第25話 門を開く
転移区画は、施設の中でも最も古い場所にあった。
巨大な円形の床。その中心に、黒い環状装置がそびえている。表面には無数の紋様が刻まれ、周囲の制御柱から青白い光が流れ込んでいた。
雄馬は、その手前で立ち止まった。
南極へ来たとき、彼は帰還を許されていなかった。
生きて戻ることを想定されていない任務。与えられた物資は最低限。救援の予定もなく、地上との通信手段さえ満足に用意されていなかった。
あのときの自分には、選択肢がなかった。
だが、今は違う。
地上へ戻る道は、自分の手で開く。
「ノエル。最終確認だ。転移先は日本の封鎖都市。観測装置の応答を利用して、座標をできる限り固定する」
『はい。ただし、周辺の空間が不安定なため、到着地点には誤差が生じます』
「誤差はどの程度だ?」
『現時点では算出不能です。観測装置の応答が途中で途絶えた場合、予定地点から大きく外れる可能性があります』
「……相変わらず、安心できる情報がないな」
『安全を保証できない以上、正確にお伝えする必要があります』
「分かっている」
雄馬はエグザリアを起動した。
黒い位相装甲が全身を覆い、胸部の中枢に青白い光が灯る。腕の内側に刻まれた紋様が輝き、装置との接続を開始した。
環状装置がゆっくりと回転する。
低い振動が床を伝い、空気そのものが重くなったように感じられた。
『転移装置、第一段階を開始します。外部観測網との接続を確立』
空間の中央に、薄い膜のようなものが生まれた。
その向こうには、何も見えない。
暗闇とも違う。光が届かないのではなく、そもそも空間そのものが存在していないような感覚だった。
『第二段階。座標固定を開始します』
地上の地図が浮かび上がった。
日本列島。都市部。山岳地帯。封鎖区域。
その中から、観測装置の位置が選び出される。
だが、座標を固定しようとした瞬間、画面が乱れた。
『警告。外部からの干渉を検知』
「来たか」
雄馬は腕を構えた。
環状装置の外縁に、黒い影が走る。空間の膜に細かな亀裂が入り、その隙間から、無数の光点が覗いていた。
それは星のように見えた。
だが、地上から見上げる夜空の星とは違う。
光点の一つひとつが、こちらを見ている。
『外部信号が転移経路へ侵入しています。このままでは接続を維持できません』
「干渉を遮断しろ」
『遮断にはエグザリアの出力が必要です。封印維持出力がさらに低下します』
「構わない。最小限でいい。転移経路を確保しろ」
『了解しました』
雄馬はエグザリアの出力を制御した。
全身を覆う位相装甲の一部が薄くなり、代わりに腕へ光が集まっていく。次元刃が形成され、空間の膜に伸びた黒い亀裂へ向けられた。
斬るべきものは、物体ではない。
転移経路へ入り込もうとしている、空間の接続そのものだ。
雄馬は刃を振るった。
音はなかった。
だが、亀裂の一部が切り離され、環状装置の光が安定する。侵入していた光点が一斉に遠ざかった。
『外部干渉の一部を遮断。転移経路の安定率が上昇しました』
「今だ。座標を固定しろ」
『座標固定を開始。地上観測装置との同期を確認。転移先は日本国内、封鎖都市周辺です』
地図の上に、一つの光点が表示された。
その瞬間、装置全体が大きく揺れた。
雄馬は足を踏ん張る。
床面の光が一部消え、警告音が鳴り響いた。
『注意。施設のエネルギー供給が限界値に接近しています』
「どれだけ残っている?」
『転移完了後、エグザリアの戦闘出力は大きく制限される見込みです。施設の複数区画も停止する可能性があります』
「帰還後、すぐに全力で戦えるわけじゃないということか」
『はい。無理な出力使用は、あなた自身にも危険を及ぼします』
雄馬は、エグザリアの装甲に目を落とした。
古代兵器を手に入れたからといって、あらゆる敵を倒せるわけではない。力を使えば、代償がある。地上へ戻るためにも、彼は施設の機能を削らなければならなかった。
そして、地上で待ち受けるものが何なのかも分からない。
それでも、ここで立ち止まる理由にはならなかった。
「ノエル。転移を続行しろ」
『最終段階に移行します。転移後、エグザリア・ヴォイドとの通信は不安定になる可能性があります』
「通信が切れたら?」
『私は可能な限り、あなたとの接続を維持します。ただし、保証はできません』
「分かった」
雄馬は小さく頷いた。
この地下施設で過ごした時間は、長かったようにも、短かったようにも思える。
