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帝国の華 外伝 戦場の英雄、黒鷹――ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの記録  作者: 帝国の華


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第十四記録 接続

北方方面軍第三区域外縁に着いた時、空は灰色だった。


 雪は降っていない。


 だが、地面は白く硬い。


 凍った泥。

 黒い石。

 低く張られた導線。

 半分だけ雪に埋もれた標識杭。


 軍用車両は、封鎖拠点の手前で止まった。


 エンジンの音が消えると、風の音だけが残る。


 帝都とは違う冷えだった。


 空気が薄い。


 音が遠い。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉は、車両を降りた。


 学院候補生服の上に、防寒外套を羽織っている。


 襟元には候補生章。


 その横に、少尉章。


 二つの章は、凍った風の中で同じように鈍く光っていた。


 封鎖拠点の兵士たちが、彼女を見た。


 十四歳。

 学院候補生服。

 少尉章。

 戦略機動師団付。


 一瞬、視線が止まる。


 次に、敬礼が揃った。


 戸惑いより先に、軍規が動いた。


 ランド中尉が先に進む。


「現地指揮官は」


 通信兵が答えた。


「第三区域封鎖班、マイゼル大尉です」


「取次ぎを」


 拠点の内側から、一人の大尉が歩いてきた。


 三十代後半。


 北方方面軍の外套は、肩口に凍った泥がついている。

 階級章の周囲だけが、布で拭われていた。

 眼の下に、眠っていない者の影がある。


 マイゼル大尉は、ランド中尉へ敬礼した。


「第三区域封鎖班、マイゼル大尉だ」


「戦略機動師団、ランド中尉です。命令書に基づき、封鎖支援を実施します」


「承知している」


 マイゼル大尉の視線が、ヴィクトリアへ移った。


 一拍。


 短い沈黙。


「アイゼンベルク少尉か」


「はい」


「……若いな」


 誰も息をしなかった。


 言葉は失礼ではない。


 だが、余裕のない現場から出た本音だった。


 ヴィクトリアは表情を変えない。


「任務に支障はありません」


 マイゼル大尉は、わずかに目を細めた。


 それ以上は言わない。


 ランド中尉が書類を開いた。


「状況報告を」


 マイゼル大尉は、封鎖線の方を向いた。


「観測杭三基沈黙。導通杭一基、出力不安定。術式媒介線、第三節から第五節まで断続遮断。封鎖幕の内側に撤退小隊二つ。通信遅延あり。現地術式班による再接続は失敗しました」


