第九記録 夏季帰邸
夏季休暇は、七日間だった。
帝立軍官学院における休暇とは、休息ではない。
成績表を持ち帰る期間。
家門へ評価を報告する期間。
次期課程の準備を行う期間。
医務所見を確認し、装備を整え、再び学院へ戻るための猶予。
候補生たちは、正門前で馬車に乗り込む。
貴族候補生は家紋入りの馬車へ。
平民候補生は駅行きの軍用乗合車へ。
手を振る者はいない。
泣く者もいない。
軍官学院の休暇は、帰郷ではなく一時離脱だった。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは、黒塗りの馬車へ乗った。
膝の上には、封筒が二つ置かれている。
一つは通常成績表。
もう一つは、別紙評価表。
どちらにも学院長印が押されていた。
馬車は帝都北区の軍学区画を抜け、貴族街区へ入る。
石造の邸宅が並ぶ通りは、学院の回廊よりも静かだった。
門柱には家紋。
鉄柵。
剪定された庭木。
白い砂利道。
アイゼンベルク公爵邸は、その奥にあった。
豪奢ではない。
大きい。
重い。
古い。
門の内側には、軍務の匂いがあった。
玄関広間の壁には、歴代当主の肖像画が並んでいる。
軍服姿。
軍刀。
戦功章。
北方遠征の記録画。
帝国旗。
家でありながら、軍施設に似ていた。
使用人たちは、声を落としていた。
ヴィクトリアが玄関に入ると、家令が一礼する。
「お帰りなさいませ、ヴィクトリア様」
「ああ」
「旦那様は元帥府にて執務中です。奥様は書斎に。クラウディア様は図書室におられます」
「分かった」
外套を預ける。
手袋は外さない。
左手は、もう普通に動いていた。
だが、学院の医務記録には、神経負荷反応軽微、疼痛申告なし、とだけ残っている。
廊下を歩く。
床は磨かれている。
窓は高い。
壁灯は昼でも白く灯っている。
学院よりも静かだった。
ただ、その静けさは安堵ではない。
家の中に、規律がある。
図書室の扉の前で、ヴィクトリアは一度だけ足を止めた。
中から、紙をめくる音がした。
扉を開ける。
クラウディア・フォン・アイゼンベルクは、長机の端に座っていた。
十歳。
淡い金髪は肩の下で切り揃えられ、右側だけ細く編み込まれていた。
着ているのは、貴族院初等部の制服だった。
白いセーラー襟の上衣。
濃紺の襟線。
胸元には深い青のリボン。
短く整えられた紺の半ズボンには、金の釦と細い縁取りが入っている。
白い靴下は膝下まで上がり、黒い革靴には曇りがない。
胸元の小さな学院章だけが、アイゼンベルク家の名とは別に、彼女がまだ貴族院の生徒であることを示していた。
年齢に似合う制服だった。
ただ、着ている本人だけが、少し合っていなかった。
襟元は乱れていない。
リボンの結び目も、左右でずれていない。
髪留めの位置まで、均衡が崩れていなかった。
机には、貴族院の教材が広げられていた。
帝国法制。
貴族議事作法。
軍政史。
統治論基礎。
高等数学。
術式構造概論。
年齢に合っている本は、ほとんどなかった。
クラウディアは、顔を上げる。
「姉様。お戻りですね」
「ああ」
「休暇は七日ですか」
「そうだ」
「短いですね」
「十分だ」
クラウディアは、栞を本へ挟んだ。
微笑まない。
駆け寄らない。
ただ、椅子から立ち、規定通りに姉へ向き直る。
まだ幼い。
だが、動作に無駄がない。
「考査は終わりましたか」
「終わった」
「順位は」
「通常順位には記載されていない」
クラウディアは、一度だけ瞬きをした。
「別紙ですね」
「そうだ」
「やはり」
ヴィクトリアは妹を見た。
「知っていたのか」
「予測です」
「理由は」
「姉様を通常順位に入れると、比較対象が壊れます」
クラウディアは平然と言った。
「貴族院でも同じです。評価軸に収まらない者を無理に首席欄へ置くと、首席欄の意味が変わる」
「十歳の発言ではない」
「貴族院では、年齢はあまり意味を持ちません」
「意味はある」
「では訂正します。少なくとも、アイゼンベルク家では薄いです」
沈黙。
ヴィクトリアは封筒を机へ置いた。
「見るか」
「よろしければ」
クラウディアは封筒を開けない。
まず、封緘印を見る。
学院長印。
通常成績表。
別紙評価表。
「別紙からで構いませんか」
「理由は」
「通常成績は、姉様の場合、確認する価値が低いです」
