第十六記録 再行使条件
――初回実任務翌日。帝国中央軍本部。
北方方面軍第三区域封鎖支援の後処理は、翌日になっても終わっていなかった。
任務は完了している。
撤退対象、残存二十二名。
離脱確認、二十一名。
欠員、一名。
封鎖支援、完了。
それでも、書類は終わらない。
中央軍において、任務の完了とは、次の運用条件を作るための開始線だった。
戦略機動師団の小会議室は、南棟二階の奥にあった。
細い窓。
長い黒机。
北方方面軍管区図。
封鎖線設備配置図。
赤いピンが一本だけ刺されている。
北方方面軍第三区域。
破断部。
会議室には、四人がいた。
ランド中尉。
中央軍医務士官。
術式記録官。
帝立軍官学院連絡士官。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉はいない。
本人不在のまま、彼女の次回運用条件が決められようとしていた。
ランド中尉が報告書を開く。
「北方方面軍第三区域封鎖支援。初回実任務後処理を開始する」
術式記録官が封筒を一つ置いた。
「現地術式班所見です」
封筒の角には、薄く泥の跡が残っていた。
拭われている。
だが、消えきってはいない。
ランド中尉は封を切った。
紙は三枚。
一枚目は、封鎖線の破断状況。
二枚目は、紫電行使時の反応記録。
三枚目は、現地術式班長の所見だった。
ランド中尉は三枚目を読み上げる。
「アイゼンベルク少尉による接続精度、極めて高い。第三節から第五節までの応急導通、十八分四十秒維持。封鎖幕破断部に対する一時再接続は成功」
術式記録官の筆が動く。
「ただし、術者負荷は通常術式班三名以上に相当。観測杭沈黙区画を術者側で代替しており、継続投入は推奨しない」
医務士官が、そこで視線だけを上げた。
「妥当です」
ランド中尉は紙を置いた。
「医務側所見は」
医務士官が記録票を出す。
「左手第三指反応遅延、軽微。単発痙攣一回。脈拍上昇、軽度。疼痛申告なし。ただし、身体反応と本人申告に乖離あり」
「再行使可否」
「通常任務では不可」
「期間」
「最低三日」
学院連絡士官が筆を止めた。
「学院課程への反映は」
「高出力術式訓練、三日間停止。左手補助動作を伴う実技も停止」
「剣術実技は」
「右手主導なら可。ただし、左手補助動作を伴う型は除外」
「候補生監督補佐業務は」
「左手使用を伴わない範囲で可」
学院連絡士官は、それを書き写した。
講義可。
筆記可。
候補生監督補佐業務、制限付き継続。
左手補助動作を伴う実技、三日停止。
ヴィクトリアのいない場所で、ヴィクトリアの一日が組み直されていく。
ランド中尉は、次の欄へ進んだ。
「接続側」
術式記録官が答える。
「左手継続を推奨します」
「理由」
「利き手保全。本人は右利き。筆記、軍刀、通常指揮動作を右手で行うため、国家戦略級術式など術者負荷の高い術式運用では、左手接続が妥当です」
医務士官が短く付け加えた。
「ただし、反応遅延が残る間は再接続不可」
「三日経過後は」
「再検査」
「緊急時は」
会議室の空気が、少しだけ重くなる。
北方方面軍第三区域は、今回だけでは終わらない。
封鎖線は修復される。
観測杭は交換される。
術式班は補充される。
それでも、また破れる。
その時、帝国は何を使うか。
医務士官が言った。
「緊急封鎖案件に限り、上級承認を要します」
「師団長承認か」
「医務側としては、師団長承認に加え、現地医務確認を条件とします」
「再行使までの最低間隔は」
「通常七十二時間」
「緊急時」
「二十四時間未満は推奨しません」
ランド中尉は紙へ書いた。
通常再行使、七十二時間以降。
緊急封鎖案件、師団長承認を要する。
現地医務確認必須。
二十四時間未満の再行使、非推奨。
術式記録官が、別欄を指した。
「非推奨では弱いのでは」
医務士官は顔を上げた。
「禁止と書けば、現場は迂回します」
誰も反論しなかった。
中央軍では、禁止は絶対ではない。
例外理由を作るための言葉になることがある。
ランド中尉は、少しだけ沈黙した。
「では、非推奨。実施時は、師団長承認および医務責任者署名を必須とする」
「それなら記録が残ります」
医務士官が言った。