「残存人数」


「第一小隊、残存十二名。第二小隊、残存十名。うち担架二。撤退開始済ですが、破断部の揺れが大きい」


「必要維持時間は?」


「十八分」


 ランド中尉は記録官を見た。


 記録官が紙へ書く。


 十八分。


 マイゼル大尉は続ける。


「完全修復は不要。十八分、破断部を押さえれば、残存部隊は抜けられる」


「術式班の状態は?」


「二名が出力低下。一名は意識混濁。班長は立っているが、もう一度は無理だ」


 風が吹いた。


 封鎖線の向こう側で、何かが鳴った。


 金属ではない。


 獣でもない。


 音だけが、少し遅れて届いた。


 ヴィクトリアは、そちらを見た。


 黒い荒野の外縁に、観測杭が並んでいる。


 高い塔ではない。


 地面に打ち込まれた、細い黒鉄の杭。

 一定間隔で置かれた導通杭。

 その間を這う接地導線。

 雪と泥の下を通る術式媒介線。


 封鎖幕は、壁には見えなかった。


 薄い。


 ただ、そこだけ空気の層がずれている。


 向こう側の景色が、少し遅れる。


 人影の輪郭だけが、ほんのわずかに滲んでいた。


 光る壁ではない。


 雷の輪でもない。


 観測し、記録し、接地し、維持するための長い網。


 その一部が、破れていた。


 第三節から第五節。


 そこだけ、封鎖幕が呼吸するように開く。


 閉じる。


 また、開く。


 見ているだけで、目の奥が冷える。


 ランド中尉が振り返った。


「医務確認」


 医務士官が前に出る。


 白い腕章。


 黒い手袋。


 彼はヴィクトリアの前で止まり、記録票を開いた。


「アイゼンベルク少尉。術式行使前確認を行う」


「はい」


「疼痛」


「ありません」


「痺れ」


「ありません」


「視界異常」


「ありません」


「左手を」


 ヴィクトリアは手袋を外した。


 風が指先に触れる。


 医務士官は、彼女の指を一本ずつ確認する。


 曲げる。

 戻す。

 反応を見る。


「握力」


 ヴィクトリアは測定具を握った。


 数字が記録される。


「瞳孔」


 小さな灯が目に当たる。


「呼吸」


 胸郭の動き。


「脈」


 手首。


 医務士官は最後に、短く言った。


「現時点、行使可能。ただし、申告は判断材料の一部とする」


「承知しました」


「申告のみで異常なしとは記録しない」


 ヴィクトリアは、少しだけ瞬きをした。


「了解しました」


 ランド中尉が、封鎖線を見た。


「接続準備」


 現地術式班が動いた。


 疲れた士官が、導線の固定具を外す。

 別の兵士が、接地杭の周囲の雪を払う。

 記録官が時計を確認する。

 通信兵が耳当てを押さえたまま、短い符丁を繰り返す。


 誰も大声を出さない。


 封鎖線の前では、声が遠くなる。


 ヴィクトリアは指定位置へ進んだ。


 足元に、黒い接続盤が置かれている。


 そこから導線が三本伸びていた。


 一つは接地杭へ。

 一つは導通杭へ。

 一つは封鎖幕の破断部を示す標識線へ。


 ランド中尉が横に立つ。


「確認する。貴官は封鎖線破断部への一時導通を行う。目的は撤退部隊の離脱完了までの異常漏出抑制。攻撃行使は禁止。現地敵性存在への対応は、北方方面軍が行う」


「承知しました」


「維持時間、十八分。必要に応じて十九分まで延長。二十分を超える場合、師団長承認を要する」


「はい」


「行使後、即時切断。医務確認。以後、当方の許可なく再行使を禁ずる」


「承知しました」


 ランド中尉は時計を見た。


 通信兵が声を落とす。


「撤退部隊、内側標識線へ到達。第一小隊、視認」


 封鎖幕の向こうに、人影が動いた。


 輪郭が遅れる。


 兵士の肩。

 担架の棒。

 曲がった軍帽。

 誰かの足を引きずる影。


 音が届かない。


 見えているのに、遠い。


 マイゼル大尉が、歯を噛んだ音だけが近かった。


「始めろ」


 ランド中尉が言った。


「アイゼンベルク少尉。国家戦略級術式、限定行使を許可。術式区分、紫電。封鎖線破断部を一時再接続しろ」


「承知しました」


 ヴィクトリアは左手を接続盤へ置いた。


 金属は冷たかった。


 その冷たさの奥に、別のものがあった。


 沈黙した観測杭。


 不安定な導通杭。


 断続的に切れる術式媒介線。


 封鎖幕の裂け目。


 それらが、一本ずつ、指先へ触れてくる。


 痛みは、遅れて来た。


 焼ける痛みではない。


 冷たい金属線を、神経の内側へ差し込まれるような痛みだった。


 指先から肘へ。


 肘から肩へ。


 肩から背骨の奥へ。


 細い電流が、身体の内側を逆向きに走る。


 ヴィクトリアの左手の指が、一度だけ硬直した。


 医務士官が見た。


 記録官の筆が動く。


 ヴィクトリアは息を吐かない。


 紫電が、空を裂くことはなかった。


 雷鳴もない。


 低く、地面の下を走った。


 接地導線が、紫に一瞬だけ冷たく光る。


 導通杭の基部が灯る。


 沈黙していた観測杭のうち、一基が震えた。


 封鎖幕の破断部へ、細い紫電が入り込む。


 それは攻撃ではなかった。


 縫うように走る。


 裂け目の端を拾い、落ちた導通をつなぎ、薄い幕を仮に閉じる。


 封鎖線が、わずかに鳴った。


 音ではない。


 身体の内側で聞こえる、細い震えだった。


「第三節、反応回復」


 術式記録官が言った。


「第四節、導通不安定。第五節、応答遅延」


 ランド中尉は、ヴィクトリアを見ない。


 封鎖線だけを見る。


「維持」


「承知しました」


 ヴィクトリアの声は変わらない。


 左手の指は、接続盤の上で動かない。


 紫電は、細く走り続ける。


 その間、封鎖線の揺れが彼女へ返ってくる。


 観測杭三基ぶんの沈黙。


 導通杭の不安定出力。


 封鎖幕の裂け目。


 内側で動く撤退部隊の影。


 すべてが、痛みではなく、入力として神経へ重なる。


