第七記録 学院序列・後
午後。
第四訓練場には、上級候補生監督班の訓練盤が用意されていた。
実地演習ではない。
訓練盤上での複合指揮確認。
地形盤。
小隊札。
観測班札。
通信札。
支援射撃札。
補給倉庫模型。
民間施設模型。
指揮官負傷想定札。
友軍危険区域線。
代替指揮系統記入板。
午前までの訓練とは違う。
これは下級候補生へ与えられる基礎盤ではない。
二正面接触下における支援射撃要請、および指揮継承確認。
上級候補生監督班に課される訓練だった。
エレオノーラは、訓練盤の前に立っていた。
その横に、上級候補生が数名。
さらに後方に、記録係。
壁際には教官が一人だけ立っている。
教官は何も言わなかった。
入室したヴィクトリアへ、候補生たちの視線が向く。
ヴィクトリアは訓練場の入口で停止した。
「アイゼンベルク候補生、入ります」
エレオノーラは視線だけを向ける。
「入れ」
「はい」
ヴィクトリアは訓練盤の端へ立った。
前へ出すぎない。
発言席にも立たない。
観測補助として、規定の位置に立つ。
エレオノーラは、わずかに顎を引いた。
「本訓練は、上級候補生監督班による複合指揮確認だ」
「承知しました」
「課題は、二正面接触下における支援射撃要請、および指揮継承確認」
「はい」
「貴官は観測補助として記録を行う」
「承知しました」
「記録提出先は監督班だ」
「承知しました」
「不明点があれば、私へ確認しろ」
「承知しました」
ヴィクトリアは短く答えた。
記録板を受け取る。
白い紙。
黒い罫線。
訓練項目。
支援射撃要請。
危険区域確認。
観測班配置。
通信断絶時対応。
指揮官負傷時の継承順位。
補給施設保全。
友軍損耗判定。
エレオノーラは訓練盤へ向き直った。
「開始する」
駒が動く。
上級候補生たちの動きは、速かった。
無能ではない。
前衛小隊は敵前衛を押さえ、側面警戒小隊は北側の稜線へ置かれる。
観測班は高地へ進み、通信札は中央に残る。
補給倉庫模型の前には、最低限の警備駒が置かれていた。
前進判断も、支援射撃要請も早い。
エレオノーラは、訓練基準を理解している。
上級候補生として、十分に優秀だった。
だからこそ、見落としは小さかった。
小さいが、致命的だった。
仮想敵前衛が前進する。
エレオノーラは即座に支援射撃札を置いた。
「第三支援射撃、要請。敵前衛を遮断」
支援射撃札が、敵前衛の後方へ置かれる。
上級候補生の一人が、観測班札を高地へ進めた。
射線は通っている。
支援要請も成立する。
訓練盤だけ見れば、よく整った判断だった。
ヴィクトリアの筆が、短く動いた。
一件。
仮想敵側面部隊が、北側の林地に出る。
「側面警戒小隊、前進。敵側面を押さえる」
側面警戒小隊が動く。
通信札はまだ生きている。
エレオノーラは迷わない。
「主力小隊は前進継続。支援射撃まで敵前衛を拘束する」
駒が動く。
訓練盤は、攻勢に傾いた。
悪くない。
むしろ、上級候補生らしい。
敵前衛を押さえ、側面へ警戒を振り、支援射撃で敵主力を断つ。
戦果は取れる。
主要評価項目も満たす。
ヴィクトリアの筆が、また動いた。
二件。
三件。
エレオノーラは気づいた。
「アイゼンベルク候補生」
「はい」
「何を記録している」
「観測事項です」
「読み上げろ」
「現時点で、ですか」
「そうだ」
ヴィクトリアは記録板を見た。
「観測班、支援射撃危険区域内」
訓練場の空気が止まる。
「補給倉庫模型、支援範囲外縁に接触。通信断絶時、第二小隊の命令権者が未記入。指揮官負傷時、側面警戒小隊の継承順位が不明です」
エレオノーラの横にいた上級候補生が、訓練盤を見た。
観測班札は、高地にある。
支援射撃札の端に、かかっていた。
紙一枚分。
だが、かかっていた。
ヴィクトリアは続けない。
必要な分だけ言った。
エレオノーラは、ゆっくりと息を吸った。
「支援射撃要請は、本課題の主要評価項目だ」
「はい」
「観測班は要請に必要だ」
「はい」
「ならば配置は成立している」
「危険区域内です」
即答だった。
エレオノーラの指が、手袋の上で止まった。
「危険区域は、支援着弾時に更新される」
「更新前に通信が断たれます」
「現時点では断たれていない」
「追加条件に入ります」
訓練場が静かになる。
壁際の教官は、まだ何も言わない。
ただ、視線だけが通信札へ落ちている。
エレオノーラは、わずかに顎を引いた。
「貴官は観測補助だ。判断ではなく、記録を行え」
「記録対象です」
「それは判断だ」
「危険区域線にかかっています」
一拍。
エレオノーラは反論しなかった。
訓練盤へ向き直る。
「続行する」
「はい」
駒が再び動く。
支援射撃札が確定する。
敵前衛の後方に火力支援範囲が描かれる。
