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帝国の華 外伝 戦場の英雄、黒鷹――ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの記録  作者: 帝国の華


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第八記録 首席欄外

定期総合考査の告示は、東棟と西棟の掲示板へ同時に張り出された。


 白紙。

 黒印。

 学院長印。


 そこに余計な文言はなかった。


 帝立軍官学院、第百十二期定期総合考査。

 対象、第一年次候補生全員。

 実施期間、三日間。

 評価項目、筆記、口頭試問、地図判読、兵站計算、軍法、帝国軍制、術式理論、報告書作成。

 成績は、進級区分、監督補佐任用、上級課程聴講許可、任官前評価に反映される。


 候補生たちは、それを読んだ。


 誰も騒がない。


 定期考査は、学院生活の行事ではない。


 自分がどこへ送られるか。

 どこまで上がれるか。

 どの部署に届くか。

 どこで頭打ちになるか。


 それを測る分類だった。


 東棟では、貴族候補生たちが軍制と戦略史の資料を開いた。

 西棟では、平民候補生たちが兵站計算と地図判読の問題集を回した。


 同じ考査を受ける。


 だが、見るところは違う。


 貴族候補生は、上級指揮課程への推薦を見る。

 平民候補生は、方面軍配属を避けられる点を見る。

 上級候補生監督班は、次に誰を監督補佐へ上げるかを見る。


 学院とは、そういう場所だった。


 その掲示の前で、エレオノーラ・フォン・グライフェルトは足を止めた。


 三年次上級候補生監督班所属。

 侯爵家の娘。

 中央軍参謀課程への推薦候補。


 彼女は、掲示板の端にある追加欄を見た。


 特別評価対象者については、別紙評価を併用する。


 名前は書かれていない。


 だが、誰を指しているのかは分かった。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。


 エレオノーラは何も言わなかった。


 ただ、手袋の指先を一度だけ整えた。


 考査初日。


 大講義室には、長机が等間隔に並べられていた。


 窓は高い位置にあり、白い光だけが机の上へ落ちている。

 インク瓶。

 答案紙。

 封緘された問題冊子。

 時計。

 監督教官。


 椅子を引く音も少ない。


 候補生たちは着席し、号令を待った。


 ヴィクトリアは、前方右列にいた。


 十四歳。

 第一年次候補生。


 だが、彼女の机の上にだけ、答案紙が一枚多い。


 別紙解答欄。


 それを見た候補生は、すぐに視線を戻した。


 監督教官が時計を見た。


「開始」


 紙が開かれる。


 第一科目、帝国軍制。


 候補生たちの筆が動く。


 軍制。

 階級。

 方面軍。

 中央軍。

 元帥府。

 監察総監部。

 情報分析局。

 戦略機動師団。


 名を書く試験ではない。


 どの機関が、どこまで命令権を持つか。

 非常時に、誰が誰を越えられるか。

 記録はどこへ残るか。


 それを答える試験だった。


 ヴィクトリアの筆は速かった。