 ランド中尉の声が短く落ちた。


「撤退状況」


「第一小隊、外縁通過。残存十二名」


「担架」


「一」


「第二小隊」


「接近中」


 封鎖幕の向こうで、人影が増えた。


 今度は、音が少しだけ戻る。


 軍靴が凍った地面を擦る音。

 誰かの息。

 担架の金具。

 短い呻き。


 ヴィクトリアの視線は、封鎖線から動かない。


 封鎖幕の内側で、ひとつの影が遅れた。


 輪郭が、揺れる。


 近くの兵士が振り返る。


 手を伸ばす。


 音が、一瞬だけ遠くなった。


 マイゼル大尉が低く言う。


「急げ」


 命令ではなく、祈りに近かった。


 だが、誰も祈りとは呼ばない。


「第五節、再遮断兆候」


 記録官が告げる。


 ランド中尉が時計を見る。


「十二分経過。維持」


「はい」


 ヴィクトリアの返答は短い。


 その直後、左手の中指がわずかに跳ねた。


 医務士官の視線が落ちる。


 記録。


 左手指、単発痙攣。


 ヴィクトリアは何も言わない。


 紫電の線が、一瞬だけ太くなる。


 封鎖幕の裂け目が閉じる。


 第二小隊が外へ出る。


「第二小隊、残存九名」


 通信兵が言った。


 マイゼル大尉が振り返る。


「十名のはずだ」


 通信兵は、耳当てを押さえた。


「……内側、反応一。位置不明」


 風が止まったように感じた。


 誰も動かない。


 封鎖幕の向こうは、薄く揺れている。


 人影はもう見えない。


 ただ、地面に落ちた軍帽のようなものが、一瞬だけ遅れて映った。


 マイゼル大尉は目を閉じなかった。


「再突入は」


「封鎖維持上、不可」


 ランド中尉が即答した。


 マイゼル大尉の顎が、わずかに動く。


 それだけだった。


「第二小隊、残存九名。担架一」


 記録官が復唱する。


「欠員、一」


 その言葉が、封鎖拠点に落ちた。


 ヴィクトリアは、接続盤の上で左手を動かさない。


 視線も動かさない。


 ただ、手袋を外した右手が、外套の端を一度だけ掴んだ。


 誰もそれを見なかった。


 見た者がいたとしても、記録には残らない。


 ランド中尉が時計を確認する。


「撤退完了」


 通信兵が復唱する。


「撤退完了」


 マイゼル大尉が、低く言った。


「封鎖を戻せ」


 ランド中尉がヴィクトリアを見る。


「アイゼンベルク少尉。維持終了。接続を切断しろ」


「承知しました」


 ヴィクトリアは、紫電を切った。


 切断の痛みは、接続時より遅れて来た。


 指先からではない。


 背骨の奥から、左肩へ戻る。


 一拍。


 左手の感覚が消える。


 次に、戻る。


 遅い。


 ヴィクトリアの膝は落ちなかった。


 呼吸も乱れない。


 ただ、接続盤から手を離すまでに、二拍かかった。


 医務士官が前に出る。


「行使後確認」


「任務に支障はありません」


「申告のみでは確認不可」


 即答だった。


 ヴィクトリアは黙って左手を差し出した。


 医務士官は、指を確認する。


 親指。

 人差し指。

 中指。

 薬指。

 小指。


「曲げてください」


 曲がる。


「戻してください」


 戻る。


 中指だけが、半拍遅れた。


 医務士官は記録官へ言った。


「左手第三指反応遅延、軽微」


 記録官が書く。


「疼痛」


「ありません」


「再確認。疼痛は」


「ありません」


 医務士官は、ヴィクトリアを見た。


 表情はない。


 怒りでもない。


 同情でもない。


「疼痛申告なし」


 記録官が書く。


「瞳孔反応」


 小さな灯。


「正常」


「脈」


 一拍。


「やや速い」


「継続観察」


「はい」


 医務士官は手袋を返した。


 ヴィクトリアはそれを受け取り、ゆっくりとはめた。


 指は動く。


 少し遅い。


 だが、動く。


 マイゼル大尉が近づいた。


 彼はヴィクトリアへ敬礼した。


「撤退完了を確認した」


 礼ではない。


 報告だった。


 ヴィクトリアは返礼する。


「承知しました」


 マイゼル大尉は、何かを言いかけた。


 だが、やめた。


 視線だけが、封鎖線の向こうへ戻る。


 欠員一。


 その数字は、まだ紙の上にしかない。


 だが、現地の全員が知っていた。


 ランド中尉が書類を閉じる。


「アイゼンベルク少尉。本任務終了。以後、中央軍医務観察へ移行する」


「学院へは」


「観察後、判断する」


「承知しました」


 その日の午後、帝立軍官学院では上級課程の講義が続いていた。


 北棟三階の講義室。


 前から二列目、右端。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの席は空いていた。


 机の上には、前日の講義資料が置かれたままだった。


 誰も片づけない。


 欠席ではない。


 通常任務でもない。


 学院の出席簿には、短く記された。


 軍務出頭中。


 同じ時刻、中央軍医務観察室では、別の記録が作成されていた。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。

 帝国中央軍戦略機動師団付。

 北方方面軍第三区域封鎖支援。

 国家戦略級術式、限定行使。

 術式区分、紫電。

 用途、封鎖線破断部の一時再接続。

 維持時間、十八分四十秒。

 撤退対象、残存二十二名。

 離脱確認、二十一名。

 欠員、一名。

 左手第三指反応遅延、軽微。

 脈拍上昇、軽度。

 疼痛申告なし。

 再行使、当日不可。

 継続観察。


 記録官は、最後の欄に筆を置いた。


 初回実任務。


 封鎖支援、完了。


 その記録には、十四歳という年齢は書かれていなかった。

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