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帝国の華 外伝 戦場の英雄、黒鷹――ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの記録  作者: 帝国の華


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第十記録 配置なき日


 アイゼンベルク邸の午後は、静かだった。


 帝都北区、高台の貴族街。


 雨上がりの庭には、黒い樹木と濡れた砂利道が続いている。車寄せの石畳には、午前中に通った馬車の跡がまだ薄く残っていた。


 屋敷の中に、生活の音は少ない。


 厚い壁。


 磨かれた床。


 古い軍旗。


 歴代当主の肖像画。


 どれも正しい位置にあり、どれも動かない。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは、自室の机に置かれた予定帳を見ていた。


 夏季休暇中の予定である。


 親族挨拶。


 茶会。


 術式負荷検査。


 軍医局面談。


 監察総監部関係者との会食。


 元帥府筋への形式訪問。


 日付と時刻は整然と並んでいた。


 休暇という語は、表紙にしか存在しなかった。


 彼女は予定帳の一行に視線を止めた。


 本日、十五時より十七時まで。


 空白。


 命令も、訪問も、検査もない。


 ヴィクトリアは、しばらくその空白を見ていた。


 扉の外から、家令の声がした。


「ヴィクトリア様」


「入れ」


 扉が開く。


 家令は一礼し、音を立てずに室内へ入った。手には、午後以降の予定を記した薄い書類を持っている。


「本日十五時より十七時までは、予定がございません」


「確認している」


「お休みになりますか」


 ヴィクトリアは予定帳を閉じた。


 革表紙の端に、アイゼンベルク家の鷹紋が押されている。


「外出するつもりだ」


 家令の指が、書類の端でわずかに止まった。


「御供をお付けいたします」


「不要だ」


「しかし、帝都は夏季中、往来が増えております。軍人、商人、地方貴族、帰省者、傷病兵の移送もございます。お一人では――」


「学院規定では、休暇中の帝都市内移動に護衛義務はない」


「左様でございますが」


「ただの経路確認だ」


 家令は沈黙した。


 それは反論ではなかった。


 命令の形が整うのを待つ沈黙だった。


 ヴィクトリアは続けた。


「外套を用意しろ。学院候補生用の黒。略帽も」


「承知いたしました。馬車は」


「不要だ。徒歩で行く」


「……徒歩で、でございますか」


 ヴィクトリアは家令を見た。


 深い紺碧の瞳に、苛立ちはない。


 ただ、同じ内容を二度確認する必要性だけを測るような目だった。


「徒歩だ」


「承知いたしました」


 家令は頭を下げた。


 それ以上の進言はなかった。


 この屋敷では、命令に近い言葉ほど、静かに通る。


 外套は、すぐに用意された。


 学院候補生用の黒。


 高襟に銀の縁。


 胸元には候補生章。


 襟元には、候補生監督補佐の小さな銀章。


 まだ正式な士官ではない。


 だが、帝立軍官学院の候補生は、帝国軍の階段に置かれた者だった。


 とくに、アイゼンベルク家の名を持つ者は。


 侍女が手袋を差し出した。


 ヴィクトリアは受け取り、自分で嵌めた。


 白い指先が、黒革の中に消える。


「傘をお持ちください、ヴィクトリア様」


 侍女が言った。


「不要だ」


「雨が戻るかもしれません」


「外套で事足りる」


「はい」


 侍女は下がった。


 ヴィクトリアは鏡の前に立つ。


 十四歳。


 周囲の候補生より小柄で、まだ顔立ちには幼さが残っている。


 だが、鏡の中にいる少女は、休暇中の子供には見えなかった。


 黒い制服。


 銀の縁取り。


 濡れた帝都へ出るための外套。


 命令を待っていない姿勢。


 ヴィクトリアは略帽を取った。


 部屋を出る。


 廊下には、古い肖像画が並んでいた。


 将官。


 参謀。


 監察官。


 戦死者。


 彼らの視線の下を、十四歳の候補生が通る。


 使用人たちは壁際に下がり、声を落として頭を下げた。


 ヴィクトリアは足を止めない。


 玄関広間で、家令が待っていた。


「十七時までにお戻りになる予定でよろしいでしょうか」


「未定だ」


「夕食の時刻は十九時でございます」


「遅れる場合は連絡を入れる」


「承知いたしました」


「母上は」


「奥様は、本日午後より帝国軍監察総監部の公務に出ておられます。帰邸は夜半の予定です」


「確認した」


「旦那様も元帥府におられます」


「ああ」


 それだけだった。


 父は元帥府にいる。


 母は監察総監部にいる。


 この屋敷には、家族が不在なのではなかった。


 それぞれが、帝国の別の場所で稼働していた。


 ヴィクトリアは、それを寂しいとは判断しなかった。


 予定が変更された。


 だから、確認した。


 ただそれだけだった。


 家令が玄関扉の前で一礼する。


「お気をつけてお出かけください」


「うむ。留守中、予定帳の変更があれば机上に置け」


「承知いたしました」


 扉が開く。


 雨上がりの空気が、屋敷の中へ入ってきた。


 石と土と濡れた葉の匂い。


 ヴィクトリアは外套の襟を整え、門へ向かった。


 黒鉄の門の前で、門衛が姿勢を正した。


「ヴィクトリア様」


「開けろ」


「はっ」


 門が開く。


 帝都北区の坂道が、薄い雨光の中に続いていた。


 ヴィクトリアは振り返らなかった。


 屋敷の中に、休息は残されていた。


 だが、彼女にはそれを使う手順がなかった。


 夏季休暇。


 配置はない。


 命令もない。


 けれど、空白は自由と同義ではなかった。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは、帝都へ降りていった。


