第十五記録 疼痛申告なし
中央軍医務観察室の灯りは、昼でも白かった。
窓はある。
だが、厚い曇り硝子の向こうに、帝都の空は見えない。
時計の音。
紙をめくる音。
ガラス器具が触れる音。
それだけが、室内に残っていた。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉は、寝台ではなく、椅子に座らされていた。
学院候補生服の袖は、左腕だけ肘の下まで捲られている。
防寒外套は外されていた。
白い手袋は、机の端に揃えて置かれている。
候補生章と少尉章は、襟元に並んだままだった。
ヴィクトリアは右利きだった。
筆記も、軍刀も、通常の指揮動作も右手で行う。
だから、紫電の接続側には左手が指定された。
国家戦略級術式のように術者負荷の高い術式運用では、利き手を保全する。
戦闘継続。
署名。
軍刀保持。
緊急時の切断動作。
右手を残すために、左手を接続側へ回す。
それは例外ではなく、運用上の処置だった。
中央軍医務士官は、候補生章も少尉章も見なかった。
彼が見ているのは、左手だった。
「左手第三指」
「はい」
「もう一度、曲げてください」
ヴィクトリアは中指を曲げた。
動く。
だが、わずかに遅い。
医務士官は時計を見ずに、反応だけを記録した。
「戻してください」
戻る。
また、半拍遅れる。
記録官の筆が動いた。
左手第三指反応遅延、軽微。
「疼痛」
「ありません」
「痺れ」
「ありません」
「熱感」
「ありません」
「視界異常」
「ありません」
医務士官は、淡々と次の欄へ移った。
「聴覚異常」
「ありません」
「封鎖線接続中、音の遅延を認識しましたか」
「はい」
「現在も継続していますか」
「いいえ」
「背部痛」
「ありません」
「左肩」
「ありません」
医務士官は、そこで筆を止めた。
「アイゼンベルク少尉」
「はい」
「こちらは、任務継続可否を問うていません」
ヴィクトリアは答えない。
「再行使可否を判定しています」
「承知しました」
「その上で、疼痛は」
「ありません」
一拍。
医務士官は、記録票の欄外に短く書いた。
疼痛申告なし。
次に、別の欄へ移る。
身体反応と申告、乖離可能性あり。
ヴィクトリアは、その筆先を見ていた。
眉は動かない。
呼吸も変わらない。
ただ、左手の中指が、椅子の縁に触れたまま止まっている。
ランド中尉が、観察室の扉の近くに立っていた。
黒い外套は脱いでいない。
左袖の戦略機動師団識別章だけが、白い灯りの下で冷たく見えた。
彼は、手元の報告書を開く。
「北方方面軍第三区域封鎖支援。任務完了」
記録官が別紙を用意する。
「維持時間、十八分四十秒。撤退対象、残存二十二名。離脱確認、二十一名。欠員、一名。封鎖線第三節、応急導通回復。第四節、不安定維持。第五節、応答遅延のまま一時閉鎖」
医務士官は頷かない。
ただ、聞いている。
「術式区分、紫電。国家戦略級術式、限定行使。用途、封鎖線破断部の一時再接続。攻撃行使なし」
ランド中尉は、そこで一度だけ紙をめくった。
「接続側、左手。理由、利き手保全」
記録官が、その一文を別欄へ書き写す。
「切断後、左手第三指反応遅延。単発痙攣一回。脈拍上昇、軽度。疼痛申告なし」
「再行使可否」
医務士官が言った。
ランド中尉は即答した。
「当日不可」
「根拠」
「切断後反応遅延。行使中の単発痙攣。および本人申告の信頼性不足」
ヴィクトリアは顔を上げた。
ランド中尉は、彼女を見なかった。
報告書だけを見ている。
「任務には支障ありません」
ヴィクトリアが言った。
「支障の有無は、運用側で判断する」
ランド中尉の声は平坦だった。
「貴官の申告は、記録する。採用するとは限らない」
「承知しました」
医務士官は、左手へ細い金属棒を当てた。
「感覚」
「あります」
「ここは」
