第2話 帰還予定のない任務
南極に来てから、六年が経った。
神代雄馬は、錆びた金属板を削りながら、工具の刃先を確かめていた。
年齢は三十八歳。
頬は痩せ、目元には深い皺が刻まれた。髪には白いものが混じり、指先には凍傷と古傷の跡が残っている。
それでも、彼は生きていた。
生き延びるために、できることは何でもやった。
最初に覚えたのは、南極では「明日も同じように生きられる」と考えてはいけない、ということだった。
暖房が動いているからといって、明日も動くとは限らない。食料が一週間分あるからといって、一週間後まで外へ出られるとも限らない。
天候が崩れれば、わずかな距離を移動するだけでも命取りになる。
だから雄馬は、何かが壊れてから直すのではなく、壊れる前に備えることにした。
最初の数か月は、支給された食料と燃料を切り詰めて過ごした。
輸送機から降ろされた物資は、滞在期間未定という説明にしては少なかった。携帯食料、医療キット、工具、通信端末。それに、基地に残されていた古い備品があるだけだ。
まともな管理責任者も、補給計画もなかった。
雄馬はまず、基地の中で風雪をしのげる区画を探した。屋根が残り、壁の損傷が比較的小さい一角を住居に決め、崩れた棚や金属板を使って隙間を塞いだ。
次に、暖房設備を調べた。
配管の一部は破損し、燃焼装置も正常には動いていなかった。幸い、工具と予備部品の一部は残されていた。元Aランク探索者として身につけた機材の整備知識を頼りに、使える部品を選び、壊れた箇所を一つずつ直していく。
完璧な修理ではない。
だが、外気を遮り、限られた燃料で居住区画を暖める程度なら可能だった。
基地の燃料庫には、古い燃料がわずかに残っていた。品質の劣化や容器の腐食を確かめ、使えるものだけを選別する。周辺施設に残された燃料容器も調べたが、期待できる量ではなかった。
暖房を使うのは、生命に関わる時間帯と作業中に限る。厚着と断熱材でしのげるときは、燃焼装置を止めた。
寝床の周囲には布や板を重ね、熱が逃げるのを防ぐ。壊れた機材の外装も、使えるものは断熱材代わりに再利用した。
燃料を無駄にすれば、いずれ寒さに負ける。
雄馬は、そのことを嫌というほど理解していた。
水は雪と氷を溶かして確保した。
ただし、雪を集めて火にかければ終わり、というほど簡単ではない。溶かすにも燃料が要る。雄馬は比較的清潔な雪を集め、少量の水を先に作ってから、そこへ雪を足していく方法を使った。
そうすれば、乾いた容器を空焚きするより効率がよかった。
問題は、食料だった。
持ち込んだ携帯食料だけで何年も生きられるはずがない。
雄馬は基地の倉庫を片端から調べた。錆びた棚を動かし、倒れた機材の下を探り、扉が凍りついた保管庫を工具でこじ開けた。
そこで見つけたのは、古い保存食の残りだった。
缶詰。乾燥食品。密封された非常用の食料。
すべてが食べられるわけではなかった。容器が膨らんだもの、密封が破れているもの、腐食がひどいものは捨てた。食べられると判断したものも、一度に消費せず、日付と残量を記録して管理した。
それでも、十分ではない。
雄馬は倉庫の床に座り込み、残った食料を前に計算した。
このまま食べれば、数か月ももたない。
補給が来なければ、いずれ尽きる。
だが、補給が来ないことは、もう半ば確信していた。
「……最初から、そのつもりだったんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
救難信号を送れば、助けが来るかもしれない。そう考えていた時期もあった。
しかし、何度送信しても返答はなかった。
定時連絡の時間になっても、基地の管理責任者から応答はない。輸送機が再び姿を見せることもなかった。
最初の冬が来るころには、雄馬は救助を待つだけの生活を捨てた。
生きるために、自分で動くしかない。
基地の外へ出られる天候の日には、周囲の建物を調べた。
旧作業小屋から金属板や工具を回収し、崩落した倉庫から断熱材を運び、使えそうな部品を分解した。壊れた扉を修理して保管庫に転用し、風雪で飛ばされた資材も、見つけ次第回収した。
そして、食料を得るために海岸へ出るようになった。
最初にペンギンを見つけたとき、雄馬はすぐには手を出さなかった。
野生動物を見つけたからといって、簡単に捕まえられるわけではない。吹雪の中で追い回せば、自分が帰れなくなる。海氷の状態が悪ければ、獲物どころか自分の命まで失いかねなかった。
彼は風向きと天候を記録し、海岸までの安全な経路を確かめた。狩猟に使える道具を整え、基地へ戻るための時間も計算する。
何度も失敗した。
獲物を見失ったこともあれば、天候の急変を察知して何も得ずに引き返したこともある。
それでも、やがて必要な分だけを仕留められるようになった。
初めてペンギンを食料として確保できた日のことは、今でも覚えている。