側面敵がさらに進む。
その時、教官が淡々と追加条件を告げた。
「通信断絶」
通信札が伏せられる。
候補生たちの指が止まった。
エレオノーラはすぐに指示を出す。
「主力小隊、前進継続。側面警戒小隊は北側を維持」
悪くない。
判断は速い。
だが、代替指揮系統記入板は空欄のままだった。
主力小隊はエレオノーラの指示を継続する。
側面警戒小隊は、直前の命令のまま北へ進む。
観測班は高地に残る。
支援射撃札が、観測班の端を飲み込んだ。
ヴィクトリアの筆が、また動いた。
エレオノーラは見ていた。
今度は、止めなかった。
訓練盤の上で、上級候補生の指揮は崩壊していない。
敵前衛は止まる。
側面敵にも対応している。
補給倉庫も完全には失っていない。
勝てない盤面ではなかった。
だが、撃った瞬間に味方が消える盤面だった。
エレオノーラは、唇を引き結んだ。
「アイゼンベルク候補生」
「はい」
「貴官なら、どこを修正する」
隣の上級候補生が、エレオノーラを見た。
言うな。
もう遅い。
エレオノーラは続けた。
「答えろ」
ヴィクトリアは一拍置いた。
「命令ですか」
再び、その問いだった。
エレオノーラは、今度も引かなかった。
「そうだ」
「承知しました」
ヴィクトリアは記録板を置いた。
訓練盤の前へ出る。
初めて、上級候補生たちの前に立った。
誰も止めなかった。
ヴィクトリアは、敵札を見ない。
まず、味方の線を見た。
「支援射撃、待機」
上級候補生の一人が、わずかに眉を動かす。
「観測班を高地西側へ下げる」
駒が動く。
「支援範囲を半区画後方へずらす。補給倉庫を危険区域から外せ」
駒が動く。
「通信断絶時、第二小隊の命令権を側面警戒指揮へ移す」
代替指揮系統記入板に線が引かれる。
「指揮官負傷時、支援射撃要請権を観測班から主力小隊長へ移譲」
上級候補生の一人が、息を止めた。
ヴィクトリアは続ける。
「側面警戒小隊、独断前進を禁止。敵側面部隊の拘束に留める」
エレオノーラが言った。
「敵前衛は」
「支援射撃で止める」
「範囲をずらせば、制圧力が落ちる」
「味方観測班が残ります」
「主要評価項目の達成度が落ちる」
「友軍損耗判定も落ちます」
その場にいた上級候補生たちが、訓練盤を見た。
確かに、そうだった。
戦果は少し落ちる。
だが、友軍駒が消えない。
補給倉庫も残る。
指揮官負傷札を置いても、命令系統は割れない。
ヴィクトリアは敵を見ていなかったわけではない。
敵を見る前に、味方がどの命令で動くかを見ていた。
エレオノーラは、何も言わなかった。
ヴィクトリアは最後の線を引いた。
「演習継続可能です」
教官はすぐには言わなかった。
訓練盤の支援射撃範囲を見る。
高地西側へ下げられた観測班を見る。
伏せられた通信札を見る。
代替指揮系統記入板を見る。
最後に、補給倉庫模型の位置を見た。
「盤面、保存」
記録係が動いた。
エレオノーラの肩が、ほんのわずかに下がる。
処分ではない。
叱責でもない。
ただ、保存。
それが一番重かった。
ヴィクトリアは訓練盤から一歩下がった。
「観測補助に戻ります」
誰も返事をしなかった。
午後の訓練が終わる頃、第四訓練場の空気は朝とは変わっていた。
エレオノーラは最後まで訓練を続けた。
声は乱れなかった。
指示も崩れなかった。
上級候補生としての姿勢は保っていた。
だからこそ、彼女が理解したことは、周囲にも分かった。
ヴィクトリアは上級候補生を倒したのではない。
学院の序列表の外から、火力と命令系統を修正した。
翌朝。
東棟側の回廊で、エレオノーラはヴィクトリアとすれ違った。
今度は、道を塞がなかった。
ヴィクトリアが近づく。
エレオノーラは敬礼した。
昨日より、正確だった。
ヴィクトリアも返礼する。
言葉はない。
軍靴の音が、互いの横を通り過ぎる。
エレオノーラは振り返らなかった。
ヴィクトリアも振り返らなかった。
その日の記録には、短く残された。
帝立軍官学院、第百十二期上級候補生訓練補助。
課題、二正面接触下における支援射撃要請および指揮継承確認。
観測補助、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生。
指摘事項六件。
教官確認後、重大三件を修正。
支援射撃危険区域修正。
代替指揮系統補記。
指揮交代後、演習継続可能。
訓練盤面、保存。
備考。
当該候補生、上級候補生訓練に対する観測・修正能力を確認。
火力統制および指揮継承に関する判断、年次基準外。
候補生間序列への影響、継続観察。
記録官は、その備考欄を見て、一度だけ筆を止めた。
年次基準外。
その言葉は、学院では本来、使わない。
だが、消されなかった。




