第十二記録 学院在籍少尉
上級課程の講義室は、北棟の三階にあった。
一年次候補生の教室より狭い。
ただし、窓は高く、机は重い。
壁には帝国全域の作戦区域図が掛けられている。
黒い線。
赤い線。
灰色の封鎖区画。
北方方面軍の駐屯線。
講義室にいるのは、三年次候補生と、特別聴講を許可された候補生だけだった。
その中に、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクがいる。
十四歳。
帝立軍官学院一年次。
通常順位記載保留。
上級課程一部聴講指定。
二年次戦術演習、試験参加許可。
国家戦略級術者指定済。
彼女は、講義室の右端、前から二列目に座っていた。
席順は教官が決めたものだった。
誰も異議を述べない。
だが、その席の周囲だけ、紙をめくる音が少なかった。
講義の題目は、戦時指揮権の例外運用。
教官は、黒板へ短く書いた。
候補生。
任官。
現場指揮権。
戦時特例。
「原則を確認する」
教官の声は低い。
「帝立軍官学院の候補生は、卒業前に正規指揮権を持たない。演習内の指揮は訓練上の配置であり、帝国軍命令系統における指揮権ではない」
候補生たちは筆を動かす。
「卒業後、少尉任官。以後、配属先の命令系統に組み込まれる。貴族、平民の別は、任官そのものには影響しない」
誰も顔を上げない。
ただ、平民候補生の一人が、筆を一度だけ止めた。
「差が出るのは、配属先と昇進速度だ。帝国は建前上、成績と適性を見る。実際には、家門、推薦、戦功、後ろ盾、監察照会が絡む」
教官は淡々と続ける。
「これを不公平と呼ぶ者は、軍務には向かない。不公平を前提に、それでも任務を達成する者が士官である」
エレオノーラ・フォン・グライフェルトは、三列目に座っていた。
三年次上級候補生監督班所属。
以前なら、ヴィクトリアより前に座っていただろう。
今は、席が違う。
学院序列ではなく、別紙評価が席を変えた。
エレオノーラは、何も言わない。
筆先だけが動いていた。
教官は黒板に、もう一行を加えた。
戦時特例任官。
「例外を確認する」
講義室の空気が、わずかに変わった。
「戦時中、帝国軍は候補生を正規任官前に軍務へ接続する場合がある。ただし通常は、補助任務、通信、記録、後方配置に限られる」
教官の白墨が止まる。
「正規戦闘任務への投入には、任官処理が必要となる」
白墨の音。
「候補生のままでは、命令系統に置けない」
その時、扉が叩かれた。
三回。
講義室内の筆音が止まる。
教官は扉へ目を向けた。
「入れ」
扉が開いた。
伝令士官が一人、入室する。
黒い外套。
濡れてはいない。
だが、外の空気を連れていた。
伝令士官は教官へ敬礼した。
「講義中、失礼いたします」
「用件を述べよ」
「元帥府命令書の伝達です」
講義室の空気が止まった。
候補生たちは座ったままだった。
だが、背筋がわずかに伸びる。
元帥府。
学院長室ではない。
教官室でもない。
成績係でもない。
帝国軍最高中枢からの命令。
伝令士官は封緘された書類筒を差し出した。
赤ではない。
黒い封緘。
元帥府印。
教官は受け取り、封緘を確認した。
一拍。
それだけで、講義室にいる者たちは、この書類が通常の回覧ではないと理解した。
教官は封を切る。
紙を開いた。
目を通す。
表情は変わらない。
ただ、読み終えるまでの時間が、いつもより少しだけ長かった。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生」
「はい」
ヴィクトリアは立った。
椅子の音は小さい。
教官は書類を持ったまま、彼女を見る。
「前へ」
「承知しました」
ヴィクトリアは席を離れ、教壇の前へ進む。
十四歳の候補生。
候補生章。
監督補佐章。
黒い学院制服。
白い手袋。
伝令士官が、彼女へ向き直った。
「元帥府命令を伝達します。受領確認を」