基地へ持ち帰った獲物を処理し、食べられる部分を分ける。すぐに食べる分と保存する分を分け、残ったものも可能な限り無駄にしないようにした。
肉は寒冷な環境を利用して保存したが、凍らせれば永久に安全というわけではない。汚染や傷みを警戒し、状態を確かめながら早めに消費する。保存できる量にも限界があった。
それでも、備蓄食料だけに頼る生活からは抜け出せた。
ペンギンを狩猟できる機会は、いつでもあるわけではない。天候が荒れれば外へ出られず、海岸の状況が変われば安全な狩場も失われる。
だから雄馬は、狩猟で得た肉を無計画に食べることはしなかった。
保存食、狩猟で得た肉、わずかな補助食料。それぞれの残量を記録し、次に食料を得られる保証がないことを前提に、日々の食事を組み立てた。
食べられるものを見つけても、すぐに安心はできない。
明日も獲物がいるとは限らないのだから。
季節が巡るたびに、雄馬は生活の仕方を変えた。
外へ出られる時期には必要な資材を集め、荒天が続く時期には作業を減らす。食料の残量を毎日記録し、燃料の消費量も計算する。体調を崩したときに備え、医療キットは最後まで使い切らないようにした。
もちろん、計画どおりにいかないこともあった。
二年目の冬には、暖房設備の配管が凍結しかけた。雄馬は夜通し修理を続け、冷え切った指を温めながら、何とか機能を取り戻した。
三年目には、外へ資材を取りに出た際に足を負傷した。数日間、まともに歩けなかった。食料を手の届く範囲に集め、水を用意し、動かずに回復を待つしかなかった。
その間、狩猟には出られなかった。
保存していた肉と備蓄食料を少しずつ消費し、無理に動いて傷を悪化させないようにした。食料を確保するために命を危険にさらせば、本末転倒だ。
四年目には、残っていた保存食の一部が劣化していることに気づいた。
食べられる量は、さらに減った。
狩猟で補える分にも限界がある。獲物が得られない日が続けば、食事を切り詰めるしかなかった。
それでも、雄馬は記録をつけ続けた。
残量。消費量。燃料の使用時間。修理した設備。次に確認する場所。
生き残ることを、感情ではなく作業に変えた。
そうしなければ、心が折れると分かっていたからだ。
通信端末は、最初の一年で外部との通信が不可能になった。
端末そのものが完全に壊れたわけではない。画面は表示され、内部の記録も確認できる。カメラやセンサーとの接続など、端末単体で完結する機能も使えた。
問題は、外へ信号を送るための通信系統だった。
故障した送信機を分解し、接点を磨き、使える部品を交換した。何度か送信を試みたものの、返答は一度もなかった。
二年目には送信機の電源系統が壊れた。予備部品を使って一度は復旧させたが、長くはもたなかった。
三年目には、衛星回線の認証そのものが失効した。
端末の画面には、接続不能を示す表示だけが残った。
雄馬は、最後にもう一度だけ救難信号を送ろうとした。
返答はなかった。
画面に表示された接続エラーを見つめているうちに、笑いがこみ上げてきた。
「そうか。俺はもう、死んだことになってるんだったな」
六年前、彼は犯罪者として南極へ送られた。
仲間殺し。機密情報の不正持ち出し。重大な規律違反。
どれも、彼がやっていないことだった。
それでも、証拠は受理されず、証言は切り取られ、反論する機会さえ奪われた。
そして今、彼は世界から切り離された場所で、一人きりで生きている。
誰も助けに来ない。
誰も彼が生きているとは思っていない。
死ねば、彼を犯罪者に仕立て上げた連中の思惑どおりになる。
それだけは許せなかった。
雄馬は端末の外装を閉じ、工具箱へしまった。
以後、外部との通信は定期的に試すだけにした。接続が復旧する見込みは薄い。それでも、端末の記録機能やカメラ、センサーは生存に役立つ。使える機能まで捨てる理由はなかった。
そうして六年が過ぎた。
今、雄馬が暮らしている区画には、寝床、水を溶かすための容器、修理した暖房器具、食料を保管する棚がある。
壁には、自分で作った道具が並んでいた。
豪華さとは無縁だ。
だが、風雪をしのぎ、命をつなぐための設備はそろっている。
雄馬は手元の金属板を持ち上げ、縁を確かめた。
「……よし」
削り終えた板を、修理中の棚へ取り付ける。
この作業も、今日で終わらせるつもりだった。
外は薄暗い。
廃捕鯨基地の屋根は何度も吹雪に傷めつけられ、一部は崩れ落ちている。壁の隙間には氷が張りつき、古い煙突は傾いたまま動かない。
雄馬は棚の前に立ち、保存食の残量を確認した。
備蓄食料だけなら、あと二週間ほど。
狩猟で得た肉も残っているが、ここしばらくは天候が悪く、海岸へ出られていない。保存している肉を食べ切れば、また獲物を確保する必要がある。
次に使えそうな備蓄品が見つからなければ、食事をさらに切り詰めなければならない。