記録が残る。
それは、止めることではない。
誰が許可したかを、後で確認できるという意味だった。
会議室の扉が叩かれた。
三回。
伝令士官が入る。
「戦略機動師団長室より、確認欄の返送です」
ランド中尉は封筒を受け取った。
封筒には、戦略機動師団長印。
アレクシス・フォン・アイゼンベルク大将。
元帥府作戦将校。
帝国中央軍戦略機動師団長。
ヴィクトリアの父。
だが、封筒にも書類にも、父という文字はない。
ランド中尉は封を開いた。
師団長確認欄には、すでに押印があった。
追記は一行。
緊急封鎖案件に限り、師団長承認をもって再行使可。
それだけだった。
医務士官が、その一文を見る。
「医務条件は」
「運用条件書に残す」
「師団長確認欄には」
「入らない」
一拍。
「だが、記録には残せ」
「承知しました」
術式記録官が、新しい書類の表題を書いた。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
国家戦略級術式再行使条件。
その下に、項目が並ぶ。
通常再行使、七十二時間以降。
高出力術式訓練、三日間停止。
左手接続継続。
理由、利き手保全。
本人申告、参考記録扱い。
身体反応優先。
緊急封鎖案件に限り、師団長承認をもって再行使可。
現地医務確認必須。
二十四時間未満の再行使、非推奨。
実施時、師団長承認および医務責任者署名必須。
ランド中尉は、それを黙って見ていた。
医務士官も、学院連絡士官も、何も言わない。
ひとつの条件が増えるたび、守っているようにも見える。
だが、実際には違う。
条件は、使用禁止のためだけに作られるのではない。
次に使うためにも作られる。
――同日午後。帝立軍官学院。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉は、自席にいた。
前から二列目、右端。
学院候補生服。
候補生章。
少尉章。
白い手袋。
右手で筆を取り、教官の言葉を記録している。
左手は机の下にある。
動かないわけではない。
使われていないだけだった。
教官が黒板へ書く。
軍務出頭者の教育課程処理。
「学院籍を保持した任官者は、軍務出頭中であっても教育課程から除外されない」
候補生たちは筆を動かす。
「ただし、出席簿上は通常欠席ではなく、軍務出頭として処理する」
ヴィクトリアは、その内容を右手で書き写した。
自分のことだった。
だが、筆跡は乱れない。
講義後、候補生監督補佐業務が始まった。
第一演習場の石床は冷えている。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
候補生たちは整列している。
ヴィクトリアは、列の前に立った。
訓練記録板は右手で持っている。
左手は使わない。
だが、立ち方は変わらない。
下級候補生が敬礼する。
角度が浅い。
「肘が低い」
「はい、少尉」
「視線」
「はい」
「足幅」
「はい、少尉」
ヴィクトリアは頷かない。
ただ、次の候補生を見る。
敬礼角度。
足幅。
報告声量。
記録漏れ。
昨日、封鎖線に接続された少尉が、今日は候補生の規律を直している。
誰も、それを口にしない。
演習場の端で、エレオノーラ・フォン・グライフェルトはそれを見ていた。
ヴィクトリアの右手。
記録板。
使われない左手。
そして、いつもと同じ声。
変わらない。
そう見える。
だからこそ、余計に目を離せなかった。
――以後、七日間。
ヴィクトリアが席を外す頻度は、少しずつ増えていった。
最初は、一日だった。
次は、半日。
その次は、講義の途中で伝令が来た。
帝立軍官学院の講義室には、彼女の席が残っている。
前から二列目、右端。
講義資料は置かれたまま。
筆記用具も、規定位置に揃えられている。
出席簿には、欠席ではなく、軍務出頭中と記される。
それだけだった。
誰も騒がない。
誰も、その席へ座らない。
エレオノーラは、三列目からその席を見ていた。
見ている時間は長くない。
一瞬。
講義開始前。
教官が入室する前。
白墨が黒板に触れる前。
それだけ。
ヴィクトリアが戻れば、席は埋まる。
戻らなければ、空いたまま講義は進む。