「失礼だな」
「事実です」
ヴィクトリアは、何も言わなかった。
クラウディアは封筒を開いた。
紙を取り出す。
帝立軍官学院、第百十二期定期総合考査。
対象、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生。
筆記、全科目上限値。
兵站計算、上限値。
地図判読、上限値。
軍法、上限値。
帝国軍制、上限値。
口頭試問、教範外判断あり。
術式理論、一部採点保留。
通常順位、記載保留。
上級課程一部聴講指定。
二年次戦術演習、試験参加許可。
クラウディアは、途中で顔色を変えなかった。
ただ、術式理論の欄で一度だけ視線が止まる。
「採点保留」
「減点ではない」
「分かります」
「なぜ」
「採点基準が、姉様の実測値に追いついていない」
ヴィクトリアは椅子へ座った。
クラウディアは別紙を畳まず、横に置いた。
「問題内容を教えてください」
「成績ではなく?」
「結果は見ました。次は設問です」
ヴィクトリアは、しばらく妹を見ていた。
クラウディアは視線を逸らさない。
大人のような目ではない。
子供の目でもない。
理解するための目だった。
「口頭試問」
「はい」
「補給線が三日以内に回復しない場合、前線指揮官が優先すべきものは何か、と問われた」
「回答は」
「三日以内に回復しないと判断した時点で、前線のみの問題ではない。前線指揮官は保持可能線と負傷者搬送を確認。同時に、後方司令部は再接続不能の責任線を確定する必要がある」
クラウディアは、机の上に置いていた小さな筆を取った。
紙の余白に、短い線を書く。
「不十分です」
ヴィクトリアは、少しだけ眉を動かした。
「私の回答がか」
「設問が、です」
クラウディアは、線を三つに分けた。
前線。
後方司令部。
補給管理部門。
「遅いです。三日以内に戻らない補給線を、前線指揮官へ問う時点で、責任線がずれています」
「考査では減点される」
「でしょうね」
即答だった。
「でも、設問が間違っています」
ヴィクトリアは黙った。
クラウディアは続ける。
「貴族院でも扱う範囲です、姉様。補給不能は、勇敢さで処理する案件ではありません」
「軍官学院では、現場が死ぬ」
「だから、設問が遅いです」
紙の上に、もう一本線が増える。
「補給不能の認識時点。通知遅延。撤退命令権者。責任記録。この四つを問わなければ、前線指揮官だけが損耗責任を負う」
ヴィクトリアは妹の筆先を見ていた。
「貴族院で、そこまで扱うのか」
「扱いません」
「では、どこで覚えた」
「家の記録です」
短い返答だった。
アイゼンベルク家の図書室には、戦功記録だけではなく、失敗記録も残っている。
撤退遅延。
補給不能。
指揮官交代。
負傷兵置去り。
通信断絶。
それらは家訓ではない。
記録だった。
クラウディアは、次の問いを待つ。
ヴィクトリアは、少しだけ息を吐いた。
「通信断絶時、第二小隊長が負傷。第三小隊は敵側面と接触。主力指揮官は支援射撃要請中。誰が指揮を継ぐ」
「姉様の回答は」
「事前指定がなければ継げない。指定不備として記録する。その上で、第二小隊の副指揮官を代替指揮に指定し、支援射撃要請権のみ主力指揮官に残す」
「妥当です」
クラウディアは、紙にもう一つ表を書いた。
「ただし、事前指定がない時点で、訓練設計側の不備です」
「また設問か」
「はい」
クラウディアの筆は止まらない。
「小隊長負傷、通信断絶、支援射撃要請中。この三条件を同時に置くなら、問うべきは“誰が継ぐか”ではありません」
「何を問う」
「なぜ、継承順位が演習開始前に確認されていないのか」
沈黙。
ヴィクトリアは、妹の紙を見た。
線が整理されている。
小隊。
通信。
支援射撃。
指揮継承。
責任記録。
十歳の筆跡だった。
だが、内容は十歳ではない。
「それは、解答ではない」
「はい。設問の修正です」
「考査では評価されない」
「でしょうね」
「なぜそれを書く」
「正しいからです」
ヴィクトリアは、何も言わなかった。
クラウディアは、ようやく少しだけ首を傾ける。
「姉様は、考査ではどう答えましたか」
「前線で死なない答えだ」
「僕は、前線にその設問が届かない答えを書きます」
白い日光が、図書室の床に落ちていた。
屋敷の外から、庭師が剪定する鋏の音が一度だけ響く。