「はい」
講義室の空気が変わる。
これは講義ではない。
成績通知でもない。
命令だった。
伝令士官が読み上げる。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。戦時特例により、帝国軍少尉へ任ず」
どこかで、筆が机に触れた。
小さな音だった。
誰もそちらを見ない。
「帝立軍官学院の学院籍を保持。教育課程は継続扱いとする」
ヴィクトリアは動かない。
「所属、帝国中央軍戦略機動師団付。運用区分、師団長直轄」
その言葉で、講義室の空気がもう一段硬くなった。
戦略機動師団。
中央軍の通常師団ではない。
異常戦域、封鎖区域、国家戦略級術者の投入を扱う、元帥府直結の機動戦力。
師団長は、アレクシス・フォン・アイゼンベルク大将。
元帥府作戦将校を兼ねる、帝国軍の中枢に近い男。
ヴィクトリアの父。
だが、命令書に父という言葉はなかった。
そこにあったのは、師団長の職名だけだった。
伝令士官は続ける。
「ただし、元帥府命令および帝国中央軍戦略機動師団付任務を優先する。任務区分、北方方面軍第三区域封鎖支援。出頭日時、明朝六時。集合場所、帝都中央軍北門」
紙の音が、講義室に落ちる。
「以上」
伝令士官は書類を差し出した。
ヴィクトリアは受け取る。
「拝命します」
声は低くない。
まだ若い。
だが、言葉は乱れなかった。
教官が言った。
「アイゼンベルク少尉」
その呼称で、講義室の空気がもう一度止まった。
候補生ではない。
少尉。
同じ部屋にいる三年次候補生より若い。
一年次の学院籍を保持している。
だが、軍務上の身分では、彼らの外に出た。
ヴィクトリアは教官を見る。
「はい」
「着席前に、命令書へ署名」
「承知しました」
記録官が机を用意する。
命令書受領欄。
任官辞令確認欄。
学院籍保持確認欄。
教育課程継続扱い確認欄。
戦略機動師団付確認欄。
師団長直轄運用確認欄。
実戦任務優先確認欄。
七つの欄が並んでいる。
ヴィクトリアはペンを取った。
署名する。
筆跡は乱れない。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。
その下に、今までなかった二文字が加わる。
少尉。
記録官は、紙を吸い取って封筒へ戻した。
伝令士官が敬礼する。
「任官、おめでとうございます」
祝意の形をした軍務文だった。
ヴィクトリアは答礼する。
「任務を遂行します」
それだけだった。
伝令士官は退室した。
扉が閉まる。
講義室には、まだ授業中の黒板が残っていた。
候補生。
任官。
現場指揮権。
戦時特例。
今、それが紙ではなく、教室の前に立っている。
教官は短く言った。
「講義を再開する」
その言葉で、候補生たちは筆を取った。
だが、すぐには音が戻らなかった。
ヴィクトリアは席へ戻る。
その途中で、エレオノーラが立ち上がった。
椅子を引く音はしなかった。
敬礼。
正確だった。
三年次候補生の一人が、遅れて立つ。
別の候補生も立つ。
一年次候補生ではない。
少尉。
身体が、そう判断した。
教官は止めなかった。
ヴィクトリアは足を止めた。
講義室を見た。
感情は見えない。
驚きも、誇りも、困惑もない。
ただ、命令系統が変わったことだけを確認する目だった。
「着席しろ」
その声は、候補生のものではなかった。
だが、上官の声としては、まだ若すぎた。
候補生たちは座る。
エレオノーラも座った。
視線は下げない。
ただ、もう何も言わない。
ヴィクトリアは自席へ戻った。
机の上には、さきほどまでの講義ノートが開いたままだった。
戦時特例任官。
候補生のままでは、命令系統に置けない。
白墨の文字が、黒板に残っている。
ヴィクトリアは命令書を机の右上に置いた。
講義の続きが始まる。
教官は、先ほどと同じ声で話した。
「戦時特例任官者は、学院籍を保持したまま教育課程へ戻る場合がある」