学院は、そう処理するようになっていた。
異常は、何度か繰り返されると手続きになる。
それが、帝立軍官学院だった。
ヴィクトリアは、戻ってくるたびに変わらなかった。
講義には遅れず追いつく。
提出物に不備はない。
候補生監督補佐としての記録も、期限内に提出される。
下級候補生の敬礼角度も、今まで通り直す。
食堂でも、廊下でも、資料室でも、彼女はいつも通りだった。
ただ、少しだけ顔色が白い日があった。
朝の点呼で、返答が半拍遅い日があった。
左手の手袋を直す回数が、増えた日があった。
それでも、記録には残らない。
講義可。
筆記可。
候補生監督補佐業務、制限付き継続。
書類上、彼女は運用可能だった。
――第三演習場。剣術実技演習。
午前の冷えが、石床に残っていた。
壁際には訓練刀が並び、教官が中央で号令を出す。
候補生たちは二列に分かれ、型の確認を行っていた。
ヴィクトリアは、教官補助位置にいた。
学院候補生服。
白い手袋。
候補生章。
少尉章。
腰には訓練用軍刀。
右手で柄を取る。
左手で鞘を押さえる。
抜刀。
切り返し。
停止。
動作は速い。
正確だった。
だが、エレオノーラは見た。
納刀の直前。
左手が、半拍だけ遅れた。
ほんのわずかだった。
訓練刀が鞘へ戻る角度は乱れていない。
姿勢も崩れていない。
右手の制御も完璧だった。
だから、普通の候補生なら気づかない。
教官も指摘しない。
だが、エレオノーラは見ていた。
左手。
第三指。
手袋の下で、動作が一拍遅れた。
ヴィクトリアは何もなかったように、次の候補生へ向き直る。
「足幅が広い」
「はい、少尉」
「切り返し後、視線を落とすな」
「はい、少尉」
「もう一度」
命令は短い。
声に乱れはない。
疲れているようには見えなかった。
少なくとも、そう見えるようにしていた。
エレオノーラは、自分の手袋の指先を整えた。
国家戦略級術者。
帝国に数えるほどしかいない指定区分。
その中でも、アイゼンベルク少尉の術式記録は、学院成績ではなく、戦略機動師団の運用記録として管理されていた。
だから、使われる。
まだ第一年次であっても。
まだ十四歳であっても。
軍刀の重さより先に、国家戦略級術式の負荷を身体へ通されていても。
エレオノーラは、そのことを考えた。
考えたこと自体を、すぐに消した。
演習中だった。
余計な思考は、記録に残らない。
ヴィクトリアが歩いてくる。
エレオノーラは姿勢を正した。
「アイゼンベルク少尉」
ヴィクトリアは足を止める。
「はい」
エレオノーラは、一瞬だけ言葉を探した。
左手のことを言うべきではない。
医務所見は、候補生監督班が確認するものではない。
軍務内容も、問う権限はない。
術式負荷についても、聞く立場にない。
それらを理解できる程度には、彼女はもう無知ではなかった。
「……第二列、三番の候補生ですが」
「はい」
「切り返し後の姿勢が崩れています。腰ではなく、左足の置き方です」
ヴィクトリアは、第二列へ視線を移した。
一拍。
「確認します」
「はい」
それだけだった。
エレオノーラは、敬礼の角度を崩さなかった。
ヴィクトリアは返礼し、第二列へ向かう。
左手は、通常通りに見えた。
それでも、エレオノーラはもう見てしまっていた。
――中央軍記録保管室。
夜。
国家戦略級術式再行使条件の書類が、正式に収められた。
対象、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク少尉。
帝国中央軍戦略機動師団付。
学院籍保持候補生。
接続側、左手継続。
理由、利き手保全。
本人申告、参考記録扱い。
身体反応優先。
通常再行使、七十二時間以降。
高出力術式訓練、三日間停止。
緊急封鎖案件に限り、師団長承認をもって再行使可。
現地医務確認必須。
二十四時間未満の再行使、非推奨。
学院教育課程、継続。
軍務出頭処理、継続適用。
備考。
当該少尉、初回実任務において封鎖支援を完了。
身体反応と本人申告に乖離あり。
運用時、医務記録を優先すること。
記録官は、最後の一文を書き加えた。
帝国は、彼女を休ませる方法ではなく、次に使う条件を整えた。