 だが、急いでいるわけではない。


 線が乱れない。

 余白が汚れない。

 訂正が少ない。


 設問三。


 北方方面軍通信断絶時、中央軍作戦局が方面軍司令部を介さず直接封鎖命令を発する条件を述べよ。


 候補生たちの筆が少し鈍る。


 ヴィクトリアは止まらない。


 設問七。


 戦略機動師団投入時、現地指揮官が保持すべき最低権限と、放棄すべき権限を述べよ。


 ヴィクトリアの筆が一度だけ止まった。


 次に、別紙解答欄へ移る。


 監督教官が、その動きを見た。


 何も言わない。


 筆音だけが残る。


 第二科目、兵站計算。


 補給車列の遅延。

 弾薬消費率。

 医療品優先配分。

 寒冷地での馬匹損耗。

 術式媒介材の再補給。


 平民候補生の何人かは、ここで速度を上げた。


 彼らは実務に強い。


 数字と地図は、家格を見ない。


 それでも、ヴィクトリアの答案は早かった。


 ただ早いだけではない。


 補給線を最短で引かない。

 予備線を残す。

 医療品を後方集積所へ寄せない。

 術式媒介材の消費量を、教範より少し多く見積もる。


 監督教官は、答案回収時にその欄で目を止めた。


 数値は合っている。


 だが、前提が違う。


 教範上の標準消費ではない。


 実戦時の消耗に近い。


 午後。


 口頭試問は、小講義室で行われた。


 候補生は一人ずつ呼ばれる。


 長机。

 教官三名。

 記録官一名。

 椅子一脚。


 壁の時計の音が、紙の音より大きい。


「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生」


「はい」


 ヴィクトリアは入室し、規定位置で停止した。


 敬礼。


 着席命令。


 着席。


 教官の一人が、問題紙を見た。


「補給線が三日以内に回復しない場合、前線指揮官が優先すべきものは何か」


 定型問題だった。


 通常解答は、戦線保持、補給再接続、負傷者搬送、撤退準備の優先順位を述べるもの。


 ヴィクトリアは、すぐには答えなかった。


「三日以内に回復しないと判断した時点で、前線のみの問題ではありません」


 教官の筆が止まる。


「続けろ」


「前線指揮官は、保持可能線と負傷者搬送を確認します。同時に、後方司令部は再接続不能の責任線を確定する必要があります」


「責任線」


「はい」


「前線指揮官の判断を問うている」


「前線で保持不能と判断する前に、後方で補給不能が発生しています」


 記録官が顔を上げた。


 ヴィクトリアは視線を動かさない。


「前線だけで処理すれば、撤退命令が遅れます」


 沈黙。


 教官は次の問いへ移った。


「通信断絶時、第二小隊長が負傷。第三小隊は敵側面と接触。主力指揮官は支援射撃要請中。誰が指揮を継ぐ」


「事前指定がなければ、継げません」


「候補を述べよ」


「述べる前に、指定不備として記録します」


 教官の眉がわずかに動いた。


「試問だ」


「はい」


「解答を」


「側面接触中の第三小隊長へ継承させると、側面警戒が崩れます。支援射撃要請中の主力指揮官へ集約すると、通信断絶下で過負荷になります。第二小隊の副指揮官を代替指揮に指定し、支援射撃要請権のみ主力指揮官に残します」