誰も顔を上げなかった。
「この場合、教育課程と軍務命令は併存する。ただし、優先順位は明確である。軍務が優先される」
白墨が鳴る。
「問題は、学院内礼節と軍階級の衝突だ」
教官は、ヴィクトリアを見なかった。
「候補生序列より、帝国軍階級が優先する。これは感情の問題ではない。帝国軍規である」
エレオノーラの筆が、一度だけ止まった。
すぐに動く。
ヴィクトリアはノートを取っていた。
少尉任官の命令書が、同じ机の上にある。
講義が終わると、候補生たちは立ち上がった。
いつもなら、上級候補生から退室する。
今日は、誰も動かない。
ヴィクトリアが立つ。
周囲の候補生が、わずかに姿勢を正す。
それは敬意ではない。
まず、軍規だった。
ヴィクトリアは命令書を持ち、教官の前へ行く。
「明朝六時、中央軍北門へ出頭します」
「確認した」
「本日の午後講義は」
「軍務準備に充てろ」
「承知しました」
教官は、机の上の出席簿を閉じた。
「アイゼンベルク少尉」
「はい」
「学院籍は保持される。戻った場合、講義へ出るように」
「承知しました」
「戻らなかった場合は」
一拍。
講義室の空気が、少しだけ重くなる。
「記録を待つ」
ヴィクトリアは敬礼した。
「承知しました」
それ以上は言わなかった。
廊下へ出る。
上級課程棟の窓は、灰色の空を映していた。
夏季の雲は厚い。
雨は降っていない。
ただ、光が薄かった。
廊下の端で、エレオノーラが立っていた。
ヴィクトリアが近づく。
エレオノーラは敬礼した。
今までで、最も正確だった。
「アイゼンベルク少尉」
初めての呼称だった。
ヴィクトリアは答礼する。
「グライフェルト候補生」
「明朝、出頭ですか」
「そうだ」
「北方方面軍第三区域」
「命令書にはそうある」
エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。
「学院序列では、もう測れませんね」
ヴィクトリアは答えなかった。
エレオノーラは続けない。
言い過ぎたと判断したのではない。
それ以上は、不要だった。
「ご武運を」
言葉は短い。
儀礼としては正しい。
だが、少しだけ硬かった。
ヴィクトリアは一拍置いた。
「訓練を継続しろ」
「はい」
敬礼。
返礼。
それだけで終わった。
その日の午後、学院長室には、戦時特例任官に関する通知が回った。
帝立軍官学院、第百十二期。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。
戦時特例により、帝国軍少尉任官。
帝立軍官学院学院籍、保持。
教育課程、継続扱い。
所属、帝国中央軍戦略機動師団付。
運用区分、師団長直轄。
ただし、元帥府命令および帝国中央軍戦略機動師団付任務を優先。
出頭日時、明朝六時。
集合場所、帝都中央軍北門。
任務区分、北方方面軍第三区域封鎖支援。
通常成績簿には綴じられなかった。
別紙評価表の後ろに、新しい紙が差し込まれた。
任官辞令。
実戦投入命令。
学院籍保持確認。
教育課程継続扱い確認。
戦略機動師団付確認。
師団長直轄運用確認。
備考。
当該者、教育課程途中にて軍務運用へ移行。
学院内身分は、学院籍保持候補生。
軍務上身分は、帝国軍少尉。
所属は、帝国中央軍戦略機動師団付。
運用区分は、師団長直轄。
学院評価および軍務記録を併用する。
記録官は、最後の一文を書いて筆を止めた。
学院評価および軍務記録を併用。
学生でもない。
ただの士官でもない。
そのどちらにも置かれたまま、帝国は彼女を使う。
翌朝の六時まで、まだ半日あった。
講義室には、白墨の文字が残っている。
戦時特例任官。
候補生のままでは、命令系統に置けない。
その日の夕刻、ヴィクトリアの机には、上級課程の講義資料と、少尉任官の命令書が並んでいた。
どちらも開かれていた。
どちらも、翌日には必要だった。




