相手が目の前で消えたことだけは理解できた。
◇
青鹿亭へ戻る頃には、街はすっかり暗くなっていた。
通りには一定の間隔で灯りがともり、濡れた石畳に黄色い光が映っている。店の看板は夜風に揺れ、大通りにはまだ遅い時間まで営業する店の声が残っていた。
宿へ入る。
「リリ!」
レオンの声に、少女が食堂から飛び出してきた。
「お兄ちゃん」
「おばあちゃん、戻った?」
リリは首を横に振った。
嫌な予感が確信へ近づく。
「さっきの人、どんな人だった?」
リリの顔が少し強張った。
「女の人」
「どんな?」
「白い服じゃなかった。黒いマント着てた」
ミアを呼び出した者とは違う。
「顔は?」
リリは何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
「よく見えなかった。髪が邪魔で」
「髪の色は?」
「……白かったと思う」
レオンはエリシアを見る。
エリシアの白い髪が、暖炉の光を反射している。
「他に何か言ってた?」
リリは少し考えた。
「おばあちゃん、最初は怒ってた」
「何て?」
「知らない人を裏から入れちゃ駄目って。でも、その人の顔を見たら急に黙って……」
リリはそこで言葉を止めた。
「それで?」
「『あんた……』って言った」
「そのあと?」
「その女の人が、何か言ったの。小さくて聞こえなかった」
レオンはしゃがみ、リリと目線を合わせる。
「何でもいい。覚えてることない?」
少女はしばらく考え込んだ。
やがて顔を上げる。
「おばあちゃんが……」
「うん」
「勇者様、って言った」
レオンの思考が止まった。
「……何?」
「『勇者様?』って」
リリの目が、ゆっくり横へ動いた。
その視線の先に、エリシアが立っていた。
暖炉の炎が揺れ、白い髪を橙色に染めている。
エリシア自身も、初めて聞いたような顔をしていた。
「エリシア」
レオンが呼ぶ。
「知ってる人?」
「分からない」
「でもマルタさんは、そいつを勇者様って呼んだ」
「うん」
リリが不安そうに二人を見比べる。
「私、エリシアお姉ちゃんが戻ってきたのかと思った。でも……」
「でも?」
「違った」
少女の小さな手が、人形を強く握る。
「エリシアお姉ちゃんじゃなかった」
暖炉の薪が弾けた。
ぱちり、と乾いた音が食堂へ響く。
レオンは窓の外を見る。
夜のヴァルネ。
石造りの建物の間を灯りが続き、その向こうには黒い城壁と、さらに遠くの森が見える。
どこかにマルタがいる。
そして、その隣には「勇者」と呼ばれた別の女がいる。
レオンは火かき棒を握った。
「探そう」
「うん」
エリシアの返事はいつもと同じ短さだった。
けれど、その赤い瞳だけは、窓の向こうの暗闇を強く見つめていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆ということもあり、試行錯誤しながら書いています。
感想や気になった点などありましたら、気軽にお聞かせいただけると嬉しいです。
続きも楽しんでいただけましたら幸いです。