「教範の標準解答とは違う」


「状況が違います」


 一拍。


 教官は問題紙を伏せた。


「最後に、術式理論」


 記録官が別紙を用意する。


「高出力術式の神経負荷を軽減するための基本制限を述べよ」


 ヴィクトリアの視線が、ほんのわずかに下がった。


 左手の手袋。


 前日の処置跡は、まだ見えない。


「出力制限。接地導線。遮断幕。反応紙による神経負荷確認。術後の医務確認。連続使用禁止」


「標準値は」


「対象術式によります」


「教範上の標準値を問うている」


「教範上の標準値は、国家戦略級術式に適用できません」


 記録官の筆が止まった。


 教官は、しばらくヴィクトリアを見た。


「理由は?」


「遮断幕が保ちません」


 答えは短かった。


 小講義室の空気が、少しだけ冷える。


「以上」


「はい」


 ヴィクトリアは立ち上がり、敬礼した。


 退室。


 扉が閉じる。


 教官の一人が、答案紙を見た。


「誤答か」


 もう一人が、別紙をめくる。


「いや」


 沈黙。


「実測値だ」


 その日の夕刻、答案採点室には、通常答案と別紙答案が分けて置かれていた。


 採点官たちは、声を落としていた。


 筆記。

 上限値。


 兵站計算。

 上限値。


 地図判読。

 上限値。


 軍法。

 上限値。


 帝国軍制。

 上限値。ただし別紙記載あり。


 口頭試問。

 教範外判断あり。


 術式理論。

 一部、採点保留。


 採点保留。


 その言葉は、減点ではない。


 採点できない、という意味だった。


 翌朝。


 東棟と西棟の掲示板前には、候補生たちが集まっていた。


 定期総合考査、成績掲示。


 白い紙が貼られている。


 通常順位。


 一位の欄には、ヴィクトリアの名前はなかった。


 一位、貴族候補生。

 二位、平民候補生。

 三位、貴族候補生。

 四位、平民候補生。


 候補生たちは、そこを見た。


 次に、無意識に右端を見た。


 別紙評価欄。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。

 総合評価、別紙参照。

 通常順位、記載保留。

 上級課程聴講制限、解除。

 二年次および三年次戦術演習、参加許可。

 年次所属、第一年次のまま。

 通常課程外評価継続。


 誰かが、小さく息を飲んだ。


 落第ではない。


 減点でもない。


 一位に置かれなかったのではない。


 一位として置けなかった。


 掲示板の前で、エレオノーラ・フォン・グライフェルトは黙っていた。


 昨日より正確になった敬礼。

 訓練盤の保存命令。

 年次基準外。


 その言葉が、彼女の中に残っている。


 掲示板の通常順位には、彼女がよく知る名が並んでいた。


 学院の序列。


 点数で示され、年次で管理され、推薦で整えられるもの。


 その右端に、別紙欄がある。


 エレオノーラは、そこから目を離さなかった。


「グライフェルト候補生」


 声がした。


 ヴィクトリアが横に立っていた。


 エレオノーラは、わずかに遅れて返礼する。


「アイゼンベルク候補生」


「はい」


「上級課程へ行くのか」


「命令があれば」


「命令でなくとも、行くだろう」


「必要があれば」


 エレオノーラは、掲示板を見たまま言った。


「貴官は、必要という言葉を簡単に使う」


 ヴィクトリアは答えなかった。


 周囲の候補生たちは、二人の距離を見ていた。


 誰も近づかない。


 エレオノーラは続けた。


「一位ではないのだな」


 近くにいた下級候補生の肩が、わずかに強張る。


 ヴィクトリアは、掲示板を見た。


「通常順位には記載されていません」


「そういう意味ではない」


 エレオノーラの声は低かった。


「首席欄に置けなかったのだろう」


 沈黙。


 ヴィクトリアは、掲示板の右端を見た。


 別紙評価欄。


 そこに自分の名がある。


「学院序列では、私が上だと言った」


「はい」


「訂正する」


 エレオノーラは、ゆっくりと息を吐いた。


「貴官は、序列にいない」


 ヴィクトリアは答えなかった。


 否定もしない。


 肯定もしない。


 ただ、掲示板の紙を見ていた。


 エレオノーラは敬礼した。


 今度は、昨日よりさらに正確だった。


 ヴィクトリアも返礼する。


 それだけだった。


 その日の午後、学院長室へ定期総合考査の総合記録が上がった。


 通常成績表。

 別紙評価表。

 上級課程聴講制限解除通知。

 二年次および三年次戦術演習参加許可。

 年次所属維持確認。

 医務確認継続依頼。


 通常成績表には、首席が記載されていた。


 別紙評価表には、別の名があった。


 帝立軍官学院、第百十二期定期総合考査。

 対象、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生。

 筆記、全科目上限値。

 兵站計算、上限値。

 地図判読、上限値。

 軍法、上限値。

 帝国軍制、上限値。

 口頭試問、教範外判断あり。

 術式理論、一部採点保留。

 通常順位、記載保留。

 上級課程聴講制限、解除。

 二年次および三年次戦術演習、参加許可。

 年次所属、第一年次のまま。


 備考。

 当該候補生、通常成績序列への編入困難。

 国家戦略級術者指定および過去測定記録を踏まえ、別紙評価を継続。

 第一年次所属を維持したまま、上級課程聴講制限を解除。

 二年次および三年次戦術演習への参加を許可。

 医務所見、継続確認。


 学院長は、通常成績表に押印した。


 次に、別紙評価表を見た。


 同じ押印欄ではない。


 紙の厚さも違う。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの名は、首席欄には入らなかった。


 別紙に残った。


 それは、敗北ではない。


 栄誉でもない。


 分類だった。

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