第十三記録 封鎖支援
帝都中央軍北門は、まだ暗かった。
朝六時。
空は白み始めているが、石畳の上には夜の冷えが残っている。
門灯は消えていない。
衛兵の外套は黒い。
車寄せには、軍用車両が三台並んでいた。
学院の馬車ではない。
軍の車両だった。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉は、北門前で停止した。
十四歳。
帝立軍官学院学院籍保持候補生。
帝国軍少尉。
帝国中央軍戦略機動師団付。
運用区分、師団長直轄。
国家戦略級術者指定済。
制服は、学院の候補生服だった。
黒い高襟。
白い手袋。
候補生章。
ただ、襟元には、昨日までなかった少尉章がある。
候補生章は外されていない。
少尉章も、仮の印ではない。
二つの身分が、同じ制服の上に置かれていた。
規定外ではない。
戦時特例任官者の学院籍保持を示す、正式な処理だった。
ただ、それを見慣れている者は、北門にもいなかった。
衛兵が敬礼する。
「アイゼンベルク少尉」
ヴィクトリアは答礼した。
「出頭しました」
「確認します」
衛兵は名簿を開いた。
紙の上には、すでに彼女の名があった。
学院名簿ではない。
戦略機動師団の出頭記録だった。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
戦時特例任官。
学院籍保持。
所属、帝国中央軍戦略機動師団付。
運用区分、師団長直轄。
任務区分、北方方面軍第三区域封鎖支援。
衛兵は名簿を閉じる。
「第二車両へ」
「承知しました」
ヴィクトリアは歩き出した。
車両の前に、士官が一人立っていた。
中尉。
三十代半ば。
黒い外套。
左袖に戦略機動師団の識別章。
彼はヴィクトリアを見た。
一拍。
それから敬礼する。
「帝国中央軍戦略機動師団、運用補佐官、ランド中尉だ」
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉です」
「命令書を確認する」
ヴィクトリアは封筒を差し出した。
ランド中尉は封緘を見た。
元帥府印。
戦略機動師団長印。
学院長確認印。
三つの印が並んでいる。
彼の視線が、ほんのわずかに止まった。
「確認した。本任務中の移動、記録、医務確認は、当方の管理下に置く」
「はい」
「現地指揮権は、北方方面軍第三区域司令部にある。ただし、術式投入判断は戦略機動師団長命令に基づく」
「承知しました」
「貴官は本任務において、小隊指揮権を持たない」
「はい」
「任務は、封鎖線破断箇所の術式再接続支援。必要時、国家戦略級術式の限定行使である」
国家戦略級術式。
その正式名称だけで、近くにいた下士官の視線が一瞬だけ下がった。
ランド中尉は、命令書の下段へ目を落とす。
「術式区分、紫電」
今度は、誰も動かなかった。
動かないことが、反応だった。
「本件における紫電は攻撃行使ではない」
ランド中尉は続けた。
「封鎖線設備の応急再接続に限る。出力は現地判断で上げない。命令書記載の制限値を超える場合、師団長承認を要する」
「承知しました」
「医務確認は出発前、行使前、行使後の三回。申告のみでの省略は認めない」
ヴィクトリアは、少しだけ瞬きをした。
「了解しました」
「質問は」
「ありません」
「では乗車せよ」
「はい」
ヴィクトリアは車両へ乗り込んだ。
車内には、術式記録官が一名、医務士官が一名、通信兵が二名いた。
誰も余計な挨拶をしない。
彼らは彼女を見た。
十四歳の少尉。
学院候補生服。
候補生章。
少尉章。
国家戦略級術者。
それを確認し、すぐに目を逸らした。
軍務が始まる時、感情は先に処理されない。
席表があり、装備確認があり、記録欄がある。
ヴィクトリアの席には、白い紙が置かれていた。
術式行使前確認票。
氏名。
階級。
所属。
術式区分。
制限出力。
行使目的。
医務所見。
彼女はそこに署名した。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
車両が動き出す。
中央軍北門が遠ざかる。
学院の鐘は、まだ鳴っていなかった。
その時刻、帝立軍官学院では、第一時限の準備が始まっている。
ヴィクトリアの席も、まだ講義室に残っている。
だが、彼女はそこにはいない。
机の上には、上級課程の講義資料が置かれている。
その同じ朝、別の記録簿には、彼女の名が軍務出頭済として記入された。
学生でもない。
ただの士官でもない。
帝国は、二つの記録の間で彼女を運んでいた。
北方方面軍第三区域からの通信は、夜明け前に届いていた。
封鎖線一部破断。
観測杭三基沈黙。
導通杭一基、出力不安定。
術式媒介線、第三節から第五節まで断続的遮断。
現地術式班、再接続不能。
撤退部隊、区域内残存。
封鎖支援、至急。
敵部隊の撃破命令ではない。
占領命令でもない。
命じられたのは、封鎖だった。
北方方面軍の封鎖線は、壁ではない。
観測杭。
導通杭。
接地導線。
術式媒介線。
封鎖幕。
通信記録。
現地術式班の維持出力。
それらを連結し、異常区域の外縁を押さえ込む軍務設備だった。
外から見れば、薄い膜のようにしか見えない。
場所によっては、霧の揺らぎに近い。
場所によっては、空気が歪んで見えるだけだった。
通常時、そこに雷光は走らない。
封鎖線は、光る壁ではなかった。
観測し、記録し、接地し、維持するための、長い網だった。
今回は、その網の一部が切れていた。
観測杭三基が沈黙し、導通杭の出力が落ち、封鎖幕の一部が不安定化している。
通常術式班では、再接続できない。
完全な修復ではない。
求められているのは、撤退部隊が区域外へ出るまでの一時閉鎖だった。
破断した術式媒介線へ、代替の導通を作る。
沈黙した観測杭の代わりに、術式の流れを通す。
導通杭の出力を、外部から補う。
封鎖幕の裂け目を、仮に縫い止める。
それが、今回の封鎖支援だった。
国家戦略級術式は、そのために要請された。
ランド中尉が、前席から短く告げる。
「アイゼンベルク少尉」
「はい」
「現地到着後、貴官は命令があるまで待機。独断行使は禁止する」
「承知しました」
「命令があった場合」
一拍。
「攻撃行使ではなく、補助として封鎖線破断部を一時再接続しろ。維持時間は、撤退完了まででいい」
ヴィクトリアは顔を上げた。
車窓の外には、帝都の石壁が流れている。
朝の光は薄い。
「承知しました」
「撤退部隊を、内側に残すな」
「はい」
車内に、それ以上の会話はなかった。
紙の音。
車輪の振動。
通信機の低い唸り。
ヴィクトリアは、膝の上で手袋の皺を直した。
左手は動く。
記録上、任務に支障はない。
医務確認票にも、そう書かれている。
だが、封鎖線へ術式を通すということは、破断部の負荷を術者側でも受けるということだった。
観測杭が沈黙した場所で、代わりに導通を作る。
導通杭が落とした出力を、術者側から補う。
術式媒介線の断線区間へ、一時的に術式流を通す。
その間、紫電は攻撃ではなく、封鎖線の部品として使われる。
帝国は、術式ではなく、術者をそこへ接続する。
中央軍の車両は、北門を抜け、軍用道路へ入った。
その日、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉の初軍務は、出撃ではなく、封鎖支援として記録された。
備考欄には、こう記される予定だった。
国家戦略級術式、限定行使用意。
術式区分、紫電。
用途、封鎖線破断部の一時再接続。
目的。
敵戦力撃破ではなく、撤退完了までの異常漏出抑制。




