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帝国の華 外伝 戦場の英雄、黒鷹――ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの記録  作者: 帝国の華


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第六記録 学院序列・前

 翌朝、東棟側の回廊は静かだった。


 昨日の第三演習場のことを、誰も大声では話さない。


 だが、誰も忘れていなかった。


 軍用術式銃で標的を倒した候補生たちが見たもの。

 遮断幕二枚では足りない、と言った十四歳の候補生。

 基準出力八分相当で、仮想敵部隊を機能喪失させた紫電。


 その名は、朝の点呼より前に東棟を通っていた。


 ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。


 新入候補生総代。

 候補生監督補佐。

 国家戦略級術者指定済。


 廊下でその名を出す者はいない。


 ただ、軍靴の音が近づくたびに、候補生たちの姿勢が少しだけ変わった。


 回廊の端で、三年次候補生が一人、足を止めた。


 濃紺の候補生外套。

 成績章付きの襟章。

 上級候補生監督班所属。


 エレオノーラ・フォン・グライフェルト。


 侯爵家の娘。

 三年次上位。

 中央軍参謀課程への推薦候補。


 彼女は、廊下の向こうから歩いてくるヴィクトリアを見ていた。


「やめておけ」


 隣にいた候補生が、低く言った。


 エレオノーラは視線を動かさない。


「何をだ」


「相手はアイゼンベルクだ」


「そんなことは、知っている」


「昨日の術式測定を見なかったのか」


「見た」


「なら、なおさらだ」


「だから確認する必要がある」


 声は静かだった。


 だが、引く気配はなかった。


 隣の候補生が、わずかに眉を寄せる。


「おい、何を確認するつもりだ!」


「後輩の能力を。あくまで候補生監督補佐の権限範囲でだ」


「教官へ照会すればいい」


「照会すべき内容かどうかを、まず上級候補生として確認する」


「お前、本当にやめておけってーー」


 エレオノーラは、手袋の皺を直した。


 動作は丁寧だった。

 背筋も、敬礼角度も、乱れていない。


 ただ、その目だけが固い。


「私はアイゼンベルク公爵家へ異議を唱えるのではない」


「彼女に異議を唱えればそれは同じ事だ」


「違う」


 エレオノーラは、短く切った。


「家格については承知している。グライフェルト侯爵家は、アイゼンベルク公爵家に劣る」


 隣の候補生は黙った。


「だが、ここは帝立軍官学院だ」


 彼女は、回廊の中央を歩いてくるヴィクトリアを見た。


「学院序列では、私が上だ」


 その言葉は、静かに落ちた。


「三年次上級候補生監督班所属として、一年次候補生監督補佐の越権を確認する。それだけだ」


「一年次候補生、で済む相手ではない」


「学院に在籍する以上、候補生だ」


「国家戦略級術者だぞ」


「ならば、なおさらだ」


 エレオノーラの声は、少しも荒れなかった。


「そのような指定を受けた者が、年次序列を越えて動くなら、学院秩序に影響する。誰かが確認しなければならない」


「それをお前がやる必要はない」


「上級候補生監督班の役目だ」


「違う。お前の面子が心配なんだ」


 一拍。


 エレオノーラは、ようやく隣の候補生を見た。


「面子も、序列の一部だ」


 その答えで、隣の候補生は目を伏せた。


 正しい。


 あまりにも学院らしく、正しい。


 だからこそ、危うかった。


 ヴィクトリアの軍靴音が近づいてくる。


 彼女は回廊の中央を歩いていた。

 誰かを避けさせるためではない。

 ただ、規定通りの線を歩いている。


 それだけで、周囲が道を空ける。


 下級候補生が一歩退く。

 平民候補生が敬礼の角度を直す。

 上級候補生の会話が止まる。


 学院の序列が、彼女の前で先に動いていた。


 エレオノーラは、その動きを見た。


 顎を引く。


 そして、一歩も退かなかった。


 ヴィクトリアが数歩先で止まる。


 エレオノーラは敬礼した。

 ヴィクトリアも返礼する。


 無礼はない。


 ただ、空気だけが硬い。


「アイゼンベルク候補生」


「はい」


「上級候補生監督班、エレオノーラ・フォン・グライフェルト候補生だ」


「存じています」


 一拍。


 エレオノーラの眉が、わずかに動いた。


「ならば話が早い」


「ご用件を」


「候補生監督補佐として、上級候補生訓練の記録へ意見を出していると聞いた」


「必要があれば、報告します」


「誰にだ?」


「教官へ」


「上級候補生の訓練についてもか」


「記録対象であれば」


 回廊の空気が、さらに冷えた。


 後ろにいた候補生が、小さく息を飲む。


 エレオノーラは、ヴィクトリアを見下ろす位置にいた。


 年齢も、体格も、年次も上だった。


 家格だけが違う。


 そして、その違いは、誰もが知っている。


「アイゼンベルク候補生。貴官の家名、指定区分、これまでの評価記録については承知している」


「はい」


「だが、ここは帝立軍官学院だ」


「はい」


「学院には年次序列がある。候補生監督補佐は、教官の補助であって、上級候補生監督班の上位権限ではない」


「その通りです」


 即答だった。


 エレオノーラの視線が、ほんのわずかに止まる。


「ならば、本日午後の上級候補生訓練へ入れ」


「役割は」


「観測補助だ」


「記録提出先は」


「上級候補生監督班」


「教官ではなく?」


「まず監督班で確認する」


 ヴィクトリアは沈黙した。


 長くはない。


 だが、その沈黙で、周囲の候補生たちが動けなくなった。


「命令ですか」


 短い問いだった。


 エレオノーラの隣で、候補生が一瞬だけ目を閉じた。


 言うな。


 そういう沈黙だった。


 エレオノーラは引かなかった。


「上級候補生監督班としての指示だ。従え」


「承知しました」


 ヴィクトリアは、それ以上何も言わなかった。


 敬礼。


 返礼。


 軍靴の音が、回廊を抜けていく。


 残された上級候補生が、低く言った。


「お前、本当に分かっているのか」


 エレオノーラは、ヴィクトリアの背を見ていた。


「分かっている」


「違う。分かっていない」


 その声は、怒りではなかった。


 警告だった。


「昨日、遮断幕が割れたんだぞ」


「だからこそ」


 エレオノーラは答えた。


「だからこそ、学院の序列を確認する必要がある」


 隣の候補生は、もう何も言わなかった。


 回廊には、ヴィクトリアの足音だけが残っていた。


 午前の講義が終わる頃には、その話は東棟の隅々まで広がっていた。


 誰かが喋り回ったわけではない。


 上級候補生監督班の一人が、アイゼンベルク候補生を午後の訓練へ入れた。


 それだけの話だった。


 だが、東棟では十分だった。


 食堂の列で、候補生たちの会話が一度止まる。

 資料室で、上級候補生が記録棚の前に立ったまま動かない。

 西棟へ向かう渡り廊下では、平民候補生の二人が声を落とした。


「本当に入るのか」


「上級候補生訓練に?」


「観測補助だそうだ」


「誰が命じた」


「グライフェルト候補生」


 一拍。


「……止められなかったのか」


「止めたらしい」


「それで?」


「行くらしい」


 その会話は、軍靴の音が近づくと消えた。


 しかし既に身分を問わず学院一年次の間で、アイゼンベルク候補生とグライフェルト候補生が午後の訓練で顔を合わせるらしい、という噂が広がり始めていた。


 

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