第四記録 個別戦闘適性演習
第二演習場は、乾いていた。
午前の白い日光が、石壁の上部にだけ差し込んでいる。
床には薄い砂が撒かれ、軍靴が動くたびに、革具の軋みと金属札の触れる音が小さく響いた。
帝立軍官学院第二演習場。
個別戦闘適性を測定するための区画である。
模擬市街区画。
障害踏破区画。
射撃区画。
白兵処理区画。
負傷者搬送区画。
帰還報告区画。
候補生は、単独で指定経路を突破する。
評価対象は、速度だけではない。
装備保持。
射撃精度。
白兵対応。
障害突破。
負傷者搬送。
命令遵守。
帰還後の状態。
報告の過不足。
演習場の壁際には、教官団と記録官が並んでいた。
その後方には、二年、三年の上級候補生もいる。
第一合同指揮演習のあと、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの名は、学院の中で静かに広まっていた。
十四歳の新入候補生。
新入候補生総代。
候補生監督補佐。
橋梁保持演習で、主目標を落とさなかった候補生。
ただし、この演習は盤上ではない。
指揮ではなく、身体。
命令ではなく、動作。
線ではなく、足。
十七歳の候補生たちは、そう考えていた。
ここなら、体格差が出る。
ここなら、年齢差が出る。
ここなら、十四歳の例外も、ただの候補生になる。
誰も、それを口には出さなかった。
演習は、番号順に進んだ。
最初の貴族候補生は速かった。
姿勢もよく、射撃も整っている。模擬市街の角を回る動きに無駄が少ない。
ただ、負傷者搬送区画で速度が落ちた。
背負い直しが一度。
装備紐の緩みが一度。
帰還報告は、やや長かった。
記録官が紙へ記す。
次の平民候補生は、障害への慣れがあった。
低い姿勢で障害を越え、搬送も実務的だった。
だが射撃で一発外した。
帰還時の呼吸が荒い。
それでも、悪い成績ではない。
候補生たちは十分に優秀だった。
だからこそ、差が見えた。
「次」
戦術教官が名簿を見た。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生」
「はい」
ヴィクトリアは、短く答えた。
十四歳。
他の候補生より小柄だった。
黒い候補生制服。
銀縁の高襟。
白い手袋。
低く束ねた淡金の髪。
装飾はない。
彼女は開始線の前で停止した。
余分な動きはなかった。
「課題を確認する」
「はい」
「模擬市街を通過。射撃標的五。白兵処理三。障害区画を越え、負傷者想定一名を搬送。帰還後、状況報告。制限時間内に完了」
「承知しました」
教官が片手を上げた。
演習場が静かになる。
「開始」
金属音が鳴った。
ヴィクトリアは走った。
速かった。
だが、派手ではない。
砂を大きく蹴り上げない。
軍靴の音が乱れない。
壁際で速度を殺しすぎない。
角を曲がる時、身体が膨らまない。
模擬市街区画の最初の標的が立ち上がる。
射撃。
一発。
次の角。
一発。
余分に撃たない。
命中を確認するための視線も短い。
白兵処理区画では、模擬敵が三体出た。
ヴィクトリアは止まらなかった。
最初の相手の腕を崩し、身体を斜めに抜く。
二体目の踏み込みを外し、足元を止める。
三体目は、肩を落として進路だけを開いた。
倒しきらない。
必要な分だけ、通る。
教官の一人が、初めて記録板から顔を上げた。
障害踏破区画。
高壁。
低柵。
砂溝。
狭路。
ヴィクトリアは高壁を越える時、手袋を汚さなかった。
低柵を抜ける時、外套の裾を引っかけない。
砂溝では足を取られず、狭路では肩幅を一度で合わせた。
上級候補生の一人が、小さく息を止める。
速い。
だが、それ以上に。
無駄がない。
負傷者搬送区画に入る。
白い人形が、片脚損傷想定で置かれていた。
搬送姿勢を間違えれば、減点される。
ヴィクトリアは屈んだ。
一度、固定具を見る。
次に、復路を見る。
最短路ではなく、床砂の薄い通路へ視線を移した。
人形を担ぐ。
候補生たちの視線が集まる。
体格差が出るはずだった。
出なかった。
ヴィクトリアの速度は落ちた。
だが、崩れなかった。
搬送対象の頭部は揺れない。
装備も落ちない。
呼吸だけが、わずかに浅くなる。
帰還線を越えた。
金属音。
終了。
記録官が時間を告げる。
演習場の空気が止まった。
上級候補生基準。
その数字が、教官席の端で小さく書き込まれた。
「報告」
教官が言った。
ヴィクトリアは姿勢を正した。
「模擬市街通過。標的五、処理。白兵区画、通過。障害区画、通過。負傷者想定一名、搬送完了。装備損耗なし」
報告は短かった。
息は少しだけ浅い。
だが、声は乱れていなかった。
教官が問う。
「最短路を使用しなかった理由は」
ヴィクトリアは即答しなかった。
一拍だけ、床の砂を見た。
「帰路が崩れる」
それだけだった。
教官は表情を変えない。
「負傷者搬送時、速度を落とした理由は」
「揺れます」
「対象は人形だ」
「損傷想定です」
演習場の端で、誰かの喉が小さく鳴った。
ヴィクトリアは視線を動かさない。
教官は、記録官へ目を向けた。
「記録」
紙の音が増えた。
平民候補生の一人が、敬礼の角度を直した。
貴族候補生は、ヴィクトリアではなく、教官席の記録紙を見た。
上級候補生だけが、記録官の手元から目を離さなかった。
手に負えない暴力ではない。
命令を守ったまま強い。