「あります」
「ここは」
「あります」
「ここは」
一拍。
「あります」
記録官の筆が動く。
第三指末節、反応遅延。
医務士官は、器具を置いた。
「本日中の術式高出力行使、禁止」
「承知しました」
「明朝まで経過観察」
「学院へは」
「観察終了後、判断します」
ヴィクトリアは、それ以上聞かなかった。
観察室の白い灯りが、少尉章の縁に触れていた。
候補生章も、その横にある。
二つの章は、どちらも外されない。
帝国は、どちらの身分も取り消していなかった。
ただ、どちらの身分でも、彼女を休ませてはいなかった。
医務士官は、記録票を閉じる。
「食事は」
「不要です」
「質問ではありません」
ヴィクトリアは黙った。
医務士官は、扉の外へ短く合図した。
医務補助兵が、黒パンと薄いスープを載せた盆を持って入ってくる。
湯気は少ない。
それでも、温かかった。
「摂取量も記録します」
「承知しました」
ヴィクトリアは右手で匙を取った。
その動作に不自然さはない。
彼女は、もともと右手で食事をし、右手で字を書く。
医務士官が見ていたのは、右手を使ったことではなかった。
左手が食事動作に参加しなかったことだった。
記録官だけが、短く書いた。
食事、右手使用。
左手第三指、食事動作への参加なし。
ランド中尉は、報告書を閉じた。
「アイゼンベルク少尉」
「はい」
「本任務の結果は、戦略機動師団長確認へ回される」
「承知しました」
「同時に、学院長室へも通達される」
「はい」
「本日午後の学院講義は欠席扱いではない。軍務出頭中として処理される」
「承知しました」
ランド中尉は、そこで初めてヴィクトリアを見た。
「欠員一名について、追加確認がある場合は現地指揮官へ照会される。貴官への照会予定は、現時点ではない」
「はい」
「貴官の任務は封鎖線維持だった。捜索ではない」
「承知しています」
返答は速かった。
速すぎた。
医務士官の筆が、一度だけ止まる。
ランド中尉は続けない。
観察室には、スープの湯気と紙の匂いだけが残った。
その日の午後、帝立軍官学院では、上級課程の講義が続いていた。
北棟三階。
戦時指揮権の例外運用。
黒板には、前日の文字がまだ薄く残っている。
候補生。
任官。
現場指揮権。
戦時特例。
その下に、新しい文字が加えられていた。
軍務出頭者の教育課程処理。
教官は、いつも通りの声で講義を進めた。
「学院籍を保持した任官者は、軍務出頭中であっても教育課程から除外されない」
候補生たちは筆を取る。
「ただし、出席簿上は通常欠席ではなく、軍務出頭として処理する」
前から二列目、右端。
ヴィクトリアの席は空いていた。
机の上には、前日の講義資料が置かれている。
誰も片づけない。
誰も座らない。
その席が空いていることを、全員が知っていた。
だが、誰も振り返らない。
講義は続く。
軍官学院では、空席も記録の一部だった。
エレオノーラ・フォン・グライフェルトは、三列目に座っていた。
彼女の筆は止まらない。
だが、教官が「軍務出頭」と言った時だけ、筆先が少し深く紙へ入った。
インクが滲む。
それだけだった。
夕刻。
中央軍医務観察室の判定が下りた。
再行使、当日不可。
高出力術式訓練、三日間停止。
左手第三指反応遅延、軽微。
翌日午前、学院復帰可。
継続観察。
ヴィクトリアは、判定書を受け取った。
「確認しました」
医務士官は、最後に言った。
「明朝、学院医務室でも再確認を受けてください」
「承知しました」
「疼痛が出た場合は、即時申告」
「はい」
一拍。
医務士官は、彼女を見た。
「申告する意思はありますか」
ランド中尉が視線を動かした。
記録官の筆も止まる。
ヴィクトリアは答えた。
「任務に支障がある場合は、申告します」
医務士官は、表情を変えなかった。
「記録します」