ノエルに出会い、エグザリアを起動し、古代文明の秘密に触れた。自分が何者なのか、なぜ管理者候補と呼ばれたのか、まだ答えは見つかっていない。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
自分の人生を、他人に決めさせるつもりはない。
追放を命じた国家にも、かつての仲間にも、そして、地球の外側から手を伸ばしてくる何者かにも。
「行くぞ」
雄馬が一歩踏み出した。
環状装置の中央で、空間が大きく歪んだ。
黒い膜が広がり、その向こうに光が生まれる。風が吹きつけ、南極の冷気とは違う匂いが流れ込んできた。
湿った空気。土の匂い。錆びた金属の匂い。
地上の匂いだった。
『転移を開始します』
足元の床が消えた。
雄馬の身体が、光の中へ沈んでいく。
視界が反転し、上下の感覚が失われた。無数の光が流れ、空間が折り畳まれていく。まるで、世界そのものが巨大な布となり、彼を別の場所へ運んでいるようだった。
その途中で、声が聞こえた。
――雄馬。
氷室玲奈の声。
今度は、通信装置を通したものではなかった。
すぐ耳元で、彼の名を呼んでいる。
――戻ってきて。
雄馬は目を見開いた。
「……黙れ」
彼は声の方向を探さなかった。
あれが本物かどうか、確かめる必要はない。地上へ戻れば、いずれ真実を知ることになる。
今は、前へ進むだけだ。
エグザリアの光が強くなった。
次の瞬間、雄馬の身体は転移経路の外へ押し出された。
激しい衝撃。
彼は地面を転がり、崩れたコンクリートの破片に肩をぶつけた。
「ぐっ……!」
痛みが走る。
雄馬はすぐに身を起こし、周囲を確認した。
空が見えた。
灰色の雲に覆われた空。遠くには、崩れた高層ビル群が立ち並んでいる。窓は割れ、外壁は剥がれ落ち、道路には放置された車が積み重なっていた。
風が吹くたび、どこかで金属が軋む音がする。
彼の知っている日本の街だった。
しかし、記憶の中の姿とは違っていた。
「……ここが、日本か」
雄馬は立ち上がった。
遠くの建物には、巨大な裂け目のような黒い影が浮かんでいた。その周囲では、空間が水面のように歪んでいる。
異常領域。
地上に戻った瞬間から、彼はその影響下にいるらしい。
『……雄馬。応答してください』
耳元から、かすかな声が届いた。
ノエルだ。
「聞こえている」
『よかった……転移は完了しました。ですが、通信状態が不安定です。エグザリアの出力も制限されています』
「分かった。無理に通信を維持しなくていい。状況を確認してから、こちらから呼びかける」
『了解しました。周辺には複数の異常反応があります。警戒してください』
通信が途切れた。
雄馬は周囲を見回した。
道路脇に、古い標識が倒れている。文字は風雨に削られていたが、地名の一部は読み取れた。
かつて何度も訪れたことのある都市の名前だった。
六年前、彼はここを通過したことがある。
仲間たちと任務へ向かう途中、食事を取り、次の作戦の話をした場所だ。
あの頃は、世界がこんな姿になるとは思っていなかった。
いや、もしかすると、あの頃からすでに何かが始まっていたのかもしれない。
雄馬は、腰の装備を確かめた。記録媒体は無事。最低限の物資も残っている。エグザリアは起動できるが、全力を出せる状態ではない。
不利な条件ばかりだ。
それでも、彼は帰ってきた。
国家に捨てられ、南極に置き去りにされた男が、自分の意思で地上へ戻ったのだ。
「さて……」
雄馬は、崩れた街並みの向こうを見た。
「まずは、今がどういう状況なのかを調べるか」
そのときだった。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
続いて、何か巨大なものが地面を踏み砕く音。
雄馬は顔を上げた。
崩壊した建物の向こうで、黒い影が動いていた。
それは、人間の形をしていなかった。
異常領域から現れた何かが、街の中を歩いている。
そして、その進行方向には、避難民らしき人々が逃げ惑っていた。
雄馬は、迷わず走り出した。
六年ぶりの地上。
帰還を歓迎する者はいない。彼を待っているのは、崩壊した街と、未知の敵、そして自分を犯罪者として記録した世界だ。
それでも、目の前で助けを求める人間がいる。
ならば、まずは助ける。
その後のことは、それから考えればいい。
雄馬の腕に、エグザリアの光が再び灯った。
彼の帰還を知らない世界で、最初の戦いが始まろうとしていた。