ヴィクトリアはその音を聞いた。
クラウディアは聞いていなかった。
紙の上だけを見ている。
「術式理論も聞きます」
クラウディアが言った。
「高出力術式の神経負荷を軽減するための基本制限を述べよ」
「姉様の回答は」
「出力制限。接地導線。遮断幕。反応紙による神経負荷確認。術後の医務確認。連続使用禁止」
「標準です」
「教範上は」
「姉様の場合は」
「適用できない」
「でしょうね」
クラウディアは、ここで初めて少し考えた。
筆先が止まる。
「設問が違います」
「理由は」
「軽減ではなく、分散と遮断です。高出力雷系術式で、術者への負荷を完全に軽減する前提が誤っています」
ヴィクトリアは、左手を見なかった。
もう傷はない。
手袋の下で、指も動く。
ただ、記録だけが残っている。
「誰がそれを教えた」
「誰も」
「なら、なぜ分かる」
「姉様の医務記録が短すぎます」
「短い?」
「国家戦略級術式の測定後に、神経負荷反応軽微、疼痛申告なし。それで終わる記録は、記録ではありません」
「支障はなかった」
「姉様の申告では、でしょう」
沈黙。
図書室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
クラウディアは、何も言い足さない。
心配とも言わない。
痛むのかとも聞かない。
ただ、紙に書く。
術者負荷。
遮断不全。
事後反応。
医務記録不足。
自己申告不適。
「クラウディア」
「はい」
「これは貴族院の課題ではない」
「はい」
「軍官学院の課題でもない」
「そうですね」
「何の課題だ」
クラウディアは、筆を置いた。
少しだけ考える。
「運用する側の課題です」
ヴィクトリアは、その答えを聞いていた。
妹は十歳だった。
まだ帝立軍官学院へ入っていない。
まだ軍務に就いていない。
まだ候補生ですらない。
だが、アイゼンベルク家の娘だった。
いずれ軍へ接続されることは、二人とも知っている。
クラウディアは、それを怖がっていない。
ただ、先に構造を見ていた。
ヴィクトリアは別紙評価表を閉じた。
「貴族院では、どこまで進んだ」
「軍政史は上級課程へ入りました」
「術式構造は」
「今の教材では足りません」
「軍官学院の教材なら足りるか」
「足りません」
即答だった。
ヴィクトリアは妹を見た。
「では何が要る」
「記録です」
クラウディアは、机の上の紙を整える。
「貴族院は、帝国を説明します。軍官学院は、帝国軍人を作ります。でも、帝国が人をどう使うかは、記録を見ないと分かりません」
その言葉は、軽くなかった。
ヴィクトリアは立ち上がった。
「姉様」
「何だ」
「上級課程へ行くのですか」
「命令があれば」
「命令でなくても、行くでしょう」
「必要があれば」
クラウディアは、一度だけ目を伏せた。
「姉様も、必要という言葉を簡単に使いますね」
ヴィクトリアは答えなかった。
それは、数日前にエレオノーラが言った言葉と、よく似ていた。
だが、意味は違った。
クラウディアは、姉を止めようとしているわけではない。
ただ、構造を見ている。
ヴィクトリアは扉へ向かう。
「クラウディア」
「はい」
「今日の解答は、誰にも見せるな」
「はい」
「なぜか分かるか」
「姉様の考査より、僕の方が問題になります」
ヴィクトリアは、扉の前で止まった。
少しだけ振り返る。
クラウディアは、静かに机の上の紙を重ねていた。
「分かっているならいい」
「はい」
扉が閉じる。
図書室には、紙の音だけが残った。
その日の夜、アイゼンベルク家内教育記録に短い追記が入った。
クラウディア・フォン・アイゼンベルク。
貴族院初等高等課程在籍。
中等部教材および高等部軍政資料の特別閲覧許可あり。
帝立軍官学院一年次定期総合考査内容を口頭確認。
軍制、兵站、指揮継承、術式理論について、上級課程相当の構造理解を確認。
複数設問に対し、責任線および運用側不備を指摘。
当該解答、外部提出不可。
備考。
当該令嬢、構造理解速度、通常貴族院課程外。
結論提示が先行し、手続き説明に欠落あり。
軍官学院課程との接続、要検討。
記録係は、その備考欄を見て、しばらく筆を置いた。
通常貴族院課程外。
その言葉は、学院の記録とよく似ていた。
姉は、通常順位から外れた。
妹は、通常課程から外れ始めていた。