筆が動く。
疼痛申告基準、任務支障の有無に依存。
ヴィクトリアは、その文字を見た。
何も言わない。
翌朝。
帝立軍官学院の東棟は、いつも通り静かだった。
雨は降っていない。
石床は冷えている。
壁灯は白い。
候補生たちは、講義室へ向かう廊下で足を止めた。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉が、廊下の向こうから歩いてきた。
学院候補生服。
候補生章。
少尉章。
白い手袋。
歩幅は乱れていない。
左手も、通常通りに見える。
ただ、手袋の指先が、いつもより少しだけ硬かった。
上級候補生が先に敬礼した。
次に、下級候補生が続く。
ヴィクトリアは答礼する。
誰も声をかけない。
大丈夫か、と聞く者はいない。
何があったのか、と問う者もいない。
軍務出頭中。
それが、出席簿に記された事実だった。
講義室に入ると、教官が顔を上げた。
「アイゼンベルク少尉」
「はい」
「復帰判定は」
「翌日午前、学院復帰可。高出力術式訓練、三日間停止。継続観察」
「確認した。着席しろ」
「承知しました」
ヴィクトリアは席へ戻った。
前から二列目、右端。
講義資料は、そのまま置かれていた。
彼女はそれを一度だけ見た。
次に、何事もなかったように開く。
白紙の余白に、今日の日付を書いた。
右手で。
それは通常の動作だった。
ヴィクトリアは、もともと右手で字を書く。
ただ、左手は机の下で動かなかった。
講義が始まる。
戦時特例任官者の復帰処理。
教官の声が、黒板の前で続く。
ヴィクトリアは、筆を取った。
少し遅れて、エレオノーラが彼女を見た。
左手。
手袋。
指先。
視線は一瞬だけだった。
すぐに戻る。
講義後。
候補生たちが退室していく。
誰も長く残らない。
エレオノーラは、机の横で足を止めた。
「アイゼンベルク少尉」
ヴィクトリアは顔を上げる。
「グライフェルト候補生」
「復帰されたのですね」
「はい」
エレオノーラは、机の上の講義資料を見た。
前日のまま置かれていた紙。
今日の日付。
右手で書かれた文字。
視線は一瞬だけ、ヴィクトリアの左手へ落ちた。
だが、何も聞かなかった。
「講義は、第三節まで進んでいます」
「承知しました」
「必要であれば、記録を回します」
一拍。
「助かります」
エレオノーラは、敬礼の角度を崩さなかった。
「では」
ヴィクトリアも返礼する。
それ以上、彼女は聞かなかった。
慰めではない。
詮索でもない。
問うべきでないものを、問わないための礼節だった。
その夜、三つの記録がそれぞれ別の場所に残された。
中央軍医務観察記録。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
北方方面軍第三区域封鎖支援後観察。
左手第三指反応遅延、軽微。
疼痛申告なし。
脈拍上昇、軽度。
高出力術式訓練、三日間停止。
再行使、当日不可。
翌日午前、学院復帰可。
継続観察。
帝国中央軍戦略機動師団、術式運用記録。
国家戦略級術式、限定行使。
術式区分、紫電。
接続側、左手。
理由、利き手保全。
用途、封鎖線破断部の一時再接続。
維持時間、十八分四十秒。
撤退対象、残存二十二名。
離脱確認、二十一名。
欠員、一名。
封鎖支援、完了。
帝立軍官学院、出席簿。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
前日午後、軍務出頭中。
翌日午前、復帰。
教育課程、継続。
記録は、別々に保管された。
医務は身体を見た。
師団は術式を見た。
学院は席を見た。
そのどれにも、十四歳という年齢は書かれていなかった。
最後に、医務観察記録の備考欄へ、一行が加えられた。
身体反応と本人申告に乖離あり。
継続観察。