幸い、崩落した倉庫の奥には、まだ調べていない区画があった。そこに何か残っている可能性はある。
今日から数日は、基地の外へ出て、その倉庫を調べるつもりだった。
ただ、その前に確かめておきたい場所があった。
旧施設の床下だ。
六年前、ここへ到着した直後のことだった。
荷物を運び込んでいた雄馬は、建物の奥で金属を叩くような音を聞いた。床の一部には、周囲とは違う材質の鉄板が埋め込まれていた。
当時は食料と暖房の確保が先だった。
床下を調べる余裕などなかった。
それでも、あの音は気になっていた。
その後、何度か鉄板の周囲を調べたが、氷と崩落した梁に埋もれており、簡単には動かせなかった。無理に掘り起こせば、建物の一部まで崩れる危険があった。
生き延びるための設備を壊してまで、確かめる価値があるとは思えなかったのだ。
ところが、三日前の地震で状況が変わった。
デセプション島の地下から、低い振動が伝わってきた。
雄馬は最初、火山活動に伴う揺れだと考えた。島の地形を考えれば、珍しいことではない。
しかし、揺れが収まったあと、旧施設の床に細い亀裂が走っていることに気づいた。
鉄板の周囲だけ、氷が不自然なほど溶けていた。
まるで、下から熱が伝わっているようだった。
それだけではない。
昨日、食料を保管する棚を直していたとき、足元から微かな振動が伝わってきた。
最初は風で建物が揺れたのだと思った。
だが、振動は風が弱まっても続いた。
床に手を当てると、かすかな熱を感じた。
この六年間、地下からそんな反応があったことは一度もない。
雄馬は工具を腰に差し、懐中電灯とセンサーを持って立ち上がった。
「今さら何が出てきても驚かんぞ」
独り言をつぶやき、旧施設の奥へ向かう。
床の亀裂は、昨日よりも広がっていた。
雄馬は膝をつき、鉄板の縁に付着した氷を削り取った。
錆びた表面の下に、黒い金属が見えた。
周囲の鉄板とは違う。
腐食していない。傷もほとんどない。
六年前に見たときには、こんな状態ではなかった。
雄馬はセンサーを起動した。
温度表示が跳ね上がる。
続いて、電磁反応の数値が急激に変化した。
「なんだ、これは……」
センサーの故障を疑い、電源を入れ直す。
数値は変わらなかった。
雄馬は機器を鉄板から少し離した。
反応が弱まる。
近づける。
再び強まる。
偶然ではない。
この下に、何かがある。
その瞬間。
――カン。
床の下から、硬い音が響いた。
雄馬は動きを止めた。
風が鉄板を揺らした音ではない。
音は、明らかに床の下から聞こえた。
――カン。カン。
一定の間隔で三回。
雄馬は懐中電灯を向けた。
鉄板の中央に、今まで見えなかった細い溝が浮かび上がっている。
まるで、何かの蓋のようだった。
六年間、何度も死にかけた。
吹雪に閉じ込められたことも、暖房が止まりかけたことも、負傷して数日動けなくなったこともある。
そのたびに、雄馬は自分の判断だけを頼りに生き延びてきた。
だからこそ、今すぐ開けるべきかどうかは慎重に考えた。
地下に危険なガスがたまっている可能性はある。崩落が進めば、戻れなくなるかもしれない。未知の設備が動いているなら、不用意に触れるべきでもない。
雄馬は周囲の床を確認し、亀裂の位置を記録した。
次に、通路の崩落状況を確かめる。逃げ道は確保できそうだった。
センサーの反応は強いが、少なくとも今のところ、急激な温度上昇や有害な数値の変化は見られない。
ここで引き返し、別の日に調べる手もある。
だが、食料には限りがある。
備蓄食料は残り二週間ほど。狩猟も天候に左右される。もし地下に何らかの設備があり、熱源や資材を利用できるなら、生存の可能性を広げられるかもしれない。
もちろん、何もないかもしれない。
それでも、何も確かめずに諦めるわけにはいかなかった。
「六年間、ここにいたのは俺だけじゃなかったのか?」
返事はない。
だが、床の下から再び振動が伝わってきた。
今度は、先ほどよりもはっきりしていた。
雄馬は工具を握り直した。
「よし。見せてもらおうか」
彼は工具の先端を溝に差し込んだ。
錆びついた金属が、ゆっくりと音を立てる。
最初は動かなかった。
雄馬は力任せにこじ開けようとせず、溝の形を確かめながら、少しずつ工具の位置を変えた。
やがて、金属板の端がわずかに浮いた。
隙間から、冷たい空気が流れ出してくる。
雄馬は手を止めた。
地上の外気よりは温かい。それでも、暖房の効いた居住区画に比べれば、十分に冷たい空気だった。
風ではない。
地下から吹き上がってくる空気だった。
懐中電灯の光を、細い隙間へ向ける。
その奥に、黒い空間が見えた。
六年間、誰にも助けられずに生きてきた。
これから先も、助けが来る保証はない。
ならば、自分で生き残る道を探すだけだ。
雄馬は工具を握り直し、再び金属板へ力を加えた。
六年間閉ざされていた地下への入口が、初めて開こうとしていた。