 貴族街を下るにつれ、空気の匂いが変わった。


 濡れた葉。


 石炭。


 馬糞。


 湿った紙。


 雨で沈んだ土の匂い。


 高台の屋敷群では、門の奥に馬車が並び、従者たちが外套を払っている。貴族令嬢たちの笑い声が、閉じた車窓の向こうからわずかに漏れた。


 ヴィクトリアはそちらを見なかった。


 歩幅は一定だった。


 軍官学院の廊下を歩く時と変わらない。


 坂を下り切ると、帝都中央駅の尖った屋根が見えた。


 黒鉄の梁。


 巨大な時計盤。


 軍用貨物線へ続く分岐路。


 帝都中央駅は、観光の場所ではなかった。


 帝国の血管だった。


 広い駅舎の下では、軍人、官僚、商人、学生、修道女、下働きの少年たちが交差している。人の流れは一つに見えて、実際には細かく分けられていた。


 一般改札。


 軍用改札。


 貴族用待合室。


 貨物口。


 傷病兵移送口。


 誰も大声では説明しない。


 だが、足の向きと制服と荷札で分かる。


 ヴィクトリアは軍用貨物口の前で足を止めた。


 木箱が積まれている。


 弾薬箱。


 医薬箱。


 乾燥肉。


 術式部品。


 封印票のついた鋼製ケース。


 下士官が記録板を片手に声を飛ばしていた。


「第三貨物、北部方面軍向け。封印票を確認しろ。破損があれば積むな」


 二人の兵が木箱を運んでいた。


 そのうち一人が、ヴィクトリアに気づいた。


 黒い候補生制服。


 銀縁の高襟。


 襟元の監督補佐章。


 そして、左胸の小さな鷹紋。


 兵は木箱を石床に下ろし、姿勢を正した。


「候補生殿」


 敬礼。


 正式な士官への礼ではない。


 だが、軽い会釈でもなかった。


 帝立軍官学院候補生。


 未来の士官。


 そして、アイゼンベルク。


 兵にとって、その区別は十分だった。


 ヴィクトリアは足を止めた。


 右手を上げる。


 答礼。


 角度も、指先も、視線も、規定通りだった。


「作業を継続せよ」


「はっ」


 兵たちは再び木箱を持ち上げた。


 誰も、十四歳の少女に敬礼したとは言わなかった。


 そこにいたのは、アイゼンベルク候補生だった。


 駅舎の奥では、傷病兵の移送が行われていた。


 担架。


 包帯。


 杖。


 片袖の空いた軍服。


 軍医局の白衣が、濡れた床の上を忙しく横切る。


 車椅子に座った若い兵が、窓の外を見ていた。


 膝から下がなかった。


 ヴィクトリアは歩調を変えなかった。


 ただ、一度だけ視線を向けた。


 兵は彼女に気づき、膝の上で右手を上げようとした。


 動作が途中で止まる。


 軍医が小さく制した。


「無理をするな」


 ヴィクトリアは、先に敬礼した。


 兵の目がわずかに開く。


「帰還、ご苦労であります」


 兵は答えなかった。


 答えられなかったのか、答えるべき言葉を失ったのかは分からない。


 車椅子の車輪が、白衣の軍医によって押されていく。


 ヴィクトリアは見送らなかった。


 見送るための命令は、受けていない。


 次に向かったのは、帝国軍中央病院だった。


 白い建物ではない。


 灰色の石と黒い鉄柵に囲まれた、要塞に似た病院である。


 門柱には、軍医局章と面会規定が掲げられていた。


 門の前の衛兵が、彼女の制服を見て敬礼する。


「候補生殿」


 ヴィクトリアは答礼した。


「候補生の見学許可はありません」


「承知している。外周確認のみだ」


 衛兵は一瞬だけ、言葉を探した。


「休暇中でありますか」


「そうだ」


「左様でありますか」


 会話はそこで終わった。


 病院の窓の向こうには、白い布が干されていた。


 包帯か、寝具か、術式処置用の布か。


 風に揺れているのに、旗のようには見えなかった。


 中庭では、軍服の上着を羽織った患者が二人、看護兵に付き添われて歩いている。歩幅は短い。ひとりは左腕を吊っていた。もうひとりは、何もない空間を何度も見ていた。


 ヴィクトリアは門前からそれを見た。


 表情は変わらない。


 ただ、手袋の指が一度だけ、外套の縫い目を押さえた。


 それは怯えではなかった。


 痛みでもなかった。