その事実だけが、演習場に残った。
「アイゼンベルク候補生」
「はい」
教官は、演習表の下段をめくった。
「追加課題」
候補生たちの空気が変わった。
追加課題は、通常、演習失敗者へ課されるものではない。
この場では違った。
上限を見るための課題だった。
「装備重量を増加。搬送対象二名。制限時間短縮。再走」
ヴィクトリアは問わなかった。
「承知しました」
白い人形が二体に増やされる。
装備札に、追加重量の印が付く。
制限時間が短く書き換えられる。
候補生たちは黙っていた。
これは、他の候補生には課されていない。
ヴィクトリアだけが、測られている。
「開始」
金属音が鳴った。
ヴィクトリアは再び走った。
今度は、わずかに遅い。
当然だった。
重量が増えている。
搬送対象も二名。
制限時間は短い。
それでも、崩れない。
射撃は必要数だけ。
白兵区画では、進路を開く分だけ処理する。
障害区画では、速度より荷重の向きを優先する。
一体目を固定。
二体目を引く。
搬送点を通過。
帰還線へ戻る。
途中で、左手の手袋が石壁に擦れた。
白い布地に、薄い汚れがつく。
ヴィクトリアは見なかった。
帰還線。
金属音。
終了。
記録官が時間を告げた。
制限内。
演習場の沈黙が、長くなった。
誰も歓声を上げない。
教官も褒めない。
ただ、紙だけが増える。
「報告」
ヴィクトリアは姿勢を正した。
「再走、完了。標的処理、規定数。搬送対象二名、帰還。装備損耗、軽微。任務継続、可能」
敬礼を解いたあと、左手の指が一拍だけ遅れた。
ヴィクトリアは、その手を下ろした。
教官の目が、手袋へ落ちる。
記録官の筆先が、わずかに止まった。
「医務確認へ回れ」
「任務に支障はありません」
答えは早かった。
早すぎた。
教官は数秒だけ黙った。
「確認へ回れ」
「承知しました」
ヴィクトリアは敬礼した。
退場する背中を、候補生たちが見ていた。
今度は誰も、年齢の話をしなかった。
医務確認室は、第二演習場の北側にあった。
白い壁。
消毒液の匂い。
金属盆の音。
薄い日光。
軍医は、ヴィクトリアの手袋を外させた。
左掌の皮膚が、薄く擦れている。
出血はわずかだった。
「痛む箇所は」
「ありません」
軍医は返事をせず、掌を見た。
白い指先に、砂が少し残っている。
「掌」
「任務に支障はありません」
「痛むか、と聞いています」
ヴィクトリアは黙った。
時計の針が、一つ進む。
「ありません」
同じ答えだった。
軍医は金属盆に消毒布を置いた。
小さな音が、白い部屋に広がる。
「処置します」
「不要です」
「処置します」
同じ言葉が返った。
ヴィクトリアは、それ以上は言わなかった。
消毒布が掌に触れる。
指先が一度だけ、わずかに強張った。
軍医は見ていた。
ヴィクトリアは見ていなかった。
包帯が巻かれる。
白い布が、左掌を一周する。
その上から、もう一度手袋が戻された。
「次の演習まで、左手への負荷を避けてください」
「予定に従います」
「医務所見です」
「承知しました」
軍医は記録欄に短く書いた。
擦過傷。
疼痛申告なし。
左手指、反応遅延軽微。
任務継続意思あり。
ヴィクトリアは、それを見なかった。
扉を出る前に、軍医が言った。
「アイゼンベルク候補生」
「はい」
「痛みがあれば、申告してください」
ヴィクトリアは、ほんの短く沈黙した。
「任務に支障があれば、申告します」
扉が閉じた。
軍医はしばらく、閉じた扉を見ていた。
それから記録欄へ、もう一語だけ足した。
要観察。
その日の夕刻、学院長室へ個別戦闘適性演習の記録が上がった。
学院長は、通常成績表を確認した。
次に、別紙を見た。
別紙には、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生の名があった。
個別戦闘適性、上級候補生基準を超過。
射撃、全標的命中。
白兵区画、通過。
障害踏破、良好。
負傷者搬送、一名および二名、完了。
追加課題、完遂。
命令遵守、完全。
疲労反応、軽微。
医務確認、擦過傷。
左手指、反応遅延軽微。
本人申告、支障なし。
学院長は、署名欄に筆を置いた。
通常の候補生成績表ではない。
評価記録の写しが作られた。
宛先は、学院内保管ではなかった。
元帥府。
閲覧指定、アレクシス・フォン・アイゼンベルク大将。
報告は、父親へ送られるのではない。
帝国軍大将へ回される。
同じ夜、元帥府の執務机に、その写しが置かれた。
アレクシス・フォン・アイゼンベルク大将は、最後まで読んだ。
表情は変わらない。
紙の端に、一語だけ書く。
継続。
それは、称賛ではなかった。
翌朝、学院の記録簿には一行が加えられた。
帝立軍官学院、第百十二期個別戦闘適性演習。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生。
基礎走行、上級候補生基準超過。
射撃、全標的命中。
白兵区画、通過。
装備損耗、軽微。
負傷者搬送、完了。
追加課題、完遂。
疲労反応、軽微。
備考。
当該候補生、単独戦闘適性および命令遵守性、通常評価上限を超過。
追加負荷試験の対象とする。
元帥府写し、送付済。
継続観察。
演習場には、翌日も砂が撒かれていた。
ヴィクトリアの足跡は残っていない。
記録だけが残った。




