第十一記録 復列
夏季休暇明けの帝立軍官学院は、わずかに緩んでいた。
帝都北区、軍学区画。
朝の空は低く曇り、雨にはならない湿気だけが石畳に残っている。黒い鉄柵の向こうでは、東棟と西棟の候補生たちが、それぞれの玄関へ戻っていた。
東棟では、馬車が並んでいた。
従者たちが荷物箱を下ろし、候補生の外套についた埃を払っている。貴族候補生たちは、休暇中に家で整えられたものを身につけていた。新しい手袋。磨き直された軍靴。わずかに香る屋敷の薫香。親族挨拶、茶会、領地視察、父兄との会食。
西棟では、候補生たちが自分で荷を背負っていた。
革鞄。
紙包み。
家から持たされた保存食。
少し日に焼けた顔。
手の甲の擦り傷。
休暇という同じ言葉の下で、持ち帰ったものは同じではなかった。
午前六時。
集合鐘が鳴った。
候補生たちは大講堂前の中庭へ整列する。
第百十二期新入候補生。
貴族候補生、右列。
平民候補生、左列。
その間に、中央通路がある。
同じ学院。
同じ軍服。
同じ皇帝の名に敬礼する候補生たち。
だが、列は同じではない。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは、最前列の脇に立っていた。
候補生監督補佐。
黒い候補生制服。
銀縁の高襟。
乱れのない手袋。
略帽の角度は規定通り。
十四歳の身体は、背後に並ぶ十七歳の候補生たちより小さい。
だが、その位置は列の中ではなかった。
列を見る側にあった。
教官が名簿を開く前に、ヴィクトリアは一歩進み出た。
「第百十二期新入候補生、夏季休暇明け集合状況を報告します」
声は高くない。
石造の中庭に、過不足なく通った。
「欠席なし。遅参二名。服装不備五名。体調申告三名。提出物未確認者四名」
教官は名簿から視線を上げた。
「確認済みか」
「はい」
「遅参者」
「ハルトマン候補生。ベルク候補生。いずれも六時前に到着。規定上、遅参ではなく集合前到着扱い。ただし、整列準備不足として記録対象です」
「服装不備」
「手袋未装着二名。徽章位置不良一名。軍靴未整備二名」
「提出物」
「休暇報告書未提出三名。健康申告書記入漏れ一名」
教官は一拍置いた。
「よろしい」
その声に、列の中の空気が少しだけ締まった。
休暇は終わった。
その事実が、鐘ではなく、記録によって告げられていく。
ヴィクトリアは記録板を閉じず、列の前を歩いた。
靴音が、湿った石畳を一定の間隔で打つ。
東棟の候補生たちは、視線を前に向けたまま動かない。だが、彼女が通るたびに、肩や指先がわずかに整えられていく。
西棟側では、より露骨だった。
襟を直す者。
手袋を嵌め直す者。
背筋を伸ばす者。
ヴィクトリアは叱責しなかった。
ただ、見た。
記録した。
列の中ほどで、彼女は足を止めた。
「ライナー候補生」
呼ばれた平民候補生が、即座に姿勢を正した。
「はい」
マルタ・ライナー。
西棟候補生。
補給市場関係の家。
休暇中、家業補助。
荷扱いに慣れている。
ヴィクトリアの中に残っていた情報が、静かに位置を取った。
「右手」
マルタは一瞬だけ動きを止めた。
「問題ありません」
「申告を求めている」
マルタは右手を少し上げた。
手袋の手首部分に、かすかな赤みが滲んでいる。
「休暇中の作業傷であります。軽微です」
「軍医局確認を受けろ」
「任務に支障はありません」
「支障の有無は自己判断ではない」
沈黙。
周囲の候補生たちが、視線だけを向ける。
マルタは顎を引いた。
「承知しました」
「午後の実技前に確認を終えろ。診断票を提出」
「はい」
ヴィクトリアは記録板に一行を加えた。
注意でも、処罰でもなかった。
状態の登録だった。
マルタはもう一度、短く敬礼した。
ヴィクトリアは答礼し、列の確認を続けた。
東棟側の前列で、ひとりの貴族候補生が口を開いた。
エルヴィラ・ベイルシュミット。
ベイルシュミット伯爵家の次女。