 動作の理由を問われれば、本人は答えられただろう。


 雨を含んだ布が、指先に触れただけだと。


 病院を離れる頃、空はまた曇り始めていた。


 夏の雲だった。


 明るいのに、重い。


 戦没者墓苑は、帝都西北の丘にあった。


 白い石標が、列を作って並んでいる。


 貴族将校の墓域は高い場所にあり、家名と階級と戦地が刻まれていた。


 下士官と兵の墓域は低い斜面に続き、名前、番号、所属部隊だけが記されている。


 どちらにも帝国軍旗は立っていた。


 同じ旗だった。


 同じ高さではなかった。


 ヴィクトリアは墓苑の入口で略帽を取った。


 雨粒の残った芝を踏み、石標の列の間を歩く。


 アイゼンベルク家の墓域は、奥にあった。


 若い名が多かった。


 十七。


 十九。


 二十一。


 二十六。


 戦死。


 戦病死。


 術式過負荷。


 撤退戦中行方不明後、死亡認定。


 文字は整っていた。


 死因も、階級も、家名も、すべて正しい場所に刻まれている。


 ヴィクトリアは、一つの墓標の前で止まった。


 エーレンフリート・フォン・アイゼンベルク。


 享年十七。


 北境要塞戦、術式中枢防衛中に戦死。


 彼女はその名を知らなかった。


 だが、家系記録には載っているはずだった。


 手袋の指先が、石の文字に触れる。


 冷たい。


 すぐに離した。


 背後で足音がした。


 墓苑管理の老兵だった。


 右目に古い傷があり、片足をわずかに引いて歩いている。


 老兵はヴィクトリアの制服と鷹紋を認め、ゆっくりと敬礼した。


「アイゼンベルク候補生殿」


 ヴィクトリアは振り返り、答礼する。


「墓苑管理、ご苦労であります」


「恐れ入ります」


 老兵は墓標を見た。


「ご親族でありますか」


「記録上は」


 老兵は少しだけ黙った。


「ここに来る方は、たいてい花を置いていかれます」


「持参していないご様子ですな?」


「はい」


「必要であれば、次回以降、準備します」


 老兵は首を振った。


「必要、というものではありません」


 ヴィクトリアは老兵を見た。


 その言葉の意味を、規定の中から探すような目だった。


 老兵は、墓標の文字に視線を戻した。


「戦場では、アイゼンベルクの雷で生き残った兵もおります」


 ヴィクトリアは答えなかった。


「記録に残らなかった者も、名を覚えております」


 雨が、また落ち始める。


 老兵の声は、それ以上続かなかった。


 ヴィクトリアは墓標を見た。


 エーレンフリート・フォン・アイゼンベルク。


 享年十七。


 彼女はその名を知らなかった。


 だが、今の言葉は記憶した。


 記録に残らなかった者。


 名を覚えている者。


 分類欄のない情報だった。


 ヴィクトリアは略帽を持ったまま、もう一度墓標に向き直った。


 敬礼。


 老兵も、後ろで同じように敬礼した。


 丘を下りる頃には、雨が強くなっていた。


 補給市場は、墓苑とは違う匂いがした。


 濡れた麻袋。


 油。


 鉄。


 紙。


 乾燥肉。


 薬草。


 石炭。


 馬具。


 帝国軍の下請け商人たちが、雨除けの幕の下で伝票を確認している。兵士たちは箱を運び、下士官は数量を読み上げ、書記官は濡れないように記録紙を外套の内側に挟んでいた。


 市場の端で、ヴィクトリアは見覚えのある制服を見た。


 西棟の候補生だった。


 同じ第百十二期。


 名簿上で確認している。


 マルタ・ライナー。


 平民候補生。


 基礎体力評価上位。


 法規試験平均。


 補給実務、優。


 ライナー候補生は、麻袋を抱えたまま固まった。


「アイゼンベルク候補生」


 敬礼しようとして、荷物のせいで手が上がらない。


 ヴィクトリアは先に言った。


「荷を下ろす必要はない」


「は、はい」


「休暇中か」


「実家がこの近くであります。手伝いを」


「確認した」


 沈黙。


 雨除けの幕を叩く水音が、二人の間に落ちる。


 ライナー候補生は、視線を下げた。


「アイゼンベルク候補生も、補給市場に御用でありますか」


「経路確認だ」


「経路」


「帝都中央駅、中央病院、戦没者墓苑、補給市場。軍関連施設の位置関係を確認している」


「休暇中に、でありますか」


「そうだ」


 ライナー候補生の口元が、言葉にならない形でわずかに止まった。


 笑いではない。


 困惑でもない。


 ただ、理解の手前で止まった表情だった。


 すぐに姿勢を戻す。


「自分は、夕刻まで家業補助に戻ります」


「休暇を継続せよ」


「はっ」


 ライナー候補生は麻袋を抱え直し、市場の奥へ消えていった。


 ヴィクトリアはその背を見送らなかった。


 ただ、記憶した。


 西棟候補生、マルタ・ライナー。


 実家、補給市場関係。


 荷扱いに慣れている。


 休暇中も作業継続。


 記録に残す必要はない。


 だが、忘れる理由もなかった。


 彼女の名は、そのままヴィクトリアの中に残った。


 夕刻、アイゼンベルク邸に戻ると、家令が玄関で待っていた。


「お帰りなさいませ」


「戻った」


「外套が濡れております」


「雨天だった」


「すぐに着替えを」


「不要だ。先に報告書を作成する」


 家令は一瞬だけ黙った。


「休暇中の、でございますか」


「そうだ」


「学院への提出分であれば、休暇明けでよろしいかと」


「記憶が新しいうちに作成する」


「承知いたしました」


 家令は頭を下げた。


 それ以上の進言はなかった。


 部屋には、机と灯りと紙が用意されていた。


 窓の外では、帝都の灯が雨に滲んでいる。


 机上には、予定帳の変更表だけが置かれていた。


 余計な書類はない。


 ヴィクトリア宛てではないものが、この机に置かれることはなかった。


 しばらくして、家令が追加の書類盆を持って現れた。


 銀盆の上には、封緘された紙束が一つ載っている。


 宛先は、アイゼンベルク公爵邸書斎。


 表題には、帝国軍監察総監部の印字があった。


 第三方面軍術式適性者消耗率、再調査要項。


「奥様の書斎へ戻す書類でございます。こちらを先にお通ししてもよろしいでしょうか」


「通せ」


 ヴィクトリアは紙束を開かなかった。


 自分宛てではない。


 だが、封緘と表題だけは視界に入った。


 術式適性者。


 消耗率。


 再調査。


 その三語を記憶した。


 家令は銀盆を持ったまま、書斎へ向かう廊下へ消えた。


 扉が閉まる。


 報告書の欄は簡素だった。


 氏名。


 所属。


 休暇期間。


 滞在先。


 健康状態。


 特記事項。


 ヴィクトリアは手袋を外し、椅子に座った。


 彼女は一つずつ記入した。


 筆跡に乱れはない。


 最後の欄で、ペン先が止まった。


 帝都中央駅。


 軍用貨物。


 傷病兵。


 中央病院。


 戦没者墓苑。


 十七歳の墓標。


 老兵の言葉。


 補給市場。


 西棟候補生。


 監察総監部の封緘書類。


 花は、必要というものではありません。


 記録に残らなかった者も、名を覚えております。


 雨音が窓を叩いていた。


 ヴィクトリアは、欄に一行を書いた。


 特記事項なし。


 報告書を受け取った家令は、その一行に視線を落とした。


 何も言わなかった。


 紙を揃え、封筒に入れる。


 その動作は丁寧だった。


 丁寧すぎるほどだった。


「明朝、学院提出用に控えを作成いたします」


「任せる」


「承知いたしました」


 家令は下がった。


 扉が閉まる。


 その夜、予定帳には翌日の茶会が記されていた。


 その次の日には、術式負荷検査。


 その次には、監察総監部関係者との会食。


 夏季休暇は続いていた。


 配置はなかった。


 命令もなかった。


 だが、空白は自由と同義ではなかった。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。


 夏季休暇中、健康状態良好。


 規律違反なし。


 提出物遅延なし。


 特記事項なし。


 その記録に、休息の有無は問われなかった。

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