休暇前の成績は上位。
礼法、軍政、帝国政治史に優。
実技は平均。
家名による発言の許容量を、自分で把握している候補生だった。
「アイゼンベルク候補生は、休暇中もお変わりないようですね」
声は低い。
列を乱すほどではない。
しかし、隣の候補生には届く程度の音量だった。
嫌味とも、称賛とも取れる。
ヴィクトリアは足を止めた。
ベイルシュミット候補生を見る。
「規律に休暇期間はない」
それだけだった。
エルヴィラは微笑に近い表情を作った。
「失礼いたしました」
「発言は記録しない」
エルヴィラの表情が、ほんのわずかに止まった。
記録しない。
それは寛大ではなかった。
処罰に値しないと判断された、という意味だった。
ヴィクトリアは視線を戻した。
「襟章の位置が一ミリ低い。修正」
「……承知しました」
エルヴィラは襟元に手をやった。
その動作は丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
六時十五分。
整列確認は終了した。
教官が候補生たちを講堂へ移動させる。
湿った中庭に、軍靴の音が揃い始めた。
休暇明けの乱れは、少しずつ列の中へ押し戻されていく。
ヴィクトリアは最後尾まで確認してから、教官の前に戻った。
「報告を完了しました」
「ご苦労」
教官は名簿を閉じたあと、別の薄い書類を取り出した。
休暇報告書だった。
表紙に、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの名がある。
「アイゼンベルク候補生」
「はい」
「休暇中、帝都市内を移動。目的、経路確認。同行者なし。問題発生なし。特記事項なし」
「はい」
「確認対象は」
「帝都中央駅、帝国軍中央病院外周、戦没者墓苑、補給市場」
教官の指が、書類の端で止まった。
それは驚きではない。
記録上、分類に迷った時の停止だった。
「学院課程で指定された調査ではない」
「はい」
「家からの指示か」
「いいえ」
「自主確認か」
「はい」
教官はしばらく黙った。
中庭の向こうでは、講堂へ入る候補生たちの足音が響いている。
夏季休暇明け。
候補生たちは、家の匂いと疲労と土産を持って学院へ戻ってきた。
その中で、目の前の十四歳だけが、帝都の軍事施設を巡回し、報告書に「特記事項なし」と記入している。
規定違反ではない。
だが、通常ではなかった。
教官はペンを取った。
書類の余白に一行を書き加える。
「次回以降、休暇中に軍関連施設を確認する場合は、移動経路を添付しろ」
「承知しました」
「許可を求めろとは言っていない」
「はい」
「記録形式を揃えろと言っている」
「承知しました」
それで終わった。
心配ではない。
慰労でもない。
帝国軍では、異常はまず記録形式に収められる。
教官は書類を閉じた。
「列に戻れ」
「はい」
ヴィクトリアは敬礼し、講堂へ向かった。
大講堂の中では、第百十二期候補生たちが席についていた。
右列、貴族候補生。
左列、平民候補生。
中央通路。
式典の時と同じ構造だった。
だが、夏季休暇を挟んだことで、候補生たちの顔にはわずかな差が増えていた。
東棟の候補生は、家の期待を持ち帰っている。
西棟の候補生は、生活の疲労を持ち帰っている。
マルタ・ライナーは、右手の傷を隠し損ねた。
エルヴィラ・フォン・ベイルシュミットは、襟章を直したまま前を見ている。
ヴィクトリアは、自分の席へ戻った。
最前列中央。
候補生総代の席。
腰を下ろす前に、彼女は一度だけ講堂全体を見た。
候補生。
教官。
記録官。
軍旗。
出入口。
窓。
遅れて動く者。
視線を逸らす者。
姿勢を保つ者。
位置を確認する視線だった。
隣の候補生が、小さく息を呑む。
ヴィクトリアは座った。
講堂前方で、学院長が休暇明け訓示を始める。
「夏季休暇は終了した」
その言葉に、講堂の空気が沈む。
「諸君は本日より、再び帝立軍官学院第百十二期候補生としての課程に復帰する。家名、出自、休暇中の事情は、学院課程において考慮されない。ここで問われるのは、規律、成績、適性、そして職務遂行能力である」
候補生たちは前を見ていた。
ヴィクトリアも前を見ていた。
学院長の声は続く。
「休暇によって乱れた者は、今日中に戻せ。戻せない者は、記録される」
記録。
その語だけが、講堂の石壁に少し長く残った。
訓示の後、午前課程が始まった。
軍規講義。
休暇明けの初日は、例年必ず軍規から始まる。
自由行動から戻った候補生を、最初に規定へ戻すためである。
教官は黒板に一文を書いた。
帝国軍人は、常に自己の状態を把握し、上官の命令に即応できる状態を保持する。
候補生たちは筆記した。
紙の上をペンが走る音が続く。
ヴィクトリアも同じ文を書いた。
筆跡に、休暇明けの遅れはなかった。
横で、エルヴィラのペンが一度止まった。
後方で、マルタが右手をかばうように持ち替えた。
ヴィクトリアは振り返らなかった。
見なくても、音で分かった。
午前課程の終了後、マルタ・ライナーは軍医局へ向かった。
提出された診断票には、右手首軽度擦過傷、感染兆候なし、実技参加可、と記されていた。
ヴィクトリアはそれを確認し、記録板に挟んだ。
処置完了。
それ以上の記述はない。
午後、候補生たちは演習場へ移動した。
休暇明け最初の整列訓練。
足音は、最初の十歩で乱れた。
教官の号令が飛ぶ。
「停止。やり直し」
候補生たちは元の位置へ戻る。
東棟も、西棟も同じように乱れた。
同じように戻された。
ただし、疲労の理由は同じではなかった。
ヴィクトリアは列の脇に立ち、歩幅の乱れを確認した。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
左列後方、半拍遅れ。
右列前方、踵が浮く。
中央列、視線不安定。
記録する。
修正する。
繰り返す。
夏の湿気が、制服の襟元に溜まっていく。
候補生たちの額に汗が浮かぶ。
ヴィクトリアの呼吸は変わらない。
演習場の端で、マルタが一度だけ右手を握り直した。
ヴィクトリアはそれを見た。
声はかけなかった。
診断票は提出済み。
実技参加可。
ならば、参加する。
その判断は冷たくも、優しくもなかった。
規定通りだった。
夕刻。
訓練終了後、候補生たちは生活棟へ戻った。
東棟の廊下には、家名入りの菓子箱が一つ残されていた。
ヴィクトリアは近くにいた候補生へ視線を向ける。
「私物管理規定違反。所有者を確認し、十七時までに提出」
「は、はい」
候補生は慌てて菓子箱を拾った。
甘い匂いが、ほんのわずかに廊下に残る。
すぐに消えた。
ヴィクトリアは歩き続けた。
自室に戻ると、机の上には学院から返却された休暇報告書の控えが置かれていた。
余白に、教官の追記がある。
次回以降、移動経路添付。
その下に、別の印が押されていた。
確認済。
ヴィクトリアはそれを読んだ。
そして、新しい紙を一枚取り出した。
題名。
夏季休暇中帝都市内移動経路。
彼女は地図を開き、昨日歩いた経路を正確に書き始めた。
アイゼンベルク邸。
帝都中央駅。
帝国軍中央病院外周。
戦没者墓苑。
補給市場。
帰邸。
線はまっすぐではなかった。
だが、迷いはなかった。
窓の外で、夕方の鐘が鳴る。
東棟のどこかで候補生たちの声がした。
休暇の話。
家の話。
土産の話。
明日の課程への不満。
それらは扉を隔てて薄く聞こえ、すぐに消えた。
ヴィクトリアは地図を書き終え、報告書の控えに添えた。
記録形式は揃った。
それで、問題は解消された。
休暇は終わった。
候補生たちは、列に戻った。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクだけは、戻る必要がなかった。
彼女は最初から、列の中にいた。